堺という町
大阪市の南にある堺市は、日本ではいちばん新しい政令指定都市です。しかし、その歴史は古墳時代にまでさかのぼります。
堺が大発展したのは室町時代から。商業を中心とした自治都市として栄えました。学校の日本史でも、習ったことを覚えている人が多いと思います。茶の湯の千利休や、和歌の与謝野晶子を思い浮かべる人もいるかもしれません。本能寺の変の時、徳川家康が遊んでいたところ(家康は信長の死を堺で聞き、岡崎まで逃げて帰った)とマニアックな連想をする人もいるかもしれません。
室町時代後期、周囲は運河(堀)によって囲まれ、「東洋のベニス」と呼ばれていました。
今のGoogle mapでも、堀の跡をかなりくっきり確認できます。私が小学生の頃は、これはそのまま戦国時代のものだと習いましたが、考古学の発展で江戸時代のものだと確定しています。信長が暴れていた頃の堺は、発掘調査によると一回り小さかったようです。
堺は今でこそ大阪府ですが、堺出身の私は大阪市内(方面)へ行く時はいつも、
「大阪に行ってくる」
と言っています。梅田へ行こうが天王寺へ行こうが、USJへ行こうが海遊館へ行こうが、全部「大阪」。幼いころから言っている習慣です。親も、
「大阪のどこやねん!」
と突っ込むこともなく、はい行ってらっしゃいと。
これは、東京から家に泊まりに来た友達に、
「同じ大阪なのに『大阪に行く』っておかしくない?」
と指摘されるまで、おかしいとも何とも思いませんでした。ここは堺、あっちは大阪なんやから大阪言うて何がおかしいねんと。
今は京都市にされている伏見も、江戸時代は京とは独立した地域だったため、地元の人は京都市内へ行く時、
「京(都)へ行く(または「のぼ(上)る」)」
と言うという話を聞いたことがあります。当然おかしいとは思わず、伏見よお前もかという親近感を感じました。
堺は大阪ちゃう!大阪なんて歴史的に見たら青二才やないかい!という、東洋のベニス以来の(?)プライドが、この「大阪へ」というさりげない言葉にあらわれているのかもしれません。私は100%無意識及び、周囲がみんなそう言ってたからですけどね。
堺は歴史的に「商業」のイメージが強いですが、商人が信長・秀吉・家康によって全国に分散させられ弱体化しました。が、商人は全国に定住し、「堺町」などの地名や「堺屋(家)」などの屋号に残っています。
両足をもぎ取られたかに見えた堺ですが、江戸時代には一変、工業都市として発展しました。
今でも「鉄砲町」「材木町」などの地名が残っていますが、職人の町として脱皮した堺は包丁や線香、明治以降に鉄砲鍛冶からジェブチェンジした自転車などで、近代に入っても栄えました。今でも堺に本社がある自転車部品メーカー、八田製作所やシマノ(釣具メーカーとしても有名)もそうですが、スーパードライのアサヒビール、ボーリングのラウンドワンなど、堺を発祥の地とする企業も多く残っています。
大阪の「食い倒れ」という言葉は有名ですが、関西全体では京都の「着倒れ」もよく知られています。堺は「建て倒れ」と呼ばれ、近世から近代にかけて立派な建物が築かれました。もっとも、その建物はほぼ100%、空襲で焼き払われてしまいましたが。
堺発祥のものは、重箱の隅をつつくとけっこうありますが、今回は堺市民もあまり知らない堺発祥の物語を。
民間航空への挑戦
アメリカのライト兄弟が動力付き飛行機の初飛行に成功したのは、明治36年(1903)のことですが、早くもその7年後の明治43年(1910)に日本に上陸します。
同年12月14日、日野熊蔵という陸軍大尉が代々木練兵場から離陸、50mほど飛行しました。これが日本初飛行の記録です。
その5日後の19日、フランス帰りの徳川好敏大尉が3000mの飛行に成功し、今ではこちらが「日本初飛行の日」となっています。
それは何故かというと、理由は3つあったと推測しています。
1つ目は、19日には日野大尉も700mほど飛行しているものの、飛行距離が4倍以上あったこと。
2つ目は、14日の日野大尉の飛行は、「飛んだ」というより「浮いた」程度だった(らしい)こと。
3つ目は、徳川大尉は名前のとおり徳川家(清水徳川家)の御曹司。世が世なら16代か17代将軍になっていてもおかしくない。高貴なお家柄は今でいうアイドルのようなもの、新聞もこちらの方が記事の華やかさが違いますしね。
このように、なんだか消化不良気味のスタートとなった日本の航空史ですが、その30年後には傑作ゼロ戦を作るこの進歩はすごいと思います。
翌年の明治44年(1911)に所沢に飛行場ができ、大正6年(1917)に羽田飛行場(今の羽田空港)が開港しますが、あくまで軍の利用に限られ民間での使用は閉ざされたままでした。
飛行機を民間利用しようという動きは、大阪から始まりました。
大阪でタクシー事業を営んでいた井上長一という人物がいました。
「征空野武士」というあだ名で呼ばれた彼は、堺に日本初の民間航空会社である「日本航空輸送研究所」を大正11年(1922)に設立しました。
すぐに堺~徳島(小松島)の新聞・郵便、そして旅客航空輸送を開始しましたが、なぜ日本初の航空輸送が徳島、それも小松島だったのか。井上は徳島出身で、私の郷里だからと本人が言っています。故郷の徳島へ錦を飾りたかったのでしょう。また、大阪と徳島は昔も今も人とモノの行き来が盛んで、かくいう私の母方も昭和初期に大阪に移り住んだ徳島人でした。うちの母親は大阪生まれですが、祖父母は徳島出身で、かつ徳島に多い苗字でした。
飛行場(空港)と航空機の格納庫が堺の大浜にありました。
昭和4年(1929)の堺市の地図ですが、「日本航空輸送研究所」が確認できます。
これは終戦から1年経っていない昭和21年(1946)のものですが、「日本航空輸送研究所」の格納庫が確認できます。
さらに写真を拡大してみると、フローがついた飛行機のようなものもあるような。
滑走路がないのに空港?と首を傾げた人もいると思いますが、最初の航空輸送は海軍から払い下げられた水上機を使ったものでした。
平たく言うと、水の上が滑走路なのです。
堺市立図書館のデジタルアーカイブには、「大浜飛行場」と書かれた格納庫と飛行機の写真が写った絵葉書が残されています。
1922年、ちょうど航空輸送が始まった当時のものと言われる写真です。右上に三角屋根の格納庫が見えます。
昭和4年(1929)には、「日本国際輸送株式会社」という国営航空会社が設立されました。「日本航空輸送研究所」と名前が非常に似ているのですが、何の関係もありません。あまりに名前がややこしい故に、「研究所」の方を昭和4年設立にしたりと、この2つを混同しているブログ記事もあります。しかし、株式会社と研究所の違いだけじゃあ仕方ない。
「株式会社」の方は親方日の丸のバックを利用し、当時としては画期的な国際線(東京~大連間)を飛ばしたりしていましたが、「研究所」の方は主に近距離線が中心でした。
ちなみに、「株式会社」の方は事実上の国営なので今のJALのご先祖様と思われがちですが、JALの設立は戦後となっており、かかわりはないとされています。
当時の時刻表が残っています。
(「時刻表歴史館」様より借用)
昭和9年(1934)頃と思われるもので、日本航空輸送研究所の名前も掲載されています。
この頃には大阪から松山まで路線が伸び、所要時間は1時間40分。今は大阪(伊丹)から松山まで50分ですが、プロペラ機でかつ高松経由というハンデを考えると、今とさほど変わらないですね。
(「時刻表歴史館」様より借用)
昭和10年(1935)になると、九州の別府・大分まで路線を伸ばしました。上は往路は船で、復路は飛行機でという船会社とタイアップした往復券のパンフです。
この頃になると、旅客機はただ客を載せるだけではなく、機内サービスも始まりました。「エアガール」と呼ばれた客室乗務員による機内食や、キリンビールの支援によるビールのサービスも始まり、「空飛ぶサロン」「空飛ぶホテル」と呼ばれました。日本航空輸送研究所の旅客便も2年半で1万5千人を運び、おそらくこの時期が戦前の旅客輸送の黄金期だったのでしょう。
実は、昭和4年(1929)に発着所が堺から、木津川河口にあった「木津川飛行場」に移転していました。
木津川飛行場はこの位置にありました。今は工場が立ち並ぶエリアに滑走路があったそうです。いちおう飛行場跡の碑が建っていますが、事実上10年しか稼働しなかった空港なので、かつてここに空港があったことを知っている人は少ないと思います。
木津川飛行場に拠点が移った後の大浜飛行場は、パイロット養成所や航空機の車庫として、引き続き使われました。
航空料金はどうだったか。
大阪~別府間の航空料金は25円でした。東京市内の喫茶店のコーヒー1杯が15銭(0.15円)の時代の25円なので、やはり一般庶民には高嶺の花子さん以上の贅沢でした。
しかし私は、あれ?案外安いなというのが素直な感想でした。当時の中卒(今の高卒)の平均初任給が40円、東大卒の官僚の初任給が100円だった時代なので、少数のエリートにはなりますが、少し背伸びすれば手は届く値段ではあります。戦前の旅客輸送なんて大金持ちの道楽やろと鼻から思っていたので。
曲がりなりにも空港もでき、高価ながら旅客・貨物航空輸送もようやく軌道に乗り始めた頃、不幸にも支那事変(日中戦争)による「非常時」の声や、国家総動員体制による航空産業の圧迫が始まりました。旅客輸送は「ガソリン一滴は血の一滴」「贅沢は敵だ」の掛け声のもと縮小させられ、貨物輸送も軍事優先となりました。
そして昭和14年(1939)、日本航空輸送研究所は国営の大日本航空に、航空産業整理の名の下に合併させられ解散、民間航空輸送の歴史は18年で幕を閉じました。
井上は無念だったか、
「18年の光栄ある日本航空輸送研究所の無に帰することは愛児を葬る日のごとき惜別の情がひしひしと胸底を往復し、一抹の悲哀は事業の終末の挽歌と思える。」
という言葉を残しています。
この大日本航空は太平洋戦争が始まるまでのほんの一時期とは言え、この時期にタイのバンコクまでの国際便も飛ばしていました。そこでヨーロッパ行きの便と接続、ヨーロッパまで飛行機で行くことも可能となりました。第2次大戦でおじゃんとなりましたが、ドイツまでの直行便(もちろん、給油のために着陸はしますが)も計画していました。
戦後の復活。そして・・・
戦争が終わり平和な世の中が訪れると同時に、井上のチャレンジが再び始まりました。
敗戦後は一時期、GHQによって民間航空会社の設立を封印されていましたが、サンフランシスコ講和条約による独立後、井上は「極東航空」という航空会社を設立します。極東航空は大阪を拠点に西日本方面への航空便を充実させ、航空業界のガリバー日本航空に真っ向から挑戦します。
同年、東京では極東航空に1日遅れて「日本ヘリコプター」(通称日ペリ)という会社が設立されました。名前はヘリコプターですが、航空機産業にも進出していたので事実上の航空会社です。縄張りは東日本でした。
その後の民間開放で雨後の竹の子のように航空会社が作られ、青木航空、中日本航空、日東航空、富士航空、北日本航空、東亜航空など16社にもおよびました。
航空会社戦国時代の幕開けとも言えるこの時期、日ペリと極東航空が一歩抜きん出ていましたが、それでも極東航空は「極道航空」、日ペリは「日減り」と新聞に揶揄されたギリギリの経営でした。
その後、運輸省の仲介でこの両社が昭和33年(1958)に合併し、「全日本空輸」が誕生します。全日本空輸略して全日空、今はANAと書いた方がわかりやすいかもしれません。わかりやすいのと、全日空と入力しようとするとキーボドを叩く指が絡むので、以後ANAとします。
ここで小噺を。
弟子「すんまへん、予約いっぱいで年末の航空券取れまへん」
師匠「お前取れる言うたんちゃうんか!だから早よから予約しとけ言うたやろ!」
弟子「へい、恥ずかしくてANAがあったら入りたいでごJAL」
ANAの設立日は「日本ヘリコプター」となっているのと、初代社長が日本ヘリコプター側から出ているので、大阪発祥の極東航空は忘れられがちです。日本航空輸送研究所から極東航空の歴史も、戦争により断絶があります。しかし、軍事利用しか考えられなかった飛行機に民間利用という道を築き、航空を大衆の手にというスピリットはANAに引き継がれていると信じたい。
ちなみに、航空会社にはそれぞれ世界共通のコードを持っています。JALのコードは「JL」ですが、ANAは「NH」。NHって一体なんじゃ!?と私は長年不思議だったのですが、同じことに疑問を持っていた人も少なくないと思います。
このNH、「日本ヘリコプター」の略だったのです。
大浜飛行場の場所に疑問を呈する
「日本航空輸送研究所」の場所について、ネット上のあるサイトにはこう書かれています。
「大浜飛行場があったところ、今は漁港とヨットハーバーになっている」
他のサイトも、これに右に倣えかおなじ記述が続きます。
私は堺で生まれ育った人間として、これにすごく違和感を感じるのです。それはなんかちゃうやろと。
もう一度航空写真で見てみます。今は上の写真の海の部分が埋め立てられていますが、当時はご覧のとおり海岸(海水浴場)でした。
この場所を今の地図に当てはめてみると、
こうなります。黄色の丸が少し見にくいかもしれませんが、ご了承を。
航空写真の横を走っている大阪府道204号線の道筋が昔と全く変わっておらず、場所特定は容易でした。といっても、大阪府道204号線なんか地元であればあるほど「どこそれ?」感が強いですが、「旧26号」の正式名称です。名前のとおり、昔ここは「国道26号線」だったのですが、地元の人間は「204号」なんて誰も言いません。みんな「旧26(きゅうにーろく)」です。というか、204号線という名前だなんて知ってました?地元の方。私は今の今知ったんですけど(「旧26」が俗称なことくらいは、うっすら知ってたけれど)。
帰省した時、地元じゃない人に
「すみません、府道204号線はどう行けばいいですか?」
と聞かれても、
「んな道知りまへんわ」
と答える自信はあります。別に意地悪しているわけではなく、「旧26」って言わないとマジメにわからないのです。
それはさておき、飛行場があったとされる大浜漁港とヨットハーバーは、
(今昔マップより)
赤丸が同じ位置を示していますが、思い切り海の向こうです・・・。
右の阪神高速湾岸線がほぼ昔の海岸線に沿っているので、それより左側はすべて海となります。水上機が着陸していたとは言え、出島漁港を飛行場跡とするのはちょっと無理があるんじゃないかと。もしかして、今の海岸線=昔の海岸線とでも思ってたのかな!?
百歩譲って✕ではないにしても、地元民としては○もどうしてもつけ難い。こうして比較してみると私の違和感の理由がわかっていただけたと思います。
忘れ去られた神社
大浜の片隅には、ここが日本民間航空発祥の地だったことを示す、唯一の遺構のようなものが残っています。
ヨットハーバーの端に、「船待神社御旅所」というところがあります。大浜飛行場や日本航空輸送関連の情報をググってみると、「船待神社」というキーワードがちょくちょく出てきます。
が、「船待神社」をGoogle mapで調べると、「御旅所」とは真逆の方向にある船待神社を指します。実際に訪れる方はご注意下さい。私も、あやうく「逆の方」に行きそうになりました。
現在の出島は漁港というよりヨットハーバーとなっており、至って静かな港となっています。
御旅所へと続く道です。土日だからなのか、それとも土日なのになのか、人が一人もおらず少なからぬ寂しさを感じました。ゴーストタウンならぬゴーストハーバーかよと。
少しビックリしたのが、海水が予想外に透明だったこと。
上にも書きましたが、ここはかつて遠浅の海岸でした。遠浅の海岸は船を着けるには不適なものの、海水浴場としては理想の形。ここから少し南にある「浜寺」は、東洋一の海水浴場と呼ばれた一大リゾート地で、夏には関西中から海水浴客が殺到していました。大げさに言えば、ハワイのワイキキビーチやタイのプーケットに行く必要がなかったのです。その有様は、下の記事でもチラッと書きました。
今は埋め立てられて跡形もなく、私の世代には「むかしむかし、あるところに」の日本昔ばなしですが、両親はリアルに泳いでいた世代でした。その両親に昔の話を聞いたことがあるのですが、戦後はお世辞にも水がきれいだったとは言い難かったそうです。オヤジは男なのでそんなの没問題だったそうですが、女の母親は、
「こんなきちゃないところで泳がれへんかったわ」
と申しておりました。他の人の話を聞いても、きれいだったと答えた人は皆無でした。
それが記憶の片隅に残っているだけに、
「なんや、めちゃきれいやん」
と思ってしまったのです。夏ならパンツ一丁で飛び込みたいくらいの透明度。
埋め立てにより海水浴場がなくなった結果、人が水に入らなくなり、工業排水や下水の処理も発展した今、かつてはきれいとは言い難かった海が浄化されていっているのかもしれませんね。
埋立地の端にある、御旅所です。
歴史があり由緒ある神社とは違い鳥居も鉄筋コンクリート製で、血が通っていない無機質な感じがしました。
神社の片隅に、「日本航空輸送発祥の碑」が残っていました。自然石に文字が刻まれ、海を背にして建てられています。
碑の左右には黒い石版があり、左側にはこう書かれています。
「大正十一年六月四日この地に日本航空輸送研究所を設け日本最初の定期航空を開始し二十有余年航空路開拓の貴き犠牲となられた翼友の芳名を刻み冥福と加護を祈る
昭和三十四年六月再建 勲六等井上長一」
この碑は昭和34年に作られたことがわかります。
碑の右側には、航空輸送に貢献したと思われる飛行士の名前が刻まれています。上の言葉から、職務中に殉職した人の名前なのでしょう。
ここには、「航空輸送発祥の地」の碑の他にも、ほのかな謎の碑があります。航空輸送の碑をブログなどで書いた人たちも、気づかなかったか、それとも敢えて記載しなかったのか、誰も書いていない。
それがこれ。逆光なので見づらいと思いますが、
「支那事変記念」
「皇國萬歳」
と書かれています。
支那事変とは日中戦争のことで、昭和12年か13年に作られたものと推定されます。
これ自体は特に珍しいものではないのですが、御旅所がある地は戦後に作られた埋立地。明らかに戦前に作られたものが、なぜ戦後に作られた土地に存在しているのか。
どこからか移転されたものかもしれません。しかし、移転するにしてもこれも移転する必要があったのか。私の推定ですが、御旅所は元々違う場所、大浜飛行場の近くの海沿いにあり、戦後埋め立てられた時にここに移転したのではないか。そうでないと、「支那事変記念」の碑の説明がつかないのですよね。
ここに来て真っ先に感じたのは、御旅所のあまりの荒廃ぶり。
訪れる人も、清掃する人もほとんどいないのでしょう、御旅所は荒れるに任せています。このまま放置プレイだと、おそらくあと2~30年後には草で覆われ容易に人が近寄れない林になっているんじゃないですかね。
高速道路を走る車の音と、風の音、そして波の砕ける音以外は何も聞こえない静寂が、余計に寂しさを引き立てています。
ここで一句。
寂しさや草の紅葉に碑一基
おまけ
ひと仕事終え、大浜飛行場跡の最寄り駅である南海電鉄湊駅前をウロウロしていると、こんなローカルな場所に似つかわしくない建物が。
明らかに大正末期~昭和初期に関西で流行った、中流~中の上家庭向け邸宅です。
こちらはリフォームされていますが、玄関の作りや古風な鎧戸など、家の輪郭はかなり古いと感じました。
で、なぜこれらの建物が「似つかわしくない」のか。
堺は戦争中、米軍の「焼き払うべし都市100選」の24位に選ばれ、昭和20年3月から7月にかけて集中的に空襲を受けた結果、市街地はほぼ完全に焼き払われています。堀に囲まれた市街の「焼け野原率(?)」は確か9割超え。トップの高松市(99.9%)に次ぐ数字です。
終戦から約1年後の昭和21年(1946)6月の堺市中心部の写真ですが、「焼失」というより「消失」。不謹慎ですが、ここまで見事に焼けると逆に気分さっぱりと感じてしまうほどです。
湊駅前あたりは、市街地と言えるほど中心部ではないですが、周囲もかなり空襲の被害を受けています。まだ近い方のここあたりに残っているのが不思議なのです。戦後作られたものかなと思ったのですが、上の風情ある邸宅はあるエリアに固まり、その上2軒3軒ではないので。
で、百聞は一見にしかずということで、航空写真をさらに解析すると、
湊駅より北は空襲の被害を受けていますが、ここあたりはどうやら焼けていない模様。
上にも書いたとおり、戦前のここあたりは遠浅の海岸が目の前に広がるリゾート地でした。当然、大気汚染もほとんどなく環境も良かったので、病気療養の別荘地としても最適でした。
おそらくこれらの邸宅は、大正時代に普及した月賦(住宅ローン)で中級サラリーマンが購入したか、金持ちの別荘だったのだと思います。そしてギリギリのラインで空襲を免れ、現在でも残っているという流れなのでしょう。
ちなみに、ここあたりから少し南の浜寺から高師浜あたりまではリゾート高級住宅街だったので、こういう建築がところどころに残っています。一度だけ賃貸サイトに掲載されていた洋風邸宅の間取りを見たことがありますが、なんと24SLDK。間取りのスケールが違いすぎる・・・そもそもSって何やねんと。あまりのケタの違いに、夢でも見たのかと思いました。ちなみに、家賃は確か32万円でした。
こういう洋風、または和洋折衷建築探しにも、ここあたりは最適です。こういう建築が好きな人は、一度ゆっくり回ってみると興味深いと思います。
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