2017-12-19

カルビーにまつわる思い出話

そろそろ人生手仕舞いしようかという時期に差し掛かったウチの父親ときどき昔の話をしてくれる。戦後すぐのドサクサの話は、それなりにおもしろい。

カルビーのことがニュースになっていたので、思い出した。そういえば、カルビーの出てくる話もあったなと。

老人の昔語りを、別に記録もとらずに聞いたうろ覚えの内容だから事実とかなり違うことがあるかもしれない。虚偽が混じってしまったら、まあそういうもんだと笑って流してもらえればありがたい。

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親父は、大阪で袋屋をやっていた。包装資材問屋だ。それも戦後すぐ、物資が不足している時にうまい具合に包装紙を手に入れるツテがあったこから気がついたら事業ができていたという、伝統も何もない若い会社いちばん下っ端の小僧だった。創業すぐの頃は朝鮮人が闇でつくって売る飴の包装紙の卸売がメインの仕事だったが、すぐに広島にあったカルビーが大量に注文をくれるようになった。親父は、リュックサックを背負って店の前に現れたカルビー社長を覚えているという。やがて商売の半分以上はカルビーにぶら下がるようになった。

カルビー創業者は、米軍とのコネ小麦粉砂糖の払い下げを確保し、それをもとに商売を広げていた。広島原爆で荒廃していたが、その原爆商品名に入れるような宣伝もやっていた。いまでは考えられないかもしれないが、「原爆=スゴイ」というポジティブイメージも当時はまだあったのかもしれない。

そのカルビーが、倒産した。発注生産が追いつかない黒字倒産だったらしい。親父はオート三輪に乗り込んで債権を回収しに広島に向かった。

たまたま親父の会社倉庫が空いていたのを、カルビー大阪支店代わりに借りていた。最終的にそこを差し押さえることで、親父の会社破滅的な損害は免れた。

黒字倒産だったのでカルビーはすぐに復活した。ただ、それを期に、親父の会社は、少ない大得意にぶら下がるような商売をやめ、小口顧客を広く求めるような経営方針に転換した。たまたまポリエチレン袋が普及を始める時期で、包装紙からプラスチックへと主力商品を転換することで、親父の会社も急成長を始めた。カルビーとはそれっきり縁が切れた。

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古き良き時代みたいに言われる戦後復興から高度成長期だけど、あの時代、けっこう倒産も少なくなかった。倒産した会社からぶんどってきた半端な品物を親父が持って帰ってきたことも記憶に残っている。時期的にいってカルビーのものではなかったはずだけれど、オマケのおもちゃとかも差し押さえたとか言ってたから、ひょっとしたらそういうのも家に転がっていたのかもしれないなと思う。

そんな波乱万丈を経て、押しも押されぬ有名ブランドとなったカルビー。ま、たいしたもんだよな、とも思う。


どうでもいい昔の話でした。

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