私が最後に顕進様の講演を聞いたのは、2008年11月、GPF大会の時でした。あれからもう9年になります。その間、顕進様について伝え聞いてきた話は山ほどありました。映像でもその姿を拝見してきました。しかし、先日2日のFPA創設大会にて、直接触れた顕進様の御言は、9年の歳月を越え、ダイレクトに心に響き、私自身を自らの「原点」に立ち返らせてくれるものとなりました。
私はFPAの意義を公式的に語れる立場ではありません。また、自らの感想は、今暫く、自らの胸の内に留めておこうとも思いました。しかし、参加しようにも参加できない状況にあった、多くの方々に向け、参考までに、私自身の思うところを述べてみたいと思います。
私が公職を始めたのは98年夏、奇しくも、顕進様が家庭連合の世界副会長として就任された、その頃でした。当時、私が二世教育を始めた理由は、未来の希望やビジョンゆえではなく、二世の置かれた現実と危機感ゆえでした。しかし、顕進様を通して、私は二世が向かうべきビジョンを知りました。また、そこから3年後、様々な教会の現実を垣間見ながら、葛藤を覚えていた頃、顕進様が当時のリーダーたちを前に示された姿勢が、私自身に「公職」を歩む者としての動機を与えてくれました。
「私がお父様から受け継いだものは『教会の後継者』の立場などではない。私がお父様から受け継いだものは『神の摂理』だ!」と言われ、「神の摂理成就のためなら、別の基盤を立ち上げたほうが早いとも思った。しかし、この教会は父母様が愛した教会であり、お父様の呼びかけに応じたのが祝福家庭だった。だから私はここにどんな不足があろうとも、共に背負って立つことを天に誓ったのだ」と語られました。
また、教会に批判的になり易い二世たちに対して、「ある家の屋根が吹き飛ばされるのを見た時、その家の主人は批判や評価をする前に、それを必死に直そうとするだろう。責任をもとうとするものが主人なのだ」と教えられました。その時の教えが、この教会に対する私自身の姿勢となりました。課題を発見する時、批判したい思いになる時、いつもその教えに立ち返らされたのです。
顕進様自身、家庭連合に対する強い責任心情をもっておられました。むしろお父様から叱責されるような立場に立ちながらも、当時、この運動の進む方向性に異を唱えたのは、家庭連合に対する責任心情ゆえだと、私は思います。2012年、お父様の聖和を踏まえ、顕進様はいよいよ、「私は家庭連合が進む方向性とは別の道に進まざるを得ない」と発表され、教会ではこれを「顕進様の教会に対する決別宣言」として伝えましたが、顕進様はそれでも、即、別の「団体」を立ち上げようとはされませんでした。
教会では便宜上、「郭グループ」「UCIグループ」という呼称を用いましたが、それは「サンクチュアリ教会」等とは違って、公式的な団体名ではなかったのです。顕進様が別の団体を立ち上げなかったのは、「家庭連合」に対する心情ゆえだと、私は思います。
だからこそ、昨年だったでしょうか、顕進様が「FPA」(Family Peace Association:家庭平和協会)の発足を提唱されたと伺った際、複雑な思いになりました。私はあくまで、多くの有志と共に、家庭連合を立て直し、いつか顕進様に「帰還」して頂きたいと願ってきたからです。
確かに、神の摂理はある意味、「冷徹」であり、「無情」と言えるでしょう。ユダヤ教然り、キリスト教然り、それまで、どんなに輝かしい歩みと涙ぐましい歴史を刻んできたとしても、中心人物の「一時の失敗」ゆえに摂理から外されてしまうのです。「神の摂理」という観点から見た時、今、「私たち」はどんな立場にあるのだろうか―。そのことを、いつも思わされてきました。
極めて理性的に、無慈悲に捉えるなら、私は正直、私たちの現状に対して「深刻」に考えざるを得ませんでした。しかし「感情」はそう簡単に割り切れるものではありません。この辺りの思いは、恐らく私は、家庭連合に残って責任をもとうとしている方々と変わらない思いを持っているのだろうと思います。
しかし、今回、FPA創設大会における顕進様のメッセージを伺いながら、それ以上に深い、顕進様の心情世界に触れました。
顕進様のスピーチは、原理の本質的な内容から始まりました。神の創造目的は「神を中心とした家庭」にあり、神の復帰歴史はその家庭を探し立てるためにあったこと。また、父母様の生涯路程は、その神様の願いを果たすことにあり、そのためにあらゆる犠牲を払ってきたこと―。お父様の生涯の歩みに触れる辺りから、顕進様は何度も言葉を詰まらせ、涙を拭われました。
そして、1998年、就任当時のことに触れながら語られました。「私は息子として、父の思いを共有した者として、夢を成し遂げると誓った」「今日、私はFPAの創設を通して、その時の約束を果たして行きたいと思う」と。
顕進様にとって、FPA創設にかける思いとは、98年の時の「あの日の約束」でした。父母様から受け継いだ「神の夢」を果たすこと―。それが顕進様を突き動かす思いであることを、改めて知らされました。組織論とか、方法論とか、そうしたものを越えた、もっと根本的で、心情的で、純粋で、真実で、熱いものを感じました。
現実は複雑です。しかし、全ての人が最初に神様に出会った時、御旨を知った時、この道に献身することを誓った時、それはもっと純粋で、真実で、熱い心情が動機であったに違いありません。
FPA創設ということについて、私にはまだまだ分からないことも多く、整理のつかないこともあります。しかし、「頭」というよりも、「魂」に、何か熱い思いが刻まれたように思いました。「原点」に立ち返って考えて行きたい―、今はそれだけを思っています。
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Re:真の父母様とういう観点
>ブログ全般をみて、読み込めてはないですが、「真の父母様」が「絶対」と捉えるかどうかだと思います。(略)FPA創設し、神様のみ旨と信じて歩んでおられるのは顯進様であって、顯進様と共に歩んでおられる兄弟姉妹だと思います。神様と一体となった真の父母様の思いはどう理解されてるのでしょうか?
コメント、ありがとうございます。
質問者さん(すみません、お名前が長くて…^^;)のご指摘は、「ここで言う『神の御旨』は『顕進様の考え』であって、『父母様の思い』が度外視されていないか?」という内容かと思います。おっしゃる通り、(神様と)「父母様」をどう見つめるかが全てのポイントになるに違いありません。
実は、顕進様が食口に問われている4つの根本問題のうちの第一の質問が「摂理の中心は神様か父母様か」です。私や母は「神様」だと思っており、「神様を中心とした生涯」を歩まれたのが「父母様」だと思っています。また、言い方を変えれば、父母様の「絶対性」は神様から来るものであり、また「神様の御旨に対する父母様の姿勢」が絶対的なのだと思っていますが、父母様が「完全無欠」で「無謬」だという意味ではありません。誤った情報が入れば、誤って認識されたり、判断されることもあると思っています。(無論、それは顕進様も同じであり、顕進様が完全無欠で無謬だとも思っていません。)
尚、「父母様の思い」(最も根本的な願い)は「神様の願い」を果たすことであって、「組織的」観点をいったん離れ、純粋に「原理的」「摂理的」観点から見る時、顕進様はその「神の願い」にまっすぐ立っておられる方だと思っています。そのため、「父母様の願いはどこに行ったのか」という質問について言えば、それこそ、顕進様の思いは父母様の(最も根本的な)願いを果たすことであり、神様、父母様の思いは顕進様の歩みの中に結実している、と感じています。
恐らく、この回答は、さらなる質問を呼び込むかもしれませんが、この点は根本問題なので、他の本文でも扱っており、また、今後も大切なテーマとして、挙げていくことになるかと思います。取り急ぎ、回答します(汗)
櫻井正上
2017-12-07 18:51:17
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