東浩紀「世界はいま、日本人の共感能力の欠如に苛立ち始めている」
批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
* * *
ソルジェニーツィンという作家がいる。ソ連時代の収容所経験を描いた作家で、1970年にノーベル文学賞を受賞した。いまモスクワではこの作家の像を建てる計画が進んでおり、コンペが行われている。偶然モスクワにいたので、候補作展示の会場をのぞいてみた。
ソルジェニーツィンは複雑な作家である。スターリニズム批判の急先鋒(きゅうせんぽう)だが、熱烈な愛国者でもある。それゆえ右でも左でも毀誉褒貶相半ばしている。そのような作家なので、彫像の造形ひとつとっても多様な解釈が現れる。体制批判の象徴と描くか、ロシアの国民作家ととるか。あるいは人類愛のような抽象表現に逃げるか。デザインには、収容所時代のソ連に対する制作者の距離が如実に反映されることになる。じつに見応えのあるコンペだった。
帰国したら日本では、慰安婦像建立をめぐるサンフランシスコ市と大阪市の確執が話題になっていた。保守陣営は、世界は従軍慰安婦について嘘を信じており、「正しい」情報を発信すれば日本の立場は理解されると主張している。しかしそれは問題の根本を見失っているのではないか。
像を建てること。それは単なる過去の記録ではない。アイデンティティーの表現である。歴史は複雑である。個々の認識には対立もあろう。しかしまずはそれぞれが過去を総括し、歴史化せねば話は始まらない。けれど日本人は、長い間その作業を怠ってきた。日本には国立の近代史博物館も追悼施設も存在しない。近代史の総括そのものが行われていない。だから他国民はなぜ歴史にこだわるかも理解できない。世界はいま、個々の事実認識以前に、日本人のその共感能力の欠如自体に苛立(いらだ)ち始めている。
ロシアと同じように、日本もアイデンティティーに問題を抱えている。いまの日本は戦前から切れているのか、つながっているのか。靖国や憲法改正が話題になるとき、焦点はつねにその対立である。けれど多くの日本人はそれを自覚していない。いっそのこと、日本でもソルジェニーツィン像のようなコンペをやったらどうか。だれの像を建てるべきだろうか。やはり三島由紀夫だろうか。
※AERA 2017年12月25日号