第26回河童サミット日本海6月8日から〜隠岐へのご縁

河童連邦共和国名誉顧問 田辺達也

 今年の河童サミットは、日本海域の隠岐(島後)と大山(米子・境港)をリンクする壮大な催しです。
 上げ潮に乗る大山隠岐かっぱ村の意気込みと、千代むすび酒造さんのご支援を心強く思います。
 わたくしには、これまで米子に3度、境港に3度、隠岐に2度訪問の不思議なご縁に加え、贅沢に、日野川流域踏査や名和氏ゆかりの伯耆散策もあります。
 そのころお付き合いの始まった河童族とは、年賀状や資料のやり取りが今もつづいており、この人脈は大変な宝物です。
 隠岐の島へは、2回とも日本海からのラブコールでした。
 最初は1996年10月─「全国かたりべサミットin隠岐」を、〈隠岐と河童伝説〉のテーマで競いました。舞台は、樹齢2千年の八百杉で知られる隠岐総社の玉造酢命神社でした。東北は遠野から、九州からは八代でした。遠野は女性の語り部でしたが、見事な話芸に舌を巻き、伝承文芸の立ち後れを痛感しました。
 二回目は2001年8月─隠岐の島文化会館と、人尾川かっぱ公園で開催された「隠岐・島後かっぱ交流会」です。わたくしは〈九州のかっぱ王国と河童たち〉と題し講演しました。
 このとき、隠岐かわこ(河童)の語り部「唐人屋」のご当主、松岡豊子さんと歓談することができ、資料もたくさん頂きました。街おこしリーダーで歴史と民俗に精通する西郷町の斉藤一志さんや、「奈良屋」の松本悦夫さん・佳都子ご夫婦には、西郷港─八百川流域散策、太平記ゆかりの史跡めぐり、海の民俗資料館見学など、大変お世話になりました。
 隠岐の民話なら、海の道を自由に行き来していた古代、渡来人「木の葉人」や「海士」の物語。伝説なら、河童封じに秀吉拝領の刀もからむ「唐人屋のカッパ・権かっぱ大明神」を楽しみました。唐人屋と浅草曹源寺の河童縁起の類似から、双方の交流や説話の回遊に驚いたものです。
 北前船の船頭さんと、島娘の恋物語でしょうか。民謡「しげさ節」と「しげさ踊り」に、天草・牛深発のハイヤ節と、二重写しのロマンを感じました。
 隠岐へ行くなら、日本生まれのカナダ外交官ハーバート・ノーマンが「隠岐の事件は、明治維新後、酢年間における日本の経験の縮図である」と書いた隠岐島民の武力蜂起と世界で初めての自治政府樹立という、フランスのパリ・コンミューンに比定される激動・重厚な近代史を学ぶ余談もありそうです。作家・翻訳家の松本郁子さんの著書「神と語って夢ならず」(光文社)が話題になっており、前出、斉藤さんは取材に協力しています。
 松岡豊子さんには、是非再開したいものです。
 隠岐に限定しましたが、日本海サミットには魅力いっぱい。
 九州からエールをおくります。

(河童共和国大統領・八代市)

本コラムは、2013年5月5日発行・かっぱ新聞(発行所/河童連邦共和国)に寄稿したものです。


第26回・河童サミット日本海(大山・隠岐)

水と自然と文化の調和

平成25年6月8日(土)・9日(日)・10日(月)
主催:河童連邦共和国

回想 河童共和国 中興の祖 福田瑞男さん

河童25(2012)年7月
河童共和国 大統領 田辺達也

1 訃報

 福田瑞男さん(河童共和国名誉大統領、河童連邦共和国名誉顧問)は、一昨年来、福田クリニックで療養中のところ、手厚い看護も薬効も甲斐なく、7月12日未明、肺炎を併発して死去しました。90才。
 告別式は同月14日13時から八代市内の葬祭場でしめやかに執り行われました。5百名出席、河童共和国ゆかりの人は、串山美智子さん(初代大統領未亡人)島久史さん(初代首相)萩本美寿さん(首相)土田典雄さん(国会議長)稲田勇さん(工芸相)福島誠時さん(歴史民族相)小嶋日出章さん(元八代委商工会議所専務)坂口拓史さん(作家)らが会葬して哀悼の意を表し、故人の冥福を祈りました。
 私は梅雨の末期特有の篠つく豪雨のなか、車を走らせました。会場では、この日の激しい雨は福田さんの死を悼む涙雨に違いない、と、みんなうわさしていました。
 以下、福田瑞男さんの河童共和国時代をふり返り、生前をしのびたいと思います。

2 河童共和国の国民

 河童共和国にとって、初代大統領の串山弘助さんが建国の父なら、第2代大統領の福田瑞男さんは中興の祖になります。河童共和国はまたもや素晴らしい指導者を失いました。
 福田さんの入国(入会)は建国2カ月後の1988年4月です。
 福田さんを紹介したのは、八代市役所勤務だった島久史さんでした。島さんは福田さんと同じ日奈久町の出身。河童共和国の建国にかかわり、初代首相。同年8月、八代第1回かっぱサミットで議長団のひとりとして活躍しています。
 福田さんを知ったのは、建国1カ月後の熊日新聞(八代都市圏版、3月5日号)の記事を読んでから。河童コレクター歴35年の福田さん夫婦が紹介されていたからです。
 私は福田さんには、お会いしたことがなく、おつき合いもなかったので、島さんに「日奈久に河童の民芸品を収集する産婦人科のお医者さんで、ガラッパ先生と呼ばれているおもしろい人がいるようですが」と尋ねたら、「福田さんならよく知っている」ということになり、はなしはうまく進みました。
 このように、河童がとりもつご縁により、以後、四半世紀の長いおつき合いが始まったのでした。
 後日、福田さんから昭和59年の熊日新聞の記事(7月12日号)をみせてもらい、二度びっくり。
 河童共和国建国の4年前になります。福田さんらの発起で、坂本善三画伯の『ガラッパ展』(佐藤垢石の熊日連載随筆「山童閑遊」の挿絵集80点)が八代で開かれていたことを、そのとき、福田さん収集の河童民芸品160点も展示されたことを知りました。
「灯台もと暗し」
 八代に河童の大先輩がいたのでした。
 福田瑞男さんは、1988年4月18日付、入国(入会)申込書にこう記しています。
「私は、医師会で“がらっぱ先生”と最近呼ばれだした。頭の毛が薄くなり、皿のように見えるからか。かっぱ民芸品のコレクションで、再三〈川びらき〉の季節になると、マスコミからの取材を受けるからです。
 ところで、小田原在住の作家 中川与一先生(現、かっぱ村村長)とは、全国日本学士会会員同志の間柄で、いまだ面識はありませんが、小説その他では交流あり。近々、八代の河童共和国の建国のことを報せようと思います。なお、漫画家の那須良輔氏とも、更に連絡をとりたいと思っています。」
 福田さんの初舞台は、同年8月、八代開催の第1回河童サミットへの出席でした。
 河童サミット特集誌には、早速、8枚ばかりの「私の河童コレクション由来記」を発表しています。

3 福田さんの河童游々

 河童共和国では、建国直後から、『国立くまがわ自然大学』(通称、かっぱ大学)の建学を準備し、1年後の89年4月、初代学長に福田瑞男さんを選出。6月、第1回公開講座を市内春光寺で開催、学長就任早々の福田さんに講師をお願いしています。
 1990年4月、第2代首相に就任、かっぱ大学学長兼任がしばらくつづきます。更に、串山弘助さん(初代大統領)の病臥(1989年8月〜)により、このあと数年間、大統領代行の重責を引き受けていただきました。
 串山さん死去にともない、1996年3月、河童共和国第2代大統領に選任されました。以後、2005年3月、健康不安による辞任までの10年ばかり(大統領代行を含めると10数年)河童共和国のトップとして、閣議(役員会)をまとめ、内政外交の重責を果たしました。
 福田大統領の大事業には、1995年8月、八代市内で開催の第3回九州河童サミットがあります。このとき福田さんは、九州かっぱ大王として、スローガン『河童の和と輪・あなたが主役』を提唱、サミットは大成功を収めました。
 かっぱ大学公開講座も12回にわたり、受講生は2千人を越えました。
 福田さんの時代、善隣友好の全方位外交によって、河童游々の交流が本格的に始まり、河童族とのおつき合いの輪が一挙に広がりました。07年、芳子夫人の逝去まで、大統領夫婦の仲の良い姿が話題になり、交遊の模範になりました。
 外遊の成果をラフスケッチすると、今では夏の風物詩として定着した河童連邦共和国主催の河童サミットへは、89年・第2回、大津/琵琶湖から、08年・第21回、福島飯坂温泉/摺上川まで。九州河童サミットなら93年スタートの若松/遠賀川から、07年・第14回大村/郡川まで。作家、大野芳さんを代表とする、かっぱ村主催の催事へは、94年・開村20周年式典(東京)や05年・同30周年式典(遠野)への出席があります。
 このほか各地で開催の河童主題の催しへも進んで出席しました。90年・菱刈がらっぱ王国建国式(鹿児島県菱刈)、90年・荏柄天神かっぱ筆塚まつり(鎌倉)、91年・川内がらっぱ共和国建国式(薩摩川内)、92年・菱刈(がらっぱ大王)──佐賀(みずえちゃん)の河童結婚式(菱刈)、96年・御船(船太郎)──宮田(お福さん)の河童結婚式(福田夫妻が仲人)、02年・全日本河童サミットin岩手(盛岡)、03年・第3回世界水フォーラム河童セッション(京都)、05年・銚子かっぱ村開村20周年記念・大利根かっぱフェスタ(銚子)、06年・日本橋かっぱ村15周年記念祭(東京)、09年・浦安かっぱ村開村5周年祭(浦安)、09年・龍ちゃんのカッパ館、河童民芸品収集でギネス認定祝賀会(焼津)、10年・火野葦平没後50年をしのぶ葦平忌(若松)などがあります。
 2年前の1月、葦平忌の若松行きと直木賞作家佐木隆三さん(北九州市立文学館長)との歓談が、最後の交遊になりました。  水環境、食と健康にかかる大きな会議では、88年・菊地養生園祭や89年・水郷水都全国会議(柳川)も記録されます。  書き漏らしがあると思います。首相・大統領の時代、河童族との全国交遊は100回ばかりになろうかと思います。行く先々の会合では、河童のコスチュームと軽妙なあいさつに人気があり、芳子夫人同伴の和やかさも魅惑し、九州八代に福田ありを強く印象づけ、河童共和国の名声を高めました。ふところの深いリベラルな文化人として敬愛されました。
 洋画家・俳人・エッセイストとしても光彩を放ち、京都大学アカデミア賞、第23回熊本県親友社賞、熊本県文化協会の荒木精之記念文化功労賞、八代史談会表彰など受賞多数。
 親友社賞の受賞理由には、「八代球磨川の河童伝説を県内外に広め、河童を通して文学研究や地域交流に貢献した」と記されています。
 河童族の全国組織・河童連邦共和国からは、文化勲章、河童学博士、名誉顧問など、最高の栄誉をいただいております。  河童主題の執筆を整理するには一苦労の膨大な量に上ります。ユニークな作品には「もっこす・かっぱ譚─仙太郎どんな仏飯たべち、がらっぱと相撲ばとったと」(『日本のかっぱ』桐原書店91年刊)や「残党河童こぼれ話」(『九州河童紀行』桐原書店93年刊)などがあり、少しまとまった作品選集なら、『河童行脚on九州』と『河童の和と輪』(いずれも不知火出版会95年刊)があります。このほか、河童共和国公報『九千坊』、河童連邦共和国機関紙『かっぱ新聞』。かっぱ村の『かっぱ村公報』からも友人・福田がらっぱ先生のよすがを偲ぶことができます。

4 御礼

 末尾になって申し訳ありません。
 長年にわたり、福田名誉大統領へ賜りました、全国の河童族・水環境学者研究者・文芸関係者の皆様のご厚情と友愛に対し、心から御礼申し上げます。なお、福田さんの死去にさいし、早速、お悔やみのご挨拶をいただき重ねて深謝いたします。
 今後とも倍旧のご交誼のほどよろしくお願い申し上げます。

2012年7月25日

 

随想 スカイツリーのテクノと言問のロマン

田辺達也

1 関東かっぱ族の並みはずれた力量

 河童サミッ卜は全国会議だけに、組織と運営は大変骨の折れる大事業です。会場の設営と飾りつけ、河童民芸品展と写真展、本会議の受付、議事運営と懇親会の進行、オプションツアーなど、すべてに細心の注意が払われていて、お陰でこの2日間、楽しく過ごすことができました。
 サミット開催24回、このほか日常活動をこつこつたゆみなくつづけた努力によって、河童連邦共和国の存在は中央でもあらためて注目され、市民権を待ていることを確信しました。浅草曹源寺/かっぱ橋と共に、大江戸カッパの双壁である「おいてけ堀」の名声を考慮しても、墨田区の山崎区長や芙点の木久扇師匠の出席など中々できないことですから。  記念サミットにふさわしい成功を、心から喜ぶとともに、連邦本部の卓越した力量と関東かっぱ族のチームワークに敬意を表します。

2 八代サミットから25年

 本会議場のロビーでは、かっぱ民芸品の即売会と河童連邦共和国の歴史を綴る写真展でにぎわっていました。本部の田辺宏守事務局長から、第1回サミット(八代市開催)の写真を展示していると説明を受け、事務局の気配りに感謝しました。
 鏡割りの大役とスピーチを指名される光栄に浴しました。私は25年前、八代から始まった河童サミットの四半世紀をふり返り、感無量の想いを率直に伝えました。
 1988年8月開催の第1回サミット出席者で、2012年の今年まで、おつき合いのつづく河童族は、銚子の大内恭平さん、堺の和田寛さん、八代の福田瑞男さんら僅か数名です。河童連邦の建国委員なら神栖の岡見晨明さんや船橋の牧野圭一さんのお二人、第2回の琵琶湖サミット(大津)の出会いなら、浅草の森本佳直さんくらいでしょうか。
 河童族も高齢化がすすみ、多くの人が亡くなるか病床にあります。今回出席できた八代以来の顔ぶれは、大内さんと私の二人です。共に傘寿を迎えました。

3 業平ゆかりの地

 スカイツリ−には、私なりの興味がありました。天空からの展望ではありません。
 ひとつは、タワーの建造技術。ふたつめは、在原業平ゆかりの地に惹かれたこと。みっつめ、この巨大な建造物は、果たして、区民の生活や地元経済(商売)に役立つものになるのだろうか? ということです。
 私は1950年代後半の数年、東京の生活があります。八代へ帰った60年代以降も頻繁に上京しました。でも、なぜか都東城には縁遠く、せいぜい地下鉄で浅草止まりでした。隅田川に架かる橋の記憶も、浅草近くの吾妻橋と言問橋ぐらい。欲ばっても、駒形橋・厩橋・蔵前橋など三つ四つです。在京時代、仕事場が新橋近くの芝田村町、下宿が中央線の荻窪や西武新宿線の新井薬師だったので、ぶらぶらの場所は、ついつい、有楽町か新宿界隈になっていました。東京タワーは、鉄骨の伸びる様子を仕事場から毎日見上げていたものの、一度も上っておりません。

①スカイツリー見学は、河童連邦本部の特別の計らいで、公開前の入場券が入手できたので実現できました。634mは中途半端な数と思っていたら、この地の古名=ムサシ・武蔵にちなんだ高さと聞いて納得しました。
 最上階、450mの天望回廊は、少し揺れていました。
 夫婦といっても見方は遠います。私の嫁さんは、双眼鏡を持って行ったので、眼下に広がる東京のパノラマを満喫したようでした。その日は前日の小雨も止んで薄曇り、展望には絶好の日和でした。
 私の興味はつくりです。青年時代、エンジニアリングの仕事にかかわった、職能的なならいからでしょうか。鋼管の大きさ、土台とかパイピング工事、遠近のスタイルなどに目が向きました。タワーの心柱はコンクリートと聞いています。足場から天空へ伸びる、大口径鋼管の絡み具合は、遠方からは美しく、近くでは不気味でした。
 巨大タワーを支える土台部分は、もっと末広がりに、どっしり感が安心できるのではなかろうかとか、このタワーはスタイルが良過ぎて、震度7クラスに耐えられるだろうかなど、余計な?心配をしました。
 アニメ(動画)やフィギュア(模型)の世界ではなく、現に目の前で巨大な鉄の化け物に遭遇すると、日本のテクノロジーには脱帽です。財界にとってのスカイツリーとは、高層タワーを発展途上国に売り込むための、実物見本にもなっています。原子力発電所の輸出で、死の灰を世界にばらまくより、少しはましかもしれません。

②言問橋とか業平橋命名の由来から、隅田川対岸の向島の一角が、平安初期の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの地ということは、聞きかじり承知していました。都鳥に言問う伊勢物語の秀歌と、希代の色男の艶聞は余りにも有名だからです。
 『伊勢物語』は、業平らしい貴人の、センチメンタルジャーニーとも読み取れるのですが、何か違うような気がします。
 平安初期の武蔵の国は、京都から遠っ国、ある意味では辺境の地です。名うてのドンファンが、ほれたはれたの悩みを癒す遠国への感傷旅行は、どうもしっくりきません。在平は、武蔵の国の長官(武蔵守)か何かに任官して、東下りしたのではないか? 向島は、平安時代、すでにかなり陸地化がすすみ、貴族や寺社の領有地(荘園)が広がっていたからです。
 あくまでも推量で、伊勢物語の読みの浅さかもしれません。

③スカイサリー周辺の道路は、バス・マイカーで大渋滞でした。違法駐車がふえて地元の人は因っているようです。もともと、江東の下町・職人(中小企業)の町に、突然降って湧いた巨大タワーの出現、日に数万〜十数万人が押し寄せています。見た目の華やかさとは裏腹に、公共トイレ、ごみ、騒音、落雷、電磁波による健康障害など難問山積のようです。拙速なオープン、との声も聞きました。
 スカイツリーは、地上デジタル放送用のタワーです。経営主体は東武鉄道、投入資金は1430億円、入場者は年間270万人予定。30年で回収する計画のようです。
 行政(墨田区)は「地域活性化の起爆剤」にと、120億円つぎ込んだといわれます。区の一般会計は年間約885億円(平成24年度)です。
 さいころの目は逆さまに出ていませんか?
 スカイツリー内の巨大な物品販売施設「ソラマチ」(312店舗)は、テナント料が墨田区平均の3〜5倍もするので、表向き地元優先といっても中々入店できないといわれます。案のとおり、資金力のある大手系列の店舗が目立ちました。
 入場料は3500円、これは世界一高い。展望台世界1の中国(上海環球金融中心、474m)は1900円、世界第2のアラブ首長国連邦(ブルジュ・バリファジョ、452m)は2200円のようです。入場料収入を今年度70億円見込んでおり、大企業のせっかちが透けて見えてきます。
 ここの商品(土産物や飲みもの)も高い。あそこへ行く人は、せめて自前のボトルを1〜2本、用意して行った方がよいと思いました。
 結局、スカイツリーは、乗武鉄道ひとり勝の観光名所になっていやしないか?
 旅行会社は、「スカイツリーの後は浅草へ、隅田川を渡ればすぐそこです」と誘っています。こうなると、いわゆるストロー現象が起きて、地元商店街、素通りのダブルパンチです。そうならないことを切に望みます。

2012年6月

 

随想 八代がらっぱ物語

信友社賞を受賞して

田辺達也

 風土は個性・独自性を主張する

 河童の研究は民俗学(フォークロア)の領域とされてきました。民俗とは「民間に伝えられている風俗・習慣・伝説など」、民俗学とは「主に自民族の伝統的な生活文化・伝承文化を研究対象とし、文献以外の伝承を有力な手がかりとする学問」(国語辞典)ですから、基本的にはそうなると思います。

 長いあいだ文字・文献から遠避けられてきた私たちの祖先は、暮らしの大事や喜怒哀楽を、処世訓や寓話などの形で口づて代々伝えてきました。口承説話が名もない民衆の郷土史といわれるゆえんです。文字と紙の支配者による歪曲の歴史と対比されています。

 いきなりですが、河童の定番に「胡瓜を好む 尻をとる 相撲をとる」があります。水棲の魔性や説話の回遊からして類話の氾濫はやむを得ません。しかし、ところ変われば、河童の呼び名も噺(はなし)の筋や語り口も地方色が滲み出るのか微妙なちがいを感じます。伝説が歴史や自然の衣をまとって語られるからです。

 風土は個性・独自性を主張したいのです。

 河童共和国は、民俗学の手法(むやみに味つけしない「ありのまま・あったること」)を大事にしながら、この学問のやや内向きにこもりがちなハンディを補う努力をしてきました。八代の河童伝説をしっかり組み立てる上でも大事なことでした。

 早いはなし、八代には河童渡来の碑に刻まれた「オレオレデライタ」の8文字があります。この8文字はなぜ刻まれたのか? どんな意味があるのか? 記念碑建立時の長老たちも亡くなり、この解明は半世紀のあいだ手つかずのままでした。民俗学の古典的手法には、説話成立の歴史的背景とか物語の独自解釈に深く立ち入ってはならないタブーめいたものもあったと思います。

 アマチュアであったが故に私たちはその掟?に縛られずにすみました。少年時代に読んだ古代エジプトのロマン(ロゼッタ石の象形文字)に重ねて夢想、「この碑文には何かがありそうだ」と謎解きを試みたのです。

 手探りといえば手探りのなかで瓢箪(ひょうたん)からコマになりました。河童共和国・建国七人衆の智恵は、八代の河童伝説を、古来、海外との交流を物語る擬人説話(呉越の海人渡来)と読み解き郷土史に新しい光を当てたのでした。

 河童学とその先達

 あれこれ論議するうち、河童誕生の背景とその正体、現代の河童ブームを解明するには(ズバリ、河童を知るには)社会科学・自然科学すべて学問の応援が必要と考えるようになり、この領域の研究を特化する学問としていつの間にか《河童学》と名づけておりました。河童の姿は、人と自然、人と人との関係、そして時代の気分を読みとるなかで、初めて見えてくると確信したからです

 しかしこの思考・手法は、何も私たちの専売特許でない大先達の存在と労作を知ることになります。紙面の都合で僅かしか紹介できないのは残念ですが、今から35年前、日本で最初の、河童愛好家の単一組織の結成に参加した大野芳さん(作家、かっぱ村村長)の著書、たとえば『河童よ、きみは誰なのだ』(中公新書)。河童研究50年の和田寛さん(河童文庫理事長、民俗学者)の膨大な論稿集、特に《河童通信、通巻314号》(私家版ブックレット)。利根川の金井啓二さん(詩人・郷土史家)の『河童考ー利根川流域の先住部族』(崙書房)を読んだり、台湾かっぱ族の碩学、林錦松さん(台北かっぱ村村長)が第3回世界水フォーラム京都・水の苑(03年)で発表された、淡水河(台北)から球磨川(八代)への河童渡来説など、説話の背後には様々なエピソードが秘められていることがわかり共感しました。

 声高に《河童学》を呼称しようがしまいが、河童の実像に迫る豊かな研究の粋は、在野の知識人のなかで、すでに成長期に入っていたのです。四氏とも八代を訪問し河童渡来の碑を見学されています。

 アカデミズムにも変化が起きていました。歴史学と民俗学のコラボレーションです。

 熊本県菊池市の天地元水神社から古文書(渋江文書)を発掘、水神信仰の起源と祭祀の系譜を解き明かし、河童国産説に光りを当てた小馬徹さん(神奈川大学院教授)は、一九九〇年代、すでに《歴史民俗資料学》という新しい学問を提唱されていたのです。

 小馬教授は四年まえ菊池市開催の地名シンポジウムでも「水神・河童研究は歴史学と民俗学が同じ土俵で同一事象を共同研究できる可能性を秘めており、歴史民俗資料学創生の手がかりを得た点で意義があった」(『渋江家文書に見る河童信仰』)とのべています。歴史民俗資料学は、河童・水物語を科学の眼で解明する八代《河童学》の切り口・流れにマッチしているのです。

 妖怪学の権威、小松和彦さん(日本文化研究センター教授)は、近刊書『妖怪文化研究の最前線』(せりか書房)でも、「妖怪研究は人間研究である」という持論を展開しています。ここでは⟨妖怪⟩を⟨河童⟩に差し替えてもよいのです。兵庫県立博物館学芸員の香川雅信さんも、この研究は「一見通俗的に見えながら、実はさまざまな学問分野を踏まえた上での広い視野と柔軟な思考が要求される、きわめて高度な⟨知⟩の領域なのである」(同書評)と述べています。

 熊本県出身の民俗学者で地名研究者の谷川健一さんは、直近の熊本(川尻)地名シンポジウムで、「人も文物も歴史の大きなスケールのなかで動いている。かすかな印象の切り口を通して、自分の体験を普遍化していけば、いろんな問題を発展させることができる」と講演しました。

 意を強くしています。

 異色の知的集団

 河童共和国の幸運は、「オレオレデライタ」の解明や河童渡来伝説構築の成果からも明らかなように、異色の知的集団として出発したことでした。パロディ国家ゆえに奇想天外でもあり、聖俗・清濁あわせ呑む居心地のよい魅力もありました。デフォルメ大好き、異なる研究対象を多彩に深く究めて応用力あり、アカデミズムにも染まらず批判精神旺盛なリベラリストが結盟する、現代の梁山泊めく寄り合いとして、一九八七年、胎動が始まったのです。

 この魅力に惹かれて、作家・劇作家の井上ひさしさん、共同通信社の論説委員長だった内田健三さん、医学者でエスペランティストの鶴野六良さん、直木賞作家の光岡明さん、民俗学者の石川純一郎さんや牛島盛光さん、農学者の清水正元さん、水俣学の原田正純さん、人文地理学者でミニ独立国研究者の白石太良さん、霊長類学者の藤井尚教さんら、各界の知識人がエールをおくり河童とのつきあいを深めたのでした。

 このやまなみを書けば延々切りがないので別の機会に譲りましょう。

 歩いた・会うた

 柳田国男や宮本常一、谷川健一や江口司らがそうであったように、民俗学の基本はどうやら歩くこと、いわゆる現地探訪(フィールドワーク)に尽きるような気がします。私たちも建国から二十数年、全国ほぼくまなく駆けめぐったので実感頻(しきり)です。

 現地探訪とは、河童伝説のあるところ、河童族の活動拠点、川と湖と海の流域へ出向くことで、河童主題のエンタメばかりか水環境の学際的な会合にも積極的に参加しました。そこでご当地の風土をはじめて理解し説話の成り立ちに合点することが多いのです。その一方、多くの人を八代に受け入れナビゲーター役を果たし、あるいはマスコミの取材にも協力して八代がらっぱ物語を積極的にPRしました。

 これは初代・串山弘助大統領、2代・福田瑞男大統領以来のよい伝統です。両先輩は河童サミットだけでなく、水郷水都全国会議(四万十川や柳川)など水環境問題や、井上ひさし主宰の遅筆堂文庫生活者大学(山形)が論議する農村・農業問題にも深くかかわり活動のウイングを広げました。

 現場主義は動的で水魚の交わりを進化させ友愛の絆を固めるのに役に立ちました。河童共和国の豊かな人脈と知識は全国行脚のたまものです。福田ー田辺(2人3脚)の河童游々もすでに二十年ばかりつづいて、今ではすっかり有名になりました。

 文化力の酵母菌

 河童共和国の力量は日奈久ペンクラブの影響がプラスしております。日奈久のガラッパ&ドクター福田瑞男さんの存在が大きく、河童の会員さんもこれまで何人もがペンクラブの同人として文学を論じて感性を磨き書く訓練を積んできました。

 日奈久ペンクラブは小さな文芸集団ですが、五十七年の歴史を有して熊本県では最も息の長い活動をつづけており、月報や同人誌『草原』もきちんと発行しています。かく言う私も会員として十七年、この間、例会に欠けなし出席、四~五枚の掌篇なら50点ばかり、三~四十枚の短篇は10作ばかり発表しております。

「継続は力なり!」といいます。書く努力の積み重ねは筆力の質的高まりをうながし、質の高まりが更に量を増す相互作用、いわゆる弁証法的発展(螺旋状の展開)を、河童共和国と日奈久ペンクラブの歳月のなかで実感しています。

 今回、思い掛けなく信友社賞の栄誉に浴しました。経年32回の受賞者で八代市民は四人。全員ペンクラブ同人の不思議。受賞理由も短歌・河童・医学・映画など多彩です。

 河童共和国の豊潤にはペンクラブの酵母作用があったと感謝しています。  少々の手褒めにはご容赦を。

初出・水魚の交わり(不知火出版会)
二〇一〇年一月