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2017年9月12日 (火)

■伝記を何故読みたいのか?

世の中には伝記、自叙伝、伝記小説など形態の違いはあるが伝記ものが多数出版されている。私も伝記は大好きである。そこで伝記の意義は何処にあるかを考えてみる。

1:どのようなことを成し遂げた人何かを知りたい。

2:どのような人物だったのかを知りたい。

・知識欲を満足させたい

 

3:どのようにして成功したのか、その秘訣を知り、見習いたい

・ハウツーを得るために活用したい

 

4:志を持って努力する人の物語を読んで感動したい。

・癒しを求める

 

5:こういう人生もあるのだと気づき、自分を振り返り、生き方を学ぶ。

・生き方の糧として求めている、自分にない価値観を見つけようとしている。色々な人生があっていいのだ、と自分に言い聞かせる。

 

6:悩んでいるとき、壁にぶち当たっているとき、何かヒントはないかと探したい。

・生き方の課題解決を求めている

 

7:成功者と言っても苦難と挫折、失敗を繰り返していることを知り、自分と比較して考える。

・生きる勇気をもらい、エネルギーをもらい、モチベーションにしている。

・自分の人格形成に一助にしている

 

何に感動しているかというと、成功という結果ではなくて、読者は失敗を嘲りながら、挫折から這い上がる姿に共感を覚えるのではないか。成功の自慢話よりも、失敗談の方が面白いからだ。

読ませる伝記を書こうとすれば

1:世に認められるまでの苦労、失敗、挫折、どん底、の姿を描き

2:そこから這い上がる、思いもつかない行動、チャンスを見つけて挑戦する姿

3:家族結びつきと別れ、

4:支えてくれる友人、

5:ひたすら取り組んでいける努力と誠実さ

6:主義主張を貫こうとするとぶつかる壁、矛盾とその解決

7:金欲も名誉欲も望まず、楽しいから続けてこられた人生が最高

これらの要素を織り交ぜれば、そこにドラマが生まれ、感動につながるのだろう。

 

完成までこぎつけた要因は

「前田蓮山物語」を7年かけて完成させた。その要因を振り返ってみた。

伝記対象の蓮山は1961年に亡くなっており、既に50年以上まえの出来事を調べる必要があった。

蓮山を知る蓮山の子供は既に亡くなっている。我々兄弟姉妹4人と従兄3人が生存しているが、情報量は限られている。自ずと蓮山が書き残した著作物を頼るしかなかった。

1:資料がどこにどれ位あるかを見つけるために、インターネットの検索、国会図書館検索ができたこと。

 先ずは、ネット検索と言う便利な道具がなかったら資料収集は実現しなかった。

2:見つけた資料を読み込むと、次なる資料発見の糸口を得られたこと。

3:雑誌閲覧コピーは日本近代文学館で「太陽」「無名通信」、国会図書館では「中央公論」「政界往来」「その他雑誌」ができたこと。

4:新聞閲覧については「横浜新報」「東京毎日新聞」は横浜開港資料館で、「時事新報」「中央新聞」は国会図書館で閲覧コピーした。

5:「調査しては書く」という作業を継続するのは大変根気のいることで、いつ終わるか見当がつかなかった。それを解決する方法として、ネットにブログ「前田蓮山物語」というブログを立ち上げて、毎週これを投稿するという方針を取ったことが大きい。

6:時間と金の都合がついたこと。

7:これを自分のライフワークとして取り組み、完成の暁には本にしようと言う目標があったこと。

8:何よりも、この取り組みが苦痛ではなくて、楽しくできたことが完成までこぎつけた一番要因です。

2017年6月18日 (日)

前田蓮山は「御用記者」か「御用記者にあらず」か、その違いは!

メディア幹部と癒着する一方、圧力をかけて不都合な報道を封じ込めることに成功した安倍政権。なかでも見苦しいのが“御用ジャーナリスト”の存在だ。

露骨な政権擁護解説をする官邸の代弁者,「権力の監視」という使命も忘れ、ただひたすらにヨイショに励む。

日本のマスメディアは絶えず官邸の意向を忖度し、その許容範囲を逸脱する報道は行わないようにしている。それだけではなく、常に政権側を擁護する(あるいは代弁する)「御用ジャーナリスト」を要所、要所に配置している。尻尾を振る「権力の犬」、「癒着ジャーナリスト」、「権力者におもねる学者」「御用学者」。

戦前期は言論の自由が制限されていた。従って体制批判をする場合は検閲に引っかからないように工夫をして書いたものだ。しかし、今日では言論の自由は保障されている。それにも関わらず、政権からの圧力によって権力におもねるジャーナリストが存在することは、不思議だ。

そこで我々は報道を監視する能力を身につけないといけない。表があれば裏がある。権力側が隠そうとしていることは何か。それをしっかりと解説してくれる真のジャーナリストを支持していかなければいけない。

 

明治大正期にあっては「御用」とは体制権力者を指す。即ち山縣公を頂点とする元老、藩閥、官僚軍部集団である。彼らは国民の付託を受けず、勅選、華族などの特権を振り回し、国家運営をしようとする。

徳富蘇峰の国民新聞は藩閥桂内閣を支持し「御用新聞」と呼ばれた。大正政変の時には、群衆が新聞社を取り巻き、焼き討ちをし、桂内閣を退陣に追い込んだ。

それは政党の力でもあった。政党政治を擁護するジャーナリストであればこそ「御用記者にあらず」と胸を張って言える。

政党が政権を取った瞬間、権力は政党にあり、それを支持するジャーナリストは「御用記者」と呼ばれるのだろうか。

 

そこらの御用記者とは違うと言いたかった。

政治家が「口外無用」と言って話す内容は、これは秘密情報と言って広まることを期待している、意図的なリーク情報が多いい。このようなことを理解しない連中は、相手が意図的に流した情報を疑いもなく、これを垂れ流す。それこそが「御用記者」で、「御用記者」には権力にべったり張り付く確信犯もいるが、知らず知らずのうちにリーク情報をつかまされて、その結果権力の手先になって宣伝にこれ勤めている輩もいる。

本当の秘密情報は有能な政治家は絶対に口にしないし、質問に答えない。蓮山の情報源は原、伊東、犬養などであるが、この三者は特に口が堅くしゃべらない。そこで禅問答のようなやり取りをして、得た情報から推論して、どのような展開になるかを解説する。

 例えば、政友会の主張を挙げると同時に憲政会の主張も取り上げて比較したうえで、「どうも政友会に分があるようじゃ」と公平に裁く。そうすれば読者は納得する。選別して見通しを立て報道するのが「御用記者にあらず」なのだ。

雑誌「太陽」に「政界の表裏」を10年も連載を続ける根底には、読者の無名隠士(蓮山の筆名)に対する支持がある。無名隠士が読者に媚びへつらえば、読者はそれを見抜き嫌気がさす。かといって無名隠士の一方的な政友会よりの言論ばかり聞かされたのでは、反対側の支持者が離れてしまう。そのころ合いを隠士キャラが怒ったり、透かしたり、しながら語るところに妙味がある。

読者にとって一番の興味は、「無名隠士が言うことはよく当たるのか、当たらないのか」という点にある。偉そうなことを言っても、成り行きの予想が外れてばかりでは、隠士の情報はたいしたことがないと見向きもされなくなる。しかし、10年続くと言うことは、「無名隠士が言うことはよく当たる」との評判が定着したからであろう。「御用記者にあらず」の公平な姿勢を読者は認めた証である。

 

20017/6/3 前田連望

 

2017年6月 5日 (月)

蓮山が「太陽」の「政界の裏表」で狙ったものは

それでは、蓮山自体はこの連載のねらいをどのように考えていたのか?

1:このようなキャラクターであれば、検閲に引っかからない幅が増す可能性もある。

2:原敬内閣時代になると、蓮山は政権に近づき過ぎて、どうしても政権擁護になってしまいジャーナリストとしての立ち位置を踏み外す危険があった。このため無名隠士の名のもとに自由な発言の場を確保しようとした。

3:赤を黒と言い含めるようなことはしない。事実を伝える。

4:外交、宮中のことは扱いにくい、そこで、今は言えない、ここまでしか言えない、知っているけれどこれは言えない、詳しいことは言えないけれど概要だけは知らせておこう、などと検閲対策を施すと同時に読者に同意と合意を求め、真実味を増す手法がとれる。

5:情報は原、伊東、犬養などから入るが、この三者は口が堅くしゃべらない。そこで禅問答のようなやり取りをして、得た情報から推論して報道する。

6:政治家が「口外無用」と言って話す内容は、これは秘密情報と言って広まることを期待している、意図的なリーク情報なのだ。本当の秘密情報は絶対に口にしない、答えない。

このようなことを理解しない連中は、相手が意図的に流した情報を疑いもなく、これを垂れ流す。それこそが「御用記者」で、選別して見通しを立て報道するのが「御用記者にあらず」だ。

7:「御用記者」には権力にべったり張り付く確信犯もいるが、知らず知らずのうちにリーク情報をつかまされて、その結果権力の手先になって宣伝にこれ勤めている輩もいる。

8:政友会の主張を挙げると同時に憲政会の主張も取り上げて比較したうえで、「どうも政友会に分があるようじゃ」と公平に裁けば、読者は納得するはず。

9:10年もこの連載を続けるには、読者の無名隠士に対する支持がある。読者に媚びへつらえば、読者はそれを見抜き嫌気がさす。かといって無名隠士の一方的な政友会よりの言論ばかり聞かされたのでは、反対側の支持者が離れてしまう。そのころ合いを隠士キャラが怒ったり、透かしたり、するところに妙味がある。隠士のキャラが蓮山に乗り移ったのか、その逆か、しばしば、蓮山の生の発言が飛び出す。

10:読者にとって一番の興味は、「無名隠士が言うことはよく当たるのか、当たらないのか」という点。

偉そうなことを言っても、成り行きの予想が外れてばかりでは、隠士の情報はたいしたことがないと見向きもされなくなる。しかし、10年続いたと言うことは、「無名隠士が言うことはよく当たる」との評判が定着したからであろう。

11:蓮山にとって無名隠士が評判になることは喜ばしい。しかし、前田蓮山という実在が表に出られないのは、どう思ったであろうか。100年たった今日、無名隠士の発言を引用する学者はいないのだ。

 

2017/6/3 前田連望

 

前田蓮山における「政界の表裏・無名隠士夜話」の意味

雑誌「太陽」に大正3年6月に「今日主義の原敬」を執筆以来、昭和2年9月まで13年間に掲載された件数は前田蓮山(16件)、無名隠士(61件)、無用居士(4件)、鬼谷庵先生(32件)合計113篇を数える。

「太陽」編集に携わる、鳥谷部春汀、浮田和民、浅田江村、を除いて100篇以上の掲載をなした人物はいない。

政界の表裏、政界有象無象、政界春秋、政界夜話、政界煙話、政界鬼語とタイトルの変遷はあるものの、政界の表裏を隠士の姿を借りて語りかける連載は、太陽の、読み物の中で大正期の代表にあげられる。

掲載ページの変遷を見ても分かるように、浮田和民、浅田江村、の論文に続いて「無名隠士」が掲載されていることから、いわゆる中間読み物の扱いではない。「無名隠士」なくしては「太陽」は売れないというほどに人気を博した。

『雑誌「太陽」と前田蓮山』というタイトルで一冊の本ができると思う。そこで、少し整理をしてみる。

1:無名隠士は誰なのか。という問いに対して、研究者で答えられる人はいないのではないか。

2:「政界の表」シリーズが始まった時から内閣は次のように推移した。大隈、寺内、原、高橋、加藤(友)、山本、箕浦、加藤(高)、若槻、田中。

3:キーワードは、政党内閣、超然内閣、普通選挙、護憲運動、改造、デモクラシー、憲政の常道、元老

4:「政界の表裏・無名隠士夜話」の特異な点は

 ・政界通の隠居老人が政界の動向を語る

 ・砕けた語り口で放言する

 ・このようなキャラクターを作り出して、政界話をするスタイルを編み出した

 ・その後、このスタイルが次世代に受け継がれる。城南、湘南、城北隠士など

5:話題の事件を様々な角度から解説して、今後の成り行きを予想する。一方的に自分の意見を押し付けるのではなく、このように言う人がいる、またある人はこのように言う、しかし、どれも見当はずれで、真実はこのようなことで、それが道理というんものだ。という論法で解説する。

6:なぜ、そのような展開をするのかと言えば、読者は大衆である、難しい言葉を並べるより、平易な言葉で政治の何たるかを解説し、啓蒙することを狙いとしている。

7:大衆に伝えるためには「面白くてためになる」内容を目指している

8:無名隠士=蓮山、の立ち位置は政党政治、議会主義、立憲主義、憲政主義で、自由党、政友会支持、国民が選んだ代表による政治システム(政党政治)の確立を大衆に浸透させること、

倒すべき敵が山縣を頂点とする藩閥、官僚、軍閥、特権階級(華族、貴族院)、元老、

9:「政界の表裏・無名隠士夜話」を読むと、当時の時代背景を理解できる。

10:一口に10年問言って、それがどのくらいの分量になるかというと、大正5年から二年間分の記事を万朶書房から出版した。この時は600頁である。だから全部を収録すると5冊、3000頁以上になる。

 

 

2017年5月22日 (月)

第21章を終えて

第21章の全部はこのPDFに収録してあります。「121senkyojidai.pdf」をダウンロード

蓮山の大往生は昭和36年(1961年)9月12日だった。当時、著者は16歳高校一年生だった。蓮山は自宅の二階の八畳の部屋に寝起きしていた。晩年は階段を下りることが出来ずに、オマルで用たしをし、食事を二階に運んだりした。病気ではないので病院に入院することは無かったが、今だったら理由を付けて入院させたかもしれない。母文子はこの老人の世話をするのに大変だったと思うが、その記憶ははっきりしない。この部屋で著者は小学生時代、蓮山と寝起きを共にしていた。小さいころは、おとぎ話でタヌキに化かされた話を聞いて、上手な語り口だと思った。ラジオのインタヴューの録音が残っていて肉声が今でも聞けることが出来る。イントネーションが九州弁丸出しで、当時はそれが普通と思っていたが、標準語のしゃべり方ではない。新聞記者として政治家を訪問した際も、あのいかつい顔から愛嬌のある声がでると、相手も和んだに違いない。

「前田蓮山物語」をネットに掲載を始めたのは2012/7/18だった。それでは実際に構想をしたのはいつか。調べてみると2010/11/22に構想ファイルを書いている。さらにさかのぼれば、それは母の死がきっかけだった。2009/6に母が94歳で亡くなった。その6か月後に母の遺品中、段ボール箱に収まった写真やノート類を引き取った。母の遺したノートには聖書の一節を書き写したものや、折々を歌った和歌、ペン習字、写真などが入っていた。これを簡単に捨てるわけにはいかない、どうしたものかと思案の結果、とりあえずできるだけスキャナーで取り込み保存しようと考えたのだ。その間に名古屋に行く機会があって2009/11/20に亀山の市橋家の墓と母が住んだ名古屋の街を散策した。それは母のことを文集のような形でまとめようと意図したからでもあった。

ところが、母の遺品の中には父親の遺品も混じっていた。父は1992年1月10日に84歳で亡くなりった。その遺品を母は大事に保管していた。父の遺品を調べたら、前田蓮山が書いた記事や書評などが含まれていた。父は蓮山の死後、週刊朝日「偉大なる新聞記者」の記事の材料として情報を提供する際に集めたのではないかと思う。さらに父は自筆で蓮山の日記を清書する作業もしてた。父は蓮山の業績を伝記のような形で残そうとした痕跡があった。実際は思っただけで実行はできなかった。

この父の思いを感じた瞬間、「私が蓮山の伝記を書く」と強く思った。それから資料の蒐集、文献を読み、それをノートに書くことを始めた。一番最初のノートの表紙には「三代記のメモ」と書いている。この時は蓮山だけでなく、両親のことを一緒に書こうと思っていたわけだ。

実際に書き始めたのは2010年からだと記憶している。それから取材旅行をした。蓮山にまつわる場所を実際に見ておきたいと思い、2010/9/27誕生地である長崎県諫早市森山町の前田家を訪問した。その後、東日本大震災がありましたが、その翌年被災地訪問を兼ねて盛岡の原敬記念館を訪ねた。さらに、蓮山が世話になった日向輝武の生誕地藤岡と藤岡教会、熊本バンドに影響を与えた新島襄の安中教会を訪ね、蓮山の最初の妻イチの誕生地である群馬県高崎市下室田にある長命寺に墓参りして、その足で小布施に行った。ここは日向輝武の妻、きむ子夫人の墓がある。日向輝武氏の墓は田端の東覚寺にある。本郷の東大前から田端に向かい、途中で駒込病院を見て、東覚寺に参拝して、田端の日向御殿跡あたりを散策した。現地に行くと感じることも多く、新たな発想が湧いたのを思い出す。

ブログにこの物語を掲載するようになったのは友人からのアドバイスのお陰でした。学生時代からの友人、小西勝明氏とは秋になると学生ラグビーを観戦するのが通例になっていました。ある時早稲田が勝って、祝杯を挙げたとき、「物語」はいつ書き終わるのだ、と言われて、「さあ、いつになるのかな」と答えたら、「いつまでに書きあげると決めないと完成しない。」と注意されたのです。彼はラジオ日経に勤めながら、ジャズの評論家でもあり、いつも期限のある仕事をしている感覚から、「仕事として取り組んでいるなら、期限を決めてかかれ」と忠告してくれた。そしてその方法として、「毎週ブログにアップすれば、滞ることなく完結できるのではないか」というアイディアまでしてくれた。そのおかげで、それからは毎週ブログにアップした。今日まで325回の記事を掲載しました。

その分量は598731文字になりました。一ページを720文字に換算すれば830頁に相当します。今時、800頁を一冊にまとめた本など見たことがありません。二冊にして上下巻にして出版することもあり得ます。逆に400頁に収まるように編集するということも考えられます。一般読者にすればその方がいいでしょう。しかし、小生に意図は、単なるファミリーヒストリーに終わることなく、明治大正昭和の三代にわたり新聞記者として執筆活動をしてきたジャナリストの一生を、近代史研究の一助として提供する、という大上段に振りかぶった野望もあるのです。

集めた蓮山の執筆の全部をPDFファイルにして収録することもしようと思います。中学時代に友人である、評論家の田中良紹氏は「全集のようなものは資料として貴重なのだ。それだけでも価値がある。」と言っていました。いわば小生のライフワークとなったこの物語は意外と広がりがあるのではないかと思うのです。

「前田蓮山物語」は伝記であります。ノンフィクションの評伝でしょうか。全くの小説でしょうか。

「単なる伝記の小説のようでいて伝記でもない。小説に似ていて小説でもない。評伝のようにあるがそれとも違う。ただ私は矢嶋楫子なる人物を伝えたかった」

「われ弱ければ・矢嶋楫子伝」の作者三浦綾子はこう語りました。この物語は事実(ノンフィクション)が90%位です。事実と事実をつなぎ合わせる部分は、著者の想像(フィクション)になります。

事実とは蓮山自身が自らを語った文献、蓮山が書いた新聞記事、新聞連載、雑誌記事、諸作物、それに加えて、蓮山の周辺にいた人物の後日談、こうした資料に基づいて物語は進行したのです。

 全編を読み直すとこの物語の構成は、時系列で年表に従って書いたことが分かります。そのため事件の経過が飛び飛びに出てきて読みにくいと言うのがわかる。また、蓮山の人生で起きたことを並べた結果、蓮山がほんとに目指したことは何だったのか、焦点が見えないと言う弱点も見つかりました。

そこで、これから如何に読者が読んでみようと思えるように再編集をしていきたいと思う。

 

2017/5/22前田連望

21-20■蓮山の命尽きる

蓮山はまどろんでいた。大きな塔の下に立っている。あれはビックベン、大時計台だ。ソフト帽子に鼻メガネ、ステッキを片手、それに真新しいハンケチを胸ポケットからのぞかせて歩く姿は、イギリス紳士、ロンドン紳士。ようやくイギリスに遊学が実現、イギリスの議会政治の勉強ができる。左手はしっかりと娘の手をつないでいる。テームズ川の畔を散歩しているうちに海辺に出た。ここは三浦半島か房総半島か、毎年家族で出かけたところだ。

「お前たち、俺はいつ死ぬか分からない。お前たちが給仕になっても生活できるように、自転車乗りと電話の受け答えを覚えなさい。」「誠実であれ、誠実であれば世の中の人が捨てない。」と盛んに言い含めている。

あれは、パウリスタの自動ピアノが奏でる音楽、息子が呼んでいる。歌舞伎座の前で娘が早くおいでと手を振っている。女房は何処にいるのか、探しても見つからない。追いつこうとしているのに足が動かない自分を置いてみんなどこかに消えていく。

 夢なのか現実なのかはっきりしない。枕元のボタンを握った。

「おじいさん、どうしましたか。」

「夢を見ていた。みんなどこかに行ってしまう。」

「おじいさんには神様がお迎えに来ますから、安心してください。」

「そうだったね。たばこを一本くれないか。」蓮山は、仕事中はたばこを一日五〇本も喫っていたが、今は吸いたいと思わない。

「そうだ、葉巻があるだろう。それにしよう。」吉田首相から頂いた五〇本入りの葉巻の箱を開けると二本だけ残っていた。

「今日一本喫ったら、残りは一本になります。」

「そうか、それじゃ、舞子に言って持ってきてもらおう。」

「野村さんからお見舞いにと言って、トマトジュース、はちみつ、スープを頂きました。晩御飯はエビフライにしましょうね。ビールをコップ一杯お付けします。夏を乗り切るにはしっかり食べましょうね。」

文子はやせ細った蓮山の汗を拭きながら、声をかけ続けた。

 

九月一一日月曜日。厳しい夏を乗り切ったかに見えたが、この日意識がなくなった。すぐに掛かりつけの山口医師を呼ぶと、危ないからご親戚の方を呼んだ方が宜しいかと、言った。文子は夫又太郎に連絡を入れて危篤を知らせた。同じように西川舞子にも知らせた。夜に入って、危なくなった。牛丸牧師が夜半一一時頃、急を聞きかけつけた時は、もはや意識を失われ、かかりつけの山口医師が酸素吸入や注射に手をつくしていた。零時三〇分に呼吸が停止し、その後二回程呼吸が少しあったが、遂に四〇分に至り永久に停止した。医者は牧師に了解を求めるように視線を向けた。牛丸牧師はうなずいた。

「ご臨終です。」と山口医師が宣言した。牧師は臨終の手当を家族方と共にし、午前四時入棺式をすませた。翌十三日午後二時出棺、火葬に付し、その晩は通夜を執り行い、十四日午後二時、教会において葬儀を執行した。会衆約二百が教会堂を埋めた。前田蓮山八八歳を迎える一ヶ月前だった。

「前田蓮山物語」完

 

21-19■「自由民権時代」も出版する

見舞いに山浦がやってきた。

「歴代内閣物語は上々の評判でとてもうれしい。」と喜んだ。

「時に、先生は、これですべて終わった、いつでも天国へ行ける、と思っているでしょうが、一つまだやり残していることはありませんかね。」

「なんだろうね。もう食べる気力も失せて、いっそのことミイラになろうと去年の一二月には思ったがね。」

「好物の鰻を食べて元気を出してください。やり残したことはですね、あの大自由党史ですよ。」

「ああ、あれかね。あれは確か、昭和二九年から二年間「大自由党史」の執筆に取り組んだね、しかし、この間に保守合同などがあって自由党が消滅して自由民主党になってしまった。自由党史の発注者が曖昧になってしまい、嫌気がさして、途中でこの仕事を投げ出してしまった。」

「どこまで書いたのですか。」

「投げ出したと言っても、星亨時代までは書いたよ。自由党史の前期はなんといっても自由民権運動の時代だからね。政党というものが如何にして出来上がったか、その文献資料を集めてこれを加えたから相当の分量になった。もちろん原稿は手元にあるさ。」

「それを出版しようではありませんか。

「しかしね、これは君が持ち込んできた話で、鳩山さんをはじめ自由党の首脳部からの依頼で書いたものだし、執筆料もいただいている。それを自由には出せないだろう。」

「その通りです。どこからも文句が出ないように、私が説明して回ります。了解が得られたら時事通信社に持ち込んで出してもらいましょう。大自由党史という名称は使わずに、そうですね、自由民権時代というのはどうでしょうかね。改題して出せば、了解も取れます。」

「いつもすまないね。おまかせします。」

山浦は早速当時の政治家を訪問して了解を取り付けてきた。話はトントンと進み原稿は時事通信社にわたった。蓮山は目も悪く、ゲラ刷りの校正も加筆修正など手を加えることは難しかった。すべて関係者に任せた。編集してみると五〇〇頁を超える分量になっていた。

題字「自由民権時代」を筆書きして、序文を添えた。

「・・・・ここに到った経路として、本年二月、同じく時事通信社から出版した拙著、上下二巻の『歴代内閣物語』が案外の好評を得て、日本政治史研究の一礎石となったことが、再び同社の好意を呼ぶ原因となったようである。八十八歳の老生にとって、まことに望外の幸いといわなければならない。私は生涯を通じて、政治の研究に専念したけれども、なお尽くさぬ部分が多い。

それは誰か適任者によって完成されるであろうことを念じて、私の受け持つ範囲の幕を閉じたいと思う

昭和三十六年八月 前田蓮山」

2017年5月15日 (月)

21-18■「歴代内閣物語」の書評

「歴代内閣物語」は政治史で一般書ではない。それにも拘わらず、朝日、毎日、読売、東京、産経、図書新聞などで書評として取り上げられた。

書評は藤原弘達明大教授、中村菊男慶大教授、中村哲明大教授、評論家中野好夫氏、評論家城戸元亮氏、野村秀雄前NHK会長と当代の著名人が論じた。その中でも政治学者藤原弘達氏の書評は目を引いた。

藤原弘達(明大教授)図書新聞

この著者はいわゆる新聞記者出身の政治評論家としては最長老に当たり、すでに八七歳の高齢で病臥中である。六〇年の記者生活は、東京毎日新聞、雑誌「太陽」、時事新報、中央新聞、読売新聞というように籍を移しているが、一貫してペン一本で立ち、いわゆる行政事務にタッチせず、清貧な生活を送ったというように山浦貫一氏も序文で述べている。

生まれが長崎であった関係もあって、英語の語学力を身に付け、早くから原書を読みこなしたことが、その政治評論の見識をつくる土台になったと言われている。

この本は元来一本の書物にまとめるために書かれたものではなく、過去八年にわたって都道府県選挙管理委員会の機関誌「選挙」に掲載されて読み物を一括したものである。著者の身体の一部であって、初代第一次伊藤内閣から加藤高明内閣までで打ち切られている。戦前における最後の政党内閣であった犬養毅までが当初の予定だったそうであるが、その点まことに残念な気がする。

「物語」というようにバカにへりくだった表題になっているが、単なる物語というべく内容はすこぶる豊富であり、資料もかなり駆使している。明治以来の日本内閣史の断面を一応は生き生きと再現させることに成功しているものと言って過言ではない。

この著者には「政党哲学」「政党政治の科学的検討」などの著述があるほか、中橋徳五郎、床次竹二郎、星亨、原敬などの政治家の伝記を書いており、そのなかでも「原敬伝」は出色のものであった。

「原敬日記」が発表された後はこれを資料として、新たに原敬の伝記を一本まとめている。この「歴代内閣物語」にも「原敬日記」が至る所に引用されており、資料面における一本の節になっていると言えるようだ。つまり「平民宰相」原敬政党内閣がこの書物の中心になっており、原敬を通じてその前後に歴代内閣が位置づけられて、評価されているところに一番の特色があるということである。それと今一つは同じ長崎県出身の政治家伊東巳代治が、この著者の材料源であったという。

戦前においていわゆる政界の裏話と言ったものが人物中心に書かれているためには、どうしてもそういう材料提供者が必要だったワケであるが、その点でもこの著者は恵まれた立場にあったと言ってよさそうである。

極めて制約された天皇制の条件のもとに、曲がりなりにも「政党政治」が機能していく過程が、具体的な人間の言動を通じて叙述されている点に、所謂「物語」的な面白さを見せようとしているワケであるが、率直に言ってこういう面白さそのものが、今かなり「時代モノ」になっている感があることは、どうも否定できないようだ。

そこには天皇の権威にカサにき、天皇を神格化することによって、権力を独占しようとする藩閥、軍閥、貴族院勢力などに対する、かなりのはっきりした対決意識は一貫しているし、金権政治や政党の腐敗堕落に対する手厳しい非難はあっても、政党政治を支えている原理的な基礎は、所謂「憲政の常道」というルールを一歩も出ていない物足りなさが常に付きまとっているからでもある。

一定の政治状況の中に制約されている人間の行動半径や言論の幅とでも言うべきものが、殆ど即目的に叙述されているために、所謂政治的人間も人間として生かされず、なんだか人形芝居でも見ているような気持になってくるのだ。これは著者自身が批評者としても、それなりに生きてきた「政治の世界」の限界を物語るものであり、見方によれば避けられない制約と言ってもよいものであろう。

総括的な印象としては、所謂新聞記者出身の政治評論家の長所と短所とを、最も典型的な形で示している記念すべき文献と言うところかもしれない。この著者がまだ元気だったら、戦後の内閣もおそらくは殆ど同じ調子で書き綴られるのではあるまいか。明治時代の内閣を論じる場合も、戦後の政治の事例が時々引き合いにされている点にも、そういうセンスをうかがうことができる。

戦後の政治評論の世界にも、大なり小なりこの著者のセンスが尾を引いていると言ってもよかろう。山浦貫一が「大記者でない点は師匠の名を辱めるものと深く恥じております。」と言っているが、この著者のヒモ付きでない清貧の批評家としての生活と、この老齢にしてなおかつ燃やし続けている政治への熱情という点の伝統のほうを正しく政治評論の世界に引き継いでもらいたいものだ。

兎も角時代モノにせよ何にせよ、そういう一本のバックボーンが貫いている点に、この本の歴史的価値があると言えるだろう

2017年5月11日 (木)

21-17■「歴代内閣物語」の出版

蓮山は、政党内閣の最後である犬養内閣まで何としても書きたいと思ったが、気力体力が失せてしまった。視力が落ちたことが一番大きかった。山浦貫一氏が加藤内閣まででも十分、早く出版にこぎつけようと尽力した。山浦にしてみれば、蓮山の命もあと少し、何としても存命中にこの大著を世間に出したい一心であった。時事通信社の長谷川才次社長に話をしたところ、快く引き受けてくれた。作業はとんとん拍子に進み昭和三六年二月の発行が決まった。その序文を山浦氏が添えてくれた。

「前田蓮山先生は、明治、大正、昭和の三代にわたり、政治評論家として、私どもの大先輩でナ。

板垣退助と面識があったと申しますから、年代においても、現存する最も古い先輩であります。ご承知のように先生は、現代においてもなおその声名を保っておられますが、原敬研究家として日本唯一の見識を持っておられ、原敬日記発表前、すでに上下二冊の原敬伝を書いておられますが、日記発表後は丹念にこれを読破され、改めて研究を深かめ、時事通信社発行の三代宰相列伝のうち、原敬を受け持ち、また本書においても、原敬に関する部分は、独特の解明を加えて、わが国の政治史に輝がやかしい足跡をとどめております。

いうまでもなく、原敬は影響力の強い政治家、わが国最初の平民宰相で、純粋な政党内閣を創設した民主政治の先駆者であり、その影響範囲はただに日木の地位を高めるにとどまらず国際的な幅を示しております。蓮山先生は、その波長を遺憾なく捉え、その及ぼす諸種の現象を描いてあますとろがありません。

先生は一面、政治哲学者として大いなる足跡を残しておりまナ。大著「政党政治の科学的検討」が示すとおり、英文の原書によって世界の政党政治をマスターし、これをわが国の政党発遠史に応用しておられます。

私が蓮山先生の知遇を得たのは、大正八年の頃でありました。そのころ日本一の大新聞であった時事新報に入社した当時のことでした。その編集局に悠然と姿を現す大記者蓮山先生の、日本人離れした風采に圧倒されました。金縁の鼻眼鏡、いつも葉巻をくわえ、モーニングコートに山高帽子といういでたちは、西欧から来た異人さんではないかと思わせました。(その歴史的鼻眼鏡は、先生が私に、これは君への形身だ、といって早くからいただいております。)

その年代に博文館発行の総合雑誌「太陽」が言論界に大きな権威をもっていました。先生は明治末期から大正の初めにわたり、十年間続けて政治の裏話を巧みに織りこんだ政治評論を書き続け、これが大評判となりました。材料は主として、政界の策士で同じ長崎の山身、枢密顧問官伊東巳代治からと聞いております。伊東は有名な記者嫌いでした。同郷の関係と、信頼のおける先生のほかは寄せ付けなかったと伝えられていまナ。その「太陽」時代に原敬の人物評が好評を博し、これに時事新報が惚れこみ、「太陽」執筆お構いなし、の条件で招聘したのであった、といわれます。私は蓮山先生の紹介で、原敬と面識を得るようになりました。

蓮山先生は今年八七歳、来年は米寿に達する高齢、病床にあってなお枕元にラジオのスイッチを入れて、政治に気を配っておられますが、私は早くこの本を完成して、その病床に捧げたいと思っております。

先生の経歴は多彩です。長崎という異国情緒豊かな土地に生まれ、幼にして神童の誉れ高く、幾度か郡長や県令から表彰されました。県の師範学校を卒業、その間特別に英語を習得して、早くも原書を自由に読みこなしたそうです。上京して高等師範や早稲田大学に学び、ある時には作家小杉天外に師事して雑誌を発行し、ある時代には早稲田系の東京毎日新聞に入り、これも明治、大正の大評論家鳥谷部春汀が長逝したあとを受けて、「太陽」に登場したわけです。

蓮山先生は六〇年のジャーナリストです。しかし新聞社の行政事務に携わったことは一度もありません。編集局長とか、政治部長とかの仕事ではなく、純粋に筆一本の記者、それも大記者として一貫されました。私事を申して恐縮ですが、その弟子筋の末輩である私も先生にあやかつて、新聞四〇年、一度も行政事務に携わってたりません。ついに大記者でない点は、師匠の名をはずかしめるものと深く恥じております。

先生は、いわゆる清貧の生涯を一貫されておりまナ。政界に深くタッチして、しかも政治家とのヒモつきでなく、つねに対等の交際を続け、探訪記者で、なかった故もあって自らを卑しめず、遊蕩の街にも出入されながら、家庭生活は清潔温和でありました。そしてその思想は年齢とともに老化ずることなく、毎々新しい方向を求めておられました。その一つの現われは、先生の文章です。文部省の新カナづかい、漢字制限に努め、いやしくも高踏難解の文章を自戒しておられます。

本書は、過去八年間にわたり、都道府県選挙管理委員会連合会の機関誌「選挙」に連載されて好評を博したものであります。先生の目標は、犬養内閣まで、ということになっていましたが、健康上、執筆が困難になりましたので、残念ながら加藤高明で打ち切られました。しかしこれだけで、日本内閣史の移り変わりを知るには十分、絶好必読の大篇であると信じます。」

年が明けて、発売時期が二月一〇日に決まったところで、長谷川社長の提案で「出版記念会」を帝国ホテルで二月一四日に催すことになった。招待者は山浦貫一氏をはじめ、細川隆元氏ら政治評論家二〇余人に案内状が送られた。

蓮山は主役として出席を要請されたが、体調は戻らず子息又太郎氏が代理で出席することになった。

そこで挨拶を録音して当日流すことにした。テープに録音して挨拶するためにその文案を書いてそれを読み上げる。その原稿は目が見えづらいことから、蓮山は原稿用紙に筆で大きな文字を書いてみた。しかし書く途中で疲れてしまい、自分が口述するから息子に筆記してくれと言った。筆記した原稿を蓮山が読みやすいように、筆で大きな文字で仕上げ、それを読み録音テープに収めた。当日、会場で蓮山の肉声が流れた。

「本日は私の著述の出版記念会を設け下され、お招きにあずかりましたが、わたくしは本年八八歳になりまして、足腰不自由でありますから、甚だ失礼ながら録音をもってお礼かたがた、ちょっと所感を述べさせていただきます。

私のこの著述は天皇統治時代に政治に関し、世上に伝えられた諸説を整理して、私が真実と信じずるところを書き残したいと考えたことに始まり、選挙という月間雑誌に明治以来の歴代の内閣が行った政治中、重大な事件を連載することに致しました。幸い雑誌の編集者も私の希望を容れて、その第一回を載せたのが七年前、私が八一歳の時であります。所が何分にも老人のことで、その内座って居ることが困難となり、横臥して書き続けました。

所が今度は視力が衰え、虫眼鏡で参考書を読みましたが、とうとう虫眼鏡でも読めなくなりました。実は犬養内閣まで書くつもりでありましたけれども、中止するより外はありません。これで私の一生の仕事は終わりと致します。今は神様が天国に召される日を待つのみでございます。

こう申しますと、お前のような人聞は地獄よりほかに行くところはあるまいのに、天国へ行こうなどと思っているのは、うぬぼれもはなはだしいと思われましょうが、実は私はキリスト教の洗礼を受けております。いつの間にそんなことになったか、とお尋ねなら申しますが、私の郷里は長崎でございまして、学生時代に英語を学ぶ方便として、キリスト教のアメリカ宣教師に近づき、バイブルを学び、礼拝の作法も習いまして、信仰に入る一歩前まで導かれたのでございます。

ところが東京に来ましてから、私はキリスト教に対して思想問題としてのみ注目しておりましたが、私の倅の嫁が熱心なキリスト信者でありまして、私はいつとはなしに神様から信仰に入る心を授かりました次第でございます。

御出席の皆さん、戦中戦後の混乱にまぎれ御無沙汰いたしております。常に気にしながら今日に至りました。 これも老人の気ままとしてお許し願います。本日はどうも有難うございます。」

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