【施設情報】
施設名:第2東京タワー(秋葉原タワー/アキバタワー)
場所:現在の秋葉原クロスフィールド周辺

【第2東京タワー建設計画】
1958年(昭和33年)12月23日に完工した「東京タワー」、在京テレビ局を中心とする電波塔として長くその役目を担ってきたが、地上デジタル放送への転換における諸問題および周辺に高層ビルが建てられ今後も同様のビルの建設予定があることから電波障害の問題もあり、1990年代後半から東京タワーに替わる高層電波塔の建設が強く求められていた。
【誘致活動と秋葉原】
新東京タワーや第2東京タワー構想と呼ばれた計画・誘致活動は東京都だけでなく隣県にも広がりを見せた。東京タワーを運営する日本電波塔が1998年(平成10年)9月に東京タワーの隣接地に700メートルを超える電波塔を建設する計画を皮切りに、1998年(平成10年)10月にはさいたまタワー株式会社が埼玉県与野市またはさいたま市、1999年(平成11年)7月には多摩タワー建設準備株式会社が八王子市、2000年(平成12年)5月にはJR東日本が新宿駅南側にそれぞれ建設構想を発表した。他に足立区・豊島区・練馬区などでも誘致団体の設立や計画案の発表が行われたが、その中には秋葉原(千代田区外神田)においても電波塔の建設案が存在していた。
【秋葉原における第2東京タワー構想】
1975年(昭和50年)2月1日に廃止された秋葉原貨物駅や1989年(平成元年)5月6日に移転となった神田青果市場の跡地を中心に駅周辺では1997年(平成9年)頃から秋葉原地区再開発事業計画が進められる中で、既存の電気街を活かす形で世界有数のIT産業の拠点を目指す「秋葉原シリコンアレープロジェクト」が2000年(平成12年)8月に立ち上がり、また2000年(平成12年)12月には東京都が発表した「東京構想2000」の中で都心の様々な地域を対象にインフラ整備を始め、経済的・文化的拠点としての都市機能を有する国際都市を目指す計画が組み込まれており、秋葉原もその対象地域の一つとなった。こうした再開発事業計画が進む中で2001年(平成13年)2月、新聞紙上やテレビ局の会見で秋葉原に第2東京タワーが建設されることが有力であると発表された。
秋葉原は在京テレビ局から近く放送設備の保守・点検等が容易であること、また周辺には電波に支障が出る高層建造物が無かったこと、そして神田青果市場跡を中心に駅周辺の再開発へ向けた一定の用地があったことなどが有力視された主な要因であり、発表後は秋葉原が建設第一候補地として計画が進んでいった。
【秋葉原での建設計画と計画の断念、秋葉原クロスフィールドの誕生】
JR秋葉原駅北西側の神田青果市場跡地は秋葉原の慢性的な駐車場不足の解消を理由に駅前駐車場として整備され、90年代中期になるとより駅に近い場所が公共広場としてバスケットコートや野外イベント会場となっていたが、これまでこの場所に大規模な建造物が建てられなかったのは今後の再開発事業へ向けた暫定的な土地利用のためであった。
2001年(平成13年)2月に第2東京タワー(仮称・秋葉原タワー/アキバタワー)構想が浮上すると駐車場やバスケットコートなどの場所に約600メートルの高層電波塔の建設計画が進み、同年7月には秋葉原を南北に通る山手線・京浜東北線の高架を跨いで駅北東側にも範囲を広げて800メートルを超える建設計画も立ち上がった。これらの計画では電波塔の役割以外に秋葉原地区再開発の礎でもあるIT関連を中心とする経済的・文化的拠点を含めたまちづくり計画も組み込まれており、IT関連企業や大学を含めた学術的施設、商業施設なども入る複合施設として整備されることが予定されていた。
しかし電波発信の際、秋葉原地区では大規模なノイズが発生することが否定できないという電気街特有の問題、また計画や構想ばかり先走りしたことで充分な用地を確保できないなど実現までに多数の難題が浮き彫りになったこと、さらには立地的・環境面でより好条件な地域で積極的な誘致活動が見られるようになったことを受け、2002年(平成14年)に入る頃には秋葉原で第2東京タワー構想が語られる機会も減り、秋葉原での高層電波塔構想は頓挫、実現不可能となった。
【東京スカイツリーの誕生】
東京都心を中心とする各地域で計画の発表や誘致活動が行われてきた第2東京タワー構想、2003年(平成15年)12月17日にNHKと在京テレビ局5社(日本テレビ・TBS・フジテレビ・テレビ朝日・テレビ東京)による「新タワー推進プロジェクト」の発足後は各地でさらに誘致活動が積極的に行われるようになったが、一方で秋葉原のように構想・計画が白紙となる地域も増加していった。
そのような中で墨田区に高層電波塔を誘致しようと2004年(平成16年)10月25日に「押上・業平橋駅周辺地域まちづくり協議会」が設立、これを契機に墨田区における新タワー構想は順調に進み、2005年(平成17年)1月14日に墨田区長を本部長とする「新タワー誘致庁内推進本部」、1月27日には墨田区地元町会・企業・関係者による「新タワー誘致推進協議会」がそれぞれ発足、そして3月28日にはNHKと在京テレビ局5社は墨田区押上地区を新タワー建設第一候補地に指定されるなど墨田区への新タワー建設構想が現実味を帯び、2006年(平成18年)3月31日に墨田区押上地区への新タワー建設が正式に決定した。
2008年(平成20年)6月10日に新タワーの名称が公募により「東京スカイツリー」に決定し、7月14日に東京スカイツリーが着工した。2010年(平成22年)3月29日には高さが東京タワーの333メートルを超え、高さ日本一を塗り替える338メートルとなり、2011年(平成23年)3月18日に完成時の高さとなる634メートルに到達、翌年2012年(平成24年)3月2日の竣工式を経て、5月22日に東京スカイツリーは開業した。また電波塔としてFM放送が2012年(平成24年)4月23日、TOKYO MXが2012年(平成24年)10月1日、そして2013年(平成25年)5月31日にNHKや在京テレビ局(民放)がそれぞれ本放送を開始し、東京スカイツリーが関東圏の電波塔としての役割を担っている。
【神田青果市場の跡地】
JR秋葉原駅北西側の神田青果市場、また駐車場やバスケットコートが存在した一帯は2001年(平成13年)7月31日に再開発に伴い閉鎖、第2東京タワー構想が消えた後にオフィスや商業施設、大学やイベントホールを併せ持つ「秋葉原ITセンター(仮称)」の建設が発表された。「秋葉原ITセンター」は2004年(平成16年)4月20日に「秋葉原クロスフィールド」という名称となり、2005年(平成17年)3月31日に秋葉原ダイビル、2006年(平成18年)1月23日に秋葉原UDXがそれぞれ竣工、同年3月9日に秋葉原ダイビルと秋葉原UDXを中心とする「秋葉原クロスフィールド」がオープンとなった。
施設名:第2東京タワー(秋葉原タワー/アキバタワー)
場所:現在の秋葉原クロスフィールド周辺
【第2東京タワー建設計画】
1958年(昭和33年)12月23日に完工した「東京タワー」、在京テレビ局を中心とする電波塔として長くその役目を担ってきたが、地上デジタル放送への転換における諸問題および周辺に高層ビルが建てられ今後も同様のビルの建設予定があることから電波障害の問題もあり、1990年代後半から東京タワーに替わる高層電波塔の建設が強く求められていた。
【誘致活動と秋葉原】
新東京タワーや第2東京タワー構想と呼ばれた計画・誘致活動は東京都だけでなく隣県にも広がりを見せた。東京タワーを運営する日本電波塔が1998年(平成10年)9月に東京タワーの隣接地に700メートルを超える電波塔を建設する計画を皮切りに、1998年(平成10年)10月にはさいたまタワー株式会社が埼玉県与野市またはさいたま市、1999年(平成11年)7月には多摩タワー建設準備株式会社が八王子市、2000年(平成12年)5月にはJR東日本が新宿駅南側にそれぞれ建設構想を発表した。他に足立区・豊島区・練馬区などでも誘致団体の設立や計画案の発表が行われたが、その中には秋葉原(千代田区外神田)においても電波塔の建設案が存在していた。
【秋葉原における第2東京タワー構想】
1975年(昭和50年)2月1日に廃止された秋葉原貨物駅や1989年(平成元年)5月6日に移転となった神田青果市場の跡地を中心に駅周辺では1997年(平成9年)頃から秋葉原地区再開発事業計画が進められる中で、既存の電気街を活かす形で世界有数のIT産業の拠点を目指す「秋葉原シリコンアレープロジェクト」が2000年(平成12年)8月に立ち上がり、また2000年(平成12年)12月には東京都が発表した「東京構想2000」の中で都心の様々な地域を対象にインフラ整備を始め、経済的・文化的拠点としての都市機能を有する国際都市を目指す計画が組み込まれており、秋葉原もその対象地域の一つとなった。こうした再開発事業計画が進む中で2001年(平成13年)2月、新聞紙上やテレビ局の会見で秋葉原に第2東京タワーが建設されることが有力であると発表された。
秋葉原は在京テレビ局から近く放送設備の保守・点検等が容易であること、また周辺には電波に支障が出る高層建造物が無かったこと、そして神田青果市場跡を中心に駅周辺の再開発へ向けた一定の用地があったことなどが有力視された主な要因であり、発表後は秋葉原が建設第一候補地として計画が進んでいった。
【秋葉原での建設計画と計画の断念、秋葉原クロスフィールドの誕生】
JR秋葉原駅北西側の神田青果市場跡地は秋葉原の慢性的な駐車場不足の解消を理由に駅前駐車場として整備され、90年代中期になるとより駅に近い場所が公共広場としてバスケットコートや野外イベント会場となっていたが、これまでこの場所に大規模な建造物が建てられなかったのは今後の再開発事業へ向けた暫定的な土地利用のためであった。
2001年(平成13年)2月に第2東京タワー(仮称・秋葉原タワー/アキバタワー)構想が浮上すると駐車場やバスケットコートなどの場所に約600メートルの高層電波塔の建設計画が進み、同年7月には秋葉原を南北に通る山手線・京浜東北線の高架を跨いで駅北東側にも範囲を広げて800メートルを超える建設計画も立ち上がった。これらの計画では電波塔の役割以外に秋葉原地区再開発の礎でもあるIT関連を中心とする経済的・文化的拠点を含めたまちづくり計画も組み込まれており、IT関連企業や大学を含めた学術的施設、商業施設なども入る複合施設として整備されることが予定されていた。
しかし電波発信の際、秋葉原地区では大規模なノイズが発生することが否定できないという電気街特有の問題、また計画や構想ばかり先走りしたことで充分な用地を確保できないなど実現までに多数の難題が浮き彫りになったこと、さらには立地的・環境面でより好条件な地域で積極的な誘致活動が見られるようになったことを受け、2002年(平成14年)に入る頃には秋葉原で第2東京タワー構想が語られる機会も減り、秋葉原での高層電波塔構想は頓挫、実現不可能となった。
【東京スカイツリーの誕生】
東京都心を中心とする各地域で計画の発表や誘致活動が行われてきた第2東京タワー構想、2003年(平成15年)12月17日にNHKと在京テレビ局5社(日本テレビ・TBS・フジテレビ・テレビ朝日・テレビ東京)による「新タワー推進プロジェクト」の発足後は各地でさらに誘致活動が積極的に行われるようになったが、一方で秋葉原のように構想・計画が白紙となる地域も増加していった。
そのような中で墨田区に高層電波塔を誘致しようと2004年(平成16年)10月25日に「押上・業平橋駅周辺地域まちづくり協議会」が設立、これを契機に墨田区における新タワー構想は順調に進み、2005年(平成17年)1月14日に墨田区長を本部長とする「新タワー誘致庁内推進本部」、1月27日には墨田区地元町会・企業・関係者による「新タワー誘致推進協議会」がそれぞれ発足、そして3月28日にはNHKと在京テレビ局5社は墨田区押上地区を新タワー建設第一候補地に指定されるなど墨田区への新タワー建設構想が現実味を帯び、2006年(平成18年)3月31日に墨田区押上地区への新タワー建設が正式に決定した。
2008年(平成20年)6月10日に新タワーの名称が公募により「東京スカイツリー」に決定し、7月14日に東京スカイツリーが着工した。2010年(平成22年)3月29日には高さが東京タワーの333メートルを超え、高さ日本一を塗り替える338メートルとなり、2011年(平成23年)3月18日に完成時の高さとなる634メートルに到達、翌年2012年(平成24年)3月2日の竣工式を経て、5月22日に東京スカイツリーは開業した。また電波塔としてFM放送が2012年(平成24年)4月23日、TOKYO MXが2012年(平成24年)10月1日、そして2013年(平成25年)5月31日にNHKや在京テレビ局(民放)がそれぞれ本放送を開始し、東京スカイツリーが関東圏の電波塔としての役割を担っている。
【神田青果市場の跡地】
JR秋葉原駅北西側の神田青果市場、また駐車場やバスケットコートが存在した一帯は2001年(平成13年)7月31日に再開発に伴い閉鎖、第2東京タワー構想が消えた後にオフィスや商業施設、大学やイベントホールを併せ持つ「秋葉原ITセンター(仮称)」の建設が発表された。「秋葉原ITセンター」は2004年(平成16年)4月20日に「秋葉原クロスフィールド」という名称となり、2005年(平成17年)3月31日に秋葉原ダイビル、2006年(平成18年)1月23日に秋葉原UDXがそれぞれ竣工、同年3月9日に秋葉原ダイビルと秋葉原UDXを中心とする「秋葉原クロスフィールド」がオープンとなった。