先日、某アイドルが自殺した。
ここではあえて詳細に触れない。
気になったのは彼の残したとされる遺書の内容。
引用部分も長いから飛ばしてもらっても構わない。
(※はてなブックマークのコメントへの返信を追記しました。返信方法がよくわからないネット音痴なので本文にて失礼します!)
以下Twitterの投稿から引用。
僕は内側から故障した。
少しずつ、僕をむしばんでいた憂鬱が、最後には僕を飲み込み
それに打ち勝つことが出来なかった。僕は僕を憎んだ。途絶える記憶を手にして、いくらしっかりしろと叫んでみても答えはなかった。詰まる息を楽にしてあげられないのなら、いっそのこと止まったほうがいい。
僕の責任をとれるのは誰かと聞いた。お前だけだ。僕は完全に一人だった。終わらせるという言葉は簡単だ。終わらせるのは難しい。
その難しさで、今まで生きてきた。
逃げたいと言った。そう、僕は逃げたかった。僕から。お前から。
そこにいるのは誰かと聞いた。僕だと言った。そして僕だと。もう一度僕だと言った。何でしきりに記憶をなくすのか聞いた。性格のせいだって。そうですか。結局は全て僕のせいなんですか。気づいてほしいと思ったけど、誰も知らなかった。僕に会ったことがないから、僕がいるかどうかも知らないのは当たり前。
何で生きるのか聞いた。ただ。ただ。みんなただ生きるんだって。
何で死ぬのか聞いたら、疲れたって言うだろう。
苦しくて悩んだ。うんざりする痛みを歓喜に変える方法を学んだことはなかった。痛みは痛みにすぎない。
そうするなって自分を促した。
なぜですか?僕は何で自分の思うままに終わりも決められないんですか?
何で辛いのか探せと言った。
すごくよく分かってる。僕は自分のせいで辛い。すべては僕のせいで、僕がダメだからだ。
先生、この言葉を聞きたかったんですか?いいえ。僕は間違ったことなんてない。ゆったりした声で僕の性格を責めるとき、医者はすごく簡単だと思った。
何でこんなにも辛いのか不思議なほどだ。僕よりも辛い人たちもちゃんと生きてたのに。僕よりも弱い人たちもちゃんと生きてたのに。違うみたいだ。生きている人の中で僕より辛い人はいないし、僕より弱い人はいない。それでも生きろと。
何でそうすべきなのか何百回聞いても、僕のためではない。お前のためだ。僕のためでありたかった。お願いだから、知らない口を聞かないでください。何で辛いか探せなんて。何度も言ったじゃないか。何で僕が辛いのか。それでこんなに辛くちゃ駄目なのか?もっと具体的なドラマがないといけないの?もっと事情がないといけないの?
もう話したじゃないか。もしかして、聞き流したんじゃないのか?打ち勝てるものは傷跡として残らない。世の中とぶつかり合うのは、僕の役目ではなかったみたい。
世の中に知られることは、僕の人生ではなかったみたい。
だから、全て辛かったんだ。ぶつかったから、知られたから辛かったんだ。何でそれを選んだんだろう。笑えることだ。今まで耐えてきたことが偉いよね。
他に言葉がいるかな。ただお疲れ様って言ってくれ。
これだけよくやったと。ご苦労様って言ってくれ。
笑えなくても、責めながら見送らないでくれ。お疲れ様。
本当にご苦労様。
さようなら。
引用おわり。
これを読んでほんの数ヶ月前の自分を思い出した。
自分も死ぬ一歩手前だったのだと思う。
遺書にあったように、ドラマ性のある理由など無かったが、とにかく生きるのが辛かった。ほかの人から見れば私はただの根性無しだろう。自分より辛い人なんてたくさんいるが、生きている。だけど私は特別弱い人間で、この世の全てに対して恐れをなしていた。
そんな弱い自分が普段の明るい自分とあまりに乖離していて、世間には隠すしかなかった。
毎日が苦しかった。この時には明確な理由が無くとも、ところ構わず涙が出てきて止まらなくなっていた。わけもなく職場で泣いていると上司に「大丈夫か」と声をかけられるが、大丈夫なはずがない。でも大丈夫としか言えなかった。
仕事だって手につかず、文章を考えようとしても鬱が思考回路を食ってしまい、何も考えられなかった。
薬を飲んでいたが変わらず、毎日が苦しかった。次第にこの苦しみから解放されたいと願うようになった。苦しみから解放される方法、それは死ぬこと。
死にたかったわけではない。ただ解放されたかっただけ。結果的にそれが死ぬことでしかなし得なかっただけだ。
いつしか自分の頭の中で「死んでしまえば楽になる」という自分と「生きなければだめだ」という自分の二人が争うようになった。
夜になると、死ぬべきという悪魔のような自分が暴れだし、鮮明に自分が死ぬ時の映像が浮かぶ。幻覚とはまた違うが、目を閉じれば首を吊ったり、風呂場で血まみれになったりして命を絶った自分の映像が浮かび怖くなったのを思い出す。
医師に相談したところ「死にそうになったら頼れる友人に連絡を取りなさい」と言われた。信頼できる人たち5人ほどに理由を説明して、もし本当に死にたくなったら私から連絡するから死なないよう諭して欲しいという旨と、電話に出られずその後私が本当に死んでしまったとしても自分を責めないで欲しいという旨を話した。
みな快く引き受けてくれた。きっと聞きたいこともあったろうに、何も聞かずに「いいよ」と言ってくれた。
最初は「メンヘラ」という一言で片付けられてしまうかもしれないと恐れ、相談するのをためらっていた。でも周りのみんなは思ったよりもあっさりと受け入れてくれた。本当に優しかったし救われた。感謝の言葉しかない。
また、時々自分の中で「生と死」に関する疑問に悩まされる時もあった。その度に、答えへのヒントを持っていそうな人に知恵を借りた。こんなにくだらない質問にも親身になって考えてくれて、納得できる助言をたくさんもらった(プライベートな内容だから頂いた返信は載せられない)。
とても励まされた。
今でも答えは見つからないけど、それを考えるために与えられた「生」なのかもしれない。
というように、私も数ヶ月前は生きられないかもしれないと思ったけれど、今は生きている。
(半年ほど前のこと。死ぬ方法まで決め、会社を欠勤し遺書を書きいざ首を吊ろうとしたところ、一年ぶりに弟から連絡がきて遺書を書くのがめんどくさくなってやめたという未遂に至らない未遂事件もあった。その後心配した会社の上司と先輩が家に来た。とんだお騒がせ人間である)。
死にたいと思う人は、医師でもなく親でもなく、友人に相談すればいいと思う。友人がいなければ、親でもいい。踏みとどまらせてくれるはずだ。
それでも死にたいと思うならば、その人にとって生きることよりも死ぬことの方が幸せかもしれないから、こちらからは何も言えない。より幸せになれる選択をする権利は誰にでもあるだろう。
でも、やっぱり私は生きていて欲しいと思うな。なんなら私が相談乗るし。
どうか一人で抱え込まないで欲しい。死が最善の選択だなんてことはおそらくあまりないはずだから。
そして、医師が合わなければすぐに変えること。私も1度病院を変えた。その先生はとても良い人で、カウンセラーでもないけど話をよく聴いてくれた。
薬はあくまで対症療法。一番は人に話を聞いてもらうこと。カウンセラーでなくても構わない。だけど友人や親や職場の人は心理学のプロではないから、話を聞いてもらうだけにするのがよい。万が一耳障りの悪いことを言われても、「プロじゃないから仕方ない」と割り切ればいい。
病気をよく知らない人たちからは「気の持ちよう」「気分屋」だとか言われたし、同じような病を持つ知人を「根性が足りない」と言う人もいた。
恨みはしない。理解せよと強制もしない。五体満足で生まれた以上身体的障害をもつ人の本当の悩みや苦労を真に理解することは難しいのと同じだ。
ただ、こういう人もいるんだよと知って欲しい。
そんな感じのお話でした。
今はとても元気。今後どうなるかはわからない恐怖と戦っているけど、再び同じような状態になったらなんとかしたい。
【追記】
頂いたはてなブックマークのコメントへの返信。はてブの使い方やマナーがよくわからないので、ここで返事をさせていただきます。
id:mituki383 周りの人に恵まれていたんですね。必ずしも頼れる人がいるとは限らないけど自分の為に遅くまで起きてくれたり、会社の上司が心配してくれるなんてめったにない環境だと思います。あなたが生きていて本当に良かった。
暖かい言葉をありがとうございます。
本当に恵まれていると思います。ここに書いていないだけで本当はもっとたくさん色んな人に救われています。そしてmituki383さんのコメントを読んで、やはり救われました。幸せ者です。苦しみも生きているうちしか感じないけど、幸せも同様です。生きていて良かったです。
id:koenjilala 確かに人に話を聞いてもらえるのはいいね。私の場合は対人恐怖があったのでむつかしかったけど。あと、相手を選ばないと変に励まされたりするからしんどいね。私の場合は合う薬と医師と環境の変化が一番の治療だった
コメントありがとうございます。相談する人は選びました。あまり大人数に伝えるのもかえってつらくなりそうなので。伝えた人はみな「頑張れ」とも言わずただ話を聞いてくれたので良かったです。
医師選びは本当に重要ですね。最初の医師には鬱と診断されましたが、今の担当には双極性障害と言われました。性格の合う合わないもありますしね。
こんな感じでいいのでしょうか。
なんか返信方法を間違えている気がするけど、よくわからないので本文にて返信しました。