蓮山は、政党内閣の最後である犬養内閣まで何としても書きたいと思ったが、気力体力が失せてしまった。視力が落ちたことが一番大きかった。山浦貫一氏が加藤内閣まででも十分、早く出版にこぎつけようと尽力した。山浦にしてみれば、蓮山の命もあと少し、何としても存命中にこの大著を世間に出したい一心であった。時事通信社の長谷川才次社長に話をしたところ、快く引き受けてくれた。作業はとんとん拍子に進み昭和三六年二月の発行が決まった。その序文を山浦氏が添えてくれた。
「前田蓮山先生は、明治、大正、昭和の三代にわたり、政治評論家として、私どもの大先輩でナ。
板垣退助と面識があったと申しますから、年代においても、現存する最も古い先輩であります。ご承知のように先生は、現代においてもなおその声名を保っておられますが、原敬研究家として日本唯一の見識を持っておられ、原敬日記発表前、すでに上下二冊の原敬伝を書いておられますが、日記発表後は丹念にこれを読破され、改めて研究を深かめ、時事通信社発行の三代宰相列伝のうち、原敬を受け持ち、また本書においても、原敬に関する部分は、独特の解明を加えて、わが国の政治史に輝がやかしい足跡をとどめております。
いうまでもなく、原敬は影響力の強い政治家、わが国最初の平民宰相で、純粋な政党内閣を創設した民主政治の先駆者であり、その影響範囲はただに日木の地位を高めるにとどまらず国際的な幅を示しております。蓮山先生は、その波長を遺憾なく捉え、その及ぼす諸種の現象を描いてあますとろがありません。
先生は一面、政治哲学者として大いなる足跡を残しておりまナ。大著「政党政治の科学的検討」が示すとおり、英文の原書によって世界の政党政治をマスターし、これをわが国の政党発遠史に応用しておられます。
私が蓮山先生の知遇を得たのは、大正八年の頃でありました。そのころ日本一の大新聞であった時事新報に入社した当時のことでした。その編集局に悠然と姿を現す大記者蓮山先生の、日本人離れした風采に圧倒されました。金縁の鼻眼鏡、いつも葉巻をくわえ、モーニングコートに山高帽子といういでたちは、西欧から来た異人さんではないかと思わせました。(その歴史的鼻眼鏡は、先生が私に、これは君への形身だ、といって早くからいただいております。)
その年代に博文館発行の総合雑誌「太陽」が言論界に大きな権威をもっていました。先生は明治末期から大正の初めにわたり、十年間続けて政治の裏話を巧みに織りこんだ政治評論を書き続け、これが大評判となりました。材料は主として、政界の策士で同じ長崎の山身、枢密顧問官伊東巳代治からと聞いております。伊東は有名な記者嫌いでした。同郷の関係と、信頼のおける先生のほかは寄せ付けなかったと伝えられていまナ。その「太陽」時代に原敬の人物評が好評を博し、これに時事新報が惚れこみ、「太陽」執筆お構いなし、の条件で招聘したのであった、といわれます。私は蓮山先生の紹介で、原敬と面識を得るようになりました。
蓮山先生は今年八七歳、来年は米寿に達する高齢、病床にあってなお枕元にラジオのスイッチを入れて、政治に気を配っておられますが、私は早くこの本を完成して、その病床に捧げたいと思っております。
先生の経歴は多彩です。長崎という異国情緒豊かな土地に生まれ、幼にして神童の誉れ高く、幾度か郡長や県令から表彰されました。県の師範学校を卒業、その間特別に英語を習得して、早くも原書を自由に読みこなしたそうです。上京して高等師範や早稲田大学に学び、ある時には作家小杉天外に師事して雑誌を発行し、ある時代には早稲田系の東京毎日新聞に入り、これも明治、大正の大評論家鳥谷部春汀が長逝したあとを受けて、「太陽」に登場したわけです。
蓮山先生は六〇年のジャーナリストです。しかし新聞社の行政事務に携わったことは一度もありません。編集局長とか、政治部長とかの仕事ではなく、純粋に筆一本の記者、それも大記者として一貫されました。私事を申して恐縮ですが、その弟子筋の末輩である私も先生にあやかつて、新聞四〇年、一度も行政事務に携わってたりません。ついに大記者でない点は、師匠の名をはずかしめるものと深く恥じております。
先生は、いわゆる清貧の生涯を一貫されておりまナ。政界に深くタッチして、しかも政治家とのヒモつきでなく、つねに対等の交際を続け、探訪記者で、なかった故もあって自らを卑しめず、遊蕩の街にも出入されながら、家庭生活は清潔温和でありました。そしてその思想は年齢とともに老化ずることなく、毎々新しい方向を求めておられました。その一つの現われは、先生の文章です。文部省の新カナづかい、漢字制限に努め、いやしくも高踏難解の文章を自戒しておられます。
本書は、過去八年間にわたり、都道府県選挙管理委員会連合会の機関誌「選挙」に連載されて好評を博したものであります。先生の目標は、犬養内閣まで、ということになっていましたが、健康上、執筆が困難になりましたので、残念ながら加藤高明で打ち切られました。しかしこれだけで、日本内閣史の移り変わりを知るには十分、絶好必読の大篇であると信じます。」
年が明けて、発売時期が二月一〇日に決まったところで、長谷川社長の提案で「出版記念会」を帝国ホテルで二月一四日に催すことになった。招待者は山浦貫一氏をはじめ、細川隆元氏ら政治評論家二〇余人に案内状が送られた。
蓮山は主役として出席を要請されたが、体調は戻らず子息又太郎氏が代理で出席することになった。
そこで挨拶を録音して当日流すことにした。テープに録音して挨拶するためにその文案を書いてそれを読み上げる。その原稿は目が見えづらいことから、蓮山は原稿用紙に筆で大きな文字を書いてみた。しかし書く途中で疲れてしまい、自分が口述するから息子に筆記してくれと言った。筆記した原稿を蓮山が読みやすいように、筆で大きな文字で仕上げ、それを読み録音テープに収めた。当日、会場で蓮山の肉声が流れた。
「本日は私の著述の出版記念会を設け下され、お招きにあずかりましたが、わたくしは本年八八歳になりまして、足腰不自由でありますから、甚だ失礼ながら録音をもってお礼かたがた、ちょっと所感を述べさせていただきます。
私のこの著述は天皇統治時代に政治に関し、世上に伝えられた諸説を整理して、私が真実と信じずるところを書き残したいと考えたことに始まり、選挙という月間雑誌に明治以来の歴代の内閣が行った政治中、重大な事件を連載することに致しました。幸い雑誌の編集者も私の希望を容れて、その第一回を載せたのが七年前、私が八一歳の時であります。所が何分にも老人のことで、その内座って居ることが困難となり、横臥して書き続けました。
所が今度は視力が衰え、虫眼鏡で参考書を読みましたが、とうとう虫眼鏡でも読めなくなりました。実は犬養内閣まで書くつもりでありましたけれども、中止するより外はありません。これで私の一生の仕事は終わりと致します。今は神様が天国に召される日を待つのみでございます。
こう申しますと、お前のような人聞は地獄よりほかに行くところはあるまいのに、天国へ行こうなどと思っているのは、うぬぼれもはなはだしいと思われましょうが、実は私はキリスト教の洗礼を受けております。いつの間にそんなことになったか、とお尋ねなら申しますが、私の郷里は長崎でございまして、学生時代に英語を学ぶ方便として、キリスト教のアメリカ宣教師に近づき、バイブルを学び、礼拝の作法も習いまして、信仰に入る一歩前まで導かれたのでございます。
ところが東京に来ましてから、私はキリスト教に対して思想問題としてのみ注目しておりましたが、私の倅の嫁が熱心なキリスト信者でありまして、私はいつとはなしに神様から信仰に入る心を授かりました次第でございます。
御出席の皆さん、戦中戦後の混乱にまぎれ御無沙汰いたしております。常に気にしながら今日に至りました。
これも老人の気ままとしてお許し願います。本日はどうも有難うございます。」