古賀善次の証言 in 1972


01 02 03



毛さん、佐藤さん、尖閣諸島は私の所有地です
「れっきとした証拠」持ち出し名乗りあげた"地主"の言い分


私は子供ももいませんし、考妻と二人でのんびり暮らしておりまして、正直石油騒ぎには関心ございません。尖閣列島が私個人の所有になったのは昭和七年からですが、そもそも尖閣列島は私のおやじが探険し、明治政府から使用権を受けていたものなんです。それはもうはっきりしております。 私の父親、古賀辰四郎は、一八五六年(安政三年)福岡県八女郡に生まれました。八女地方はお荼の産地として知られ古賀家も代々荼栽培を主とする中流農家でした。古賀家の三男坊だった辰四郎は、明治十二年沖繩に茶の販売にきました。商売は順調に伸び、以後辰四郎は那覇に居を欄えることになりました。そして明冶十五年、八重山石垣島に支店を設けたのですが、この八重山進出が尖閣列島探険につながったのです。当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は烏の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったそうです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そこで、生来冒険心が強い人間なものだから、ひとつ探険に行こうということになったんです。明治十七年のことですがね。

この探険に詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう、翌十八年、父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。ところが、父の話を聞いた当時の沖縄県令、西村捨三がたいへん興味を持ちまして、独自に調査団を派遣しました。調査の結果、島は無人であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に、これを日本領とするようにと、しきりに上申しました。明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探険から十一年後の明治二十八年です。父の探険や西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に膀ち台湾が日本領土となったということが、宣言にふみ切らせた理由と思います。この結果父は、三十年無償供与という破格の条件で尖閣列島の借地権を手に入れることになります。破格とはいいますか、要は無価値に等しい島だからということでしょう。その後間もなく、父は数名の労働者を引きつれて魚釣島に渡りました。いちばん広くて水のあるのは魚釣島だけですからね。父が事業をしていたころは、久場島、南小島、北小島にも労働者が住んでいましたが、みな天水利用です。むろん畑なんかもできません。食糧は石垣島や那覇から運ばせていました。父はこの四島に、鳥の羽根加工や鳥の糞を含んだ珊瑚礁を切り出す工場を作り魚釣島にはカツオ節の製造工場も作りました。何しろ"海鳥の宝庫"です。カツオドリ、セグロアジサシ、アホウドリ、ウミツパメなどが群生していましたから。そして、加工した羽根や剥製は主にドイツを中心に欧州へ輸出しました。また、グアノと呼ばれる鳥糞を含んだ珊瑚礁は、肥料として台湾に売りました。 事栗は当たりたようです。父が陣頭に立って、十五トン程度の船が入れる港もつくられました。あの島に、多い時は二百人を越すエ員や労働者が住みつきまして、活気にあふれていたものでした。

大正七年、父は、六十三歳にしてこの世を去り、私が跡を継ぎました。そして大正十五年には三十年の借地期限も切れたのです。そこでしばらくは借地料を払ってカツオ節工場を経営していたのですが、だんだんそれが負担になってきましたので、昭和六年に払い下げを申請し、翌年許可されました。その日から魚釣島、久場島、南小鳥、北小島の四鳥は私の所有ということになったわけなのです。これら島の登記は、現在も石垣市にちゃんとありますよ。

おやじが探険してから九十年近く、私が払い下げを受けてから四十年にもなります。に もかかわらず中国が何かいい始めたのは、やっとこここ、二、三年のことじゃないですか。何をいっているんですかねえ。戦後、私の所有する島のひとつ久場島を、米軍は射爆場として使いはじめました。使いはじめたのは終戦直後かららしいんですが、米軍が私に借地料を払うようになったのは昭和二十五年からです。地料は年額一万ドルあまり。無期限便用となっていました。だから私は、石垣市にちゃんと固定資産税を納めています。昭和三十四年からですが、去年までは四百ドル、今年からは四百五十ドル、 ちゃんと払っているんです。それに、中国もかつてははっきりと日本領土と認めているんです。事実もありますよ。大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列島沖合いで難破しました。そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と三十一人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。その宛名は、日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島でしたよ。いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。個人からの手紙ではありません。政府としての感謝状なんです。ええ、いまでも保存してありますよ。



<解説>
この資料は『現代』という雑誌の1972年6月号に掲載された、古賀善次のインタビュー記事である(上記文章は善次の発言のみ記載)。善次は大正七年に島を相続したが、翌大正八年に尖閣諸島沖合いで中国漁民を救助しているのが分かる。記者がつけたタイトル記事の「毛さん、佐藤さん」とは、毛沢東と佐藤栄作のことである。善次は辰四郎の長男で明治26年生まれ(1893年4月19日 - 1978年3月5日)。大倉高等商業学校(現・東京経済大学)卒業。






古賀花子へのインタビュー in 1979

古賀商店と取り扱い商品
記者結婚された頃は、先代の辰四郎さんは健在でしたか。
古賀亡くなられた翌年に結婚しました。
記者すると、辰四郎さんのことは、いろいろお聞きになりました?
古賀ええ。辰四郎さんは、ロンドンやニューヨークの博覧会なんかにもいろんなものを出品してはもらった賞状など、たくさんありましたよ。残しておけばよかったんですが、そんなものみんな空襲で燃してしまって・・・。それに先代は、本土だけじゃなく、中国にも知事なんかといっしょに出掛けて、中華料理に使う・・・イリコみたいなものね、それを取引きしていたようだし、貝ボタンやなんかはインドやドイツにも輸出していたようですよ。私はお店のこ とはよくわかりませんけど・・・。
記者それは直接那覇から?
古賀いえ、大阪の店からアメリカやなんかに送ってました。
記者じゃ、古賀商店の本店は那覇にあって・・・
古賀そうです。
記者大阪は支店ということで?
古賀いや支店というより、辰四郎のお兄さんが大阪の店にいましてね。そこへ送り付けていました。そのお兄さんとしう人は、上等の鰹節なんかが入ると、東郷元帥に贈り届けたりしていたそうですよ。すると執事の名前でお礼状が来たそうなんです。でもほんとうは執事はいなくて、ご自分でお書きになってたらしいんです。字を比べてみたら、やっぱり東郷元帥の字だとか言ってしました。
記者大阪ではお兄さんがみて沖縄は辰四郎さんがみて・・・だから物を送るには大変便利であったわけですね、窓口があって。
古賀そうなんですよ。もともと古賀商店の始まりは鹿児島なんですよ。それで明治十二年の廃藩置県と同時に、辰四郎さんが沖縄に来られて事業を始められたんです。で、そのお兄さんのお嫁さんも鹿児島のいいところの出の人でしたよ。



尖閣列島と古賀辰四郎

記者当時、尖閣列島でも工場をやっていたわけですね。
古賀ええ、昭和十六年までですね。その頃になると油の配給がなくなったもんだから・・・。それで、石垣の登野城に鰹節工場を建てていたんです。七〇〇坪ぐらいありましたがね。戦後戻ってみると、工場の機械なんか全部なくなっていて、民家なんかも建て込んじゃって、立ち退いてもらえないものだから、結局、安くてお譲りしたんですがね。
記者すると、燃料の油の配給がなくなって・・・
古賀配給がなくなった。魚釣島は、味噌・醤油やなんかの食料を送らないといけないわけでしょう、働いている人たちの・・・。そうそう、それでね、向うで働いている人は、鰹なんかもいいところばから食べるもんですからね、脚気になるのが出てきてね、大病でもして責任問題になったら大変だしということで、組合を作ったんです。沖縄では始めて作ったんです。
記者組合というのは、産業組合、船主たちの組合ですか。
古賀いえ、乗組員のですね。乗組員が組合を作って、自分たちの健康も白分たちで気をつけるようになる。それに、みながよけいに魚を採れば、それだけ収入も多くもらえるという仕組ですね。食費なんかも組合にした方が経費が安くつということで・・・
記者すると、その組合を通して古賀さんが買い取られるわけですか。
古賀ええ、そうです。ともかく組合の第一号だったそうですよ。
記者それは国からの指導があってやったんですか。
古賀いえいえ、どこからも指導はなくて、自分で考えてやったんです、自発的に。私の聞いたところではそういうことです。
記者工場で働いてた人たちは、どこの出身が多かったんですか。
古賀はじめは大分から来ていました。後には八重山付近です。で、慶良間の松田和三部さんが鰹節工場のことで顕彰されたりしていますが、あれは松田さんが地元の人を使ってやったからなんで、始めたのは古賀の方が一年早いそうなんですね。ただ職人が他県から来た人だということですね。藍綬宝章は翌年になったそうです。それで、思い出しましたが、辰四部さんが亡くなられるときに「おれは考え違いをしていた。大東島を手離したのはおれの失敗だった」とおっしゃっていたと、善次は話をしておりました。やっぱり拝借願いを出す前に探検するとき隨分苦労されて、糸満の漁夫でも恐れをなしてへたばるというような嵐の中を、自分が頑張ったからなんでしょうね。
記者辰四郎さんが亡くなられたのは?
古賀昭和七年です。
古賀あんまりたくさんはいませんでした。戦争になってからはわずかで、若いのが三人と年守りが三人、あとは船が入って忙ししときに仲仕を三人、臨時で雇っていました。
記者使用人は通いで?
古賀住込みは二人でした。
記者主に沖縄の人ですか、使用人は?
古賀ええ、八重山で仕込んで来た人がいましたね。
記者沖縄県出身以外の使用人は?
古賀山口県から一人来ていました。モの人だけですね。
記者八重山の支店をヤっていた人は?
古賀照屋という人です。
記者八重山のかたですか。
古賀いいえ、那覇の牧志の人で、商業の頃、古賀(善次)と同級だったそうです。
記者古賀さんは東京の大倉高商のご出身でしよう。
古賀古賀は一学期は那覇商業に通っていたらしいんですがね、そのときの同級生です。その頃、御木本さんがおれのところはみんな大倉高商出を使っている、優秀だからそっちに行かしたら、ということで、移ったらしいんです。



尖閣列島の処分
記者黄尾嶼は米軍の演習場になっていますね。あれは最初から、まだ本土におられるときから、軍用地料は入っていたんですか。
古賀あれはね、初めはぜんぜん入らなかった。それで、古賀の友人に三井物産の砂糖部の頭をやっている人がおりました。その人に頼んで書類を書いてもらって申請したんですよ。そしたら、すぐにその月から出ました。驚くほど早かったですよ。
記者尖閣を処分されようと思ったのは?
古賀あれはね、栗原さんが、私どもがまだ国場ビル隣りにいる頃、二度ほどお頼みに来られたんですが、古賀はそっ けない返事をして「売らない」としか言わなかったそうです。 そしたら、その後、三年ほどしてから、何度も見えられましてね。 で、あんまり言うもんだから、南小島と北小島、あれはいま何かしようと思っても何も出来ない島だけど、それでもよかったら、その二つはお譲りしましょうと言ったんです。 そしたら、結構です、その代わり、魚釣島をお売りになるときの証文代わりに頂いておくというわけなんです。で、その二つはお売りしたんです。そしたら、一昨年(注意1)の八月、十月にも見えられた。そのとき主人の具合が悪かったんで、そのままだったんですが、去年の二月にもまた見えられたんです。そのとき古賀は、はっきり言わなかったんですが、それだけおっしゃられるんなら、まあ、へんなことにお使いになられないんだったら・・・・というような意味のことを言ったんです。そのあと三月五日に古賀は亡くなりましてね。で、亡くなったあと四月にまた来られたんで、まあ、古賀もああ言っていたし、私もいつなんどきお参りするかわからないいし、古賀の言うところを含んで下されば、ということでお譲りしたんです。
記者何に使うということはお聞きになりましたか。
古賀純粋の金儲けというか、人に転売するようなことは絶対にしないということでした。まあ、あの頃から石油の話はすでに出ていましたしね、石油が出ることは確かなんですから。それはどういうふうになるかはわかりませんけれど・・・。

(注意1):1977年



<解説>
上記は『沖縄現代史への証言・下』(1982年2月発刊)の古賀善次の妻、花子へのインタビュー記事の一部を抜粋したものである。花子は長野県飯山の出身で明治31年生まれ(1898年?月?日 - 1988年1月1日)。旧姓は八田。東大病院看護婦養成所卒業(大正5年6月卒)。東京で看護婦をして体調を崩して静養していたときに、沖縄県立病院の院長をしていた橋本が、学会で東京に来ていたときに沖縄で働くことを勧められ沖縄へ。数年間働いた後、東京に戻って新しい病院で働いていたときに、入院していた芹沢浩牧師(沖縄へ伝道に行ったが結核で東京に戻って入院していた)から古賀善次とのお見合い話を持ちかけられる。花子は以前から善次の顔は知っていたが、何をしている人かは当時まだ分からなかったという(花子談)。