毎度毎度日経さんについて書いているが、たまには経済史的なことも書いてみよう。ググってもあまり出てこないたぐいの話である。ご存知のように経済学は実験ができない科学(?)なのだから、もっと歴史について知っておいた方がいい。
1929年、いわゆる「大恐慌」というやつが起きた。
そのとき、フランスには大量の金(ゴールドの方)が流れ込んできた。
1926年に金本位制に復帰したフランスは、1新フラン=金65.5mgで兌換すると発表。これは実勢レートよりも9%ほど低いものだった。当時イギリスは「大英帝国の威信」から、やや高めのレートを設定しており、「フランスは諸外国にデフレを輸出している」と非難した。(ちなみに、日本もイギリスと似たようなことをやってデフレに沈んでいる。石橋湛山は実勢より低いレートを主張したが、井上準之助と財界はそれを拒否した)
フランスは金の過剰流入の批判をかわすため、貸借対照表において金準備額を過小に計上し、他の項目の中に隠すようなこともしていた。
おかげで世界恐慌の影響がフランスに達するまで、1、2年ほどのタイムラグが生じたが、かわりにインフレの懸念に悩まされることになった。
かといって、利上げすれば金の流入が一層増すことが予想されたし、金流入を止めるために利下げすれば、インフレを助長する。とにかく、どちらにしろインフレになるので、よりマシな方を選ぶしかなかった。
結局フランスは利下げの方を選んだが、案に相違して金の流入は止まらず、英仏金会議において、様々な批判を受けることになる。
こうしたフランスの事例は、「なぜ金本位制が流行らなくなったか?」という問いの答えにちょうどいいように思われる。
さて、1931年9月にイギリスが、そして33年4月にアメリカが金本位制を離脱する。そして33年6月のロンドン世界経済会議において、ルーズベルトがドル安定化拒否の声明を出して会議は頓挫。ブレトン=ウッズまでこの種の会議は開かれなくなる。
フランスはオランダ、ベルギー、スイス、イタリアと金ブロックを結成。投機の対象となることを避けるとともに、英米が金本位制に復帰するまでデフレ政策をとることにする。
1934年、ルーズベルトの手腕により恐慌の底を打ったアメリカは、金の買い上げを再開。これによりフランスの金はどんどん流れ出していくことになる。
もはやデフレ政策の必要はないはずだったが、フランスでは上下層・左右両勢力ともにその継続を望んだ。
ただ一人、ポール・レイノーがフランス下院において「平価切り下げ」の論陣を張った。それに対して、フランス銀行総裁ジャン・タヌリーは「自分が警視総監であったなら、ポール・レイノー氏を今夜ベッドで休ませてはおかないだろう」と放言した。
フランス銀行理事で上院議員のフランソワ・ドゥ・ヴァンデルは、総選挙に向けて「フラン平価維持」「デフレ政策堅持」を宣言。全国企業同盟も同様の声明を発表。
人民戦線ですら、反デフレを言いながらも「平価維持」を唱え、こと経済については右派と大して変わらなかった。
誰もが内心では、平価を切り下げた方が経済が良くなる、と薄々気づいていた。
しかし、右派は「国家の威信」を守るため、左派は「ブルジョアジーに打撃を与える」ため、それに反対していた。
この状況について、ポール・レイノーは「最初にして最後の、フランス国論の一致であった」と後に述懐している。
1935年6月8日、金大量流出の直後に「フラン防衛のための」緊急法案が可決。
ピエール・ラヴァルを首班とする右派政府は、歳出10%削減という超デフレ政策を実施。
これはのちに「ラヴァルの実験」と呼ばれる。
10%削減の具体案を作成したジャック・リュエフ(後のドゴール政権経済顧問。当時財務省資金局次長)は、ラヴァルに案を提示するにあたって「それを実施するなら確実に混乱が起こりますよ」と念を押した。
しかし、ラヴァルはそれを意に介さなかったし、それどころかその政策によって確実に被害を受けるはずの企業経営者たち(多くが議員になっていた)ですら、その案に反発することはなかった。
当然の結果として、「混乱」が起こり、「ラヴァルの実験」は失敗に終る。
首相となったポール・レイノーが、たった3ヶ月で政権からドイツによって引き摺り下ろされたとき、ラヴァルはペタンに独裁権を与え、ヴィシー政権を成立させた。レイノーはドイツに抑留され、戦後なってやっと解放された。
さて、1934、5年のフランスにおける企業経営者たちの不可解な「思い込み」について、アルフレッド・ソーヴィ(ポール・レイノーの経済顧問)は「経済的マルサス主義」と名づけている。
「マルサス主義」とは、現在ではほとんど用いられることがなくなったが、社会的退嬰主義を指している。
ソーヴィは、当時のフランスにおける出生率の低下と社会の高齢化による保守化がその淵源にあると分析し、それがフランスを「マルサス主義」に陥らせた、と指摘した。
ここからどのような教訓が引き出せるだろう?
「やはりアベノミクスは正しい!」などというような幼稚なものではないことは確かだ。
なお、この当時のフランスは所有と経営の分離が未発達であり、ケインズが『貨幣改革論』で前提とした段階には達していなかった。