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谷川貞治ロングインタビュー 第1回「K-1の立ち上げと、マイク・タイソン契約の舞台裏」
マイク・タイソン: By Eduardo Merille (Flickr: Mike Tyson at SXSW 2011) [CC BY-SA 2.0], via Wikimedia Commons
日本格闘技の追憶というテーマで、元K-1プロデューサーを務めた谷川貞治氏にロングインタビューを敢行した。第1回はK-1の立ち上げおよびマイク・タイソン契約の舞台裏をテーマにその模様を掲載している。
谷川貞治へのロングインタビューを敢行
1993年に旗揚げされ、瞬く間に日本中を巻き込む関心事となり、世界の格闘技シーンにおいても今なお語り継がれているK-1。
旗揚げから3年が経過した1996年にはフジテレビのゴールデンタイム中継が始まり、翌1997年には三大ドームツアーを敢行し、決勝戦となる東京ドーム大会は5万5000人を動員するなど、瞬く間に国民的な関心事となった。
(クレジット: kennejima - DSCF0082.JPG / CC BY 2.0)
人気が絶頂に達していた2003年には体制が変更され、谷川貞治が社長を務めるFEGがK-1を主催・運営するようになった。
2003年といえば曙太郎がK-1に電撃参戦を果たすと、ボブ・サップと大晦日で対戦した試合は最大視聴率で43%を記録し、民放史上初めて紅白歌合戦を越えた年でもある。
日本格闘技が世界を席巻していた時代に、K-1プロデューサーという立場で様々な辣腕を振るい、世間を驚かせてきた谷川貞治氏に、クイールのリニューアル企画の目玉コンテンツとしてロングインタビューを敢行した。
中にはファンの間で長年解き明かされなかった核心的な内容にも触れられており、今の格闘技を追っていないオールドファンにとっても読み応えのある内容になっているはずだ。
雑誌の編集長として格闘技に携わる
ーー本日は谷川さんのK-1時代を振り返って語って頂きたいと思います。
まったく覚えてないですけど(笑)。僕が語れることであればお話します。
ーーありがとうございます(笑)。それではまず、谷川さんがK-1に携わるまでの経緯を教えて下さい。
僕はもともと出版社で働いていて、『格闘技通信』という雑誌も実質的に僕が立ち上げたんですよ。週刊プロレスの編集長だった杉山さんという方と。
杉山さんは週刊プロレスの編集長だったんですけど、その座をターザンさんに譲り格闘技通信を立ち上げた。杉山さんは格闘技もプロレスも全くわかっていない人なんだけど、雑誌の編集者としてはセンスが抜群の人だった。それでこれからは格闘技の時代じゃないかということで、UWFを中心に格闘技の雑誌を作り始めたんですよ。
その時に20代の前半だった自分が実質的には中心になって格闘技の雑誌を作る作業を始めましたね。僕はその前は空手の編集者をしていたんだけど。
ーー谷川さんは昔から格闘技がお好きだったんですね。
そうですね。格闘技の雑誌を作りたくてベースボール・マガジン社に大学を卒業してから入社して、最初の数年は空手の雑誌を関わっていました。
それから格闘技通信に移ったときに、当時32歳くらいの石井和義さんが大阪から東京に出てきて会社に売り込みに来たんですよ。正道会館の館長をやっていますと。
僕は格闘技はそこそこはファンだから知っていて、特に極真空手が大好きだから空手の流派はかなり把握していたつもりだったんですけど、正道会館は知らなかったんですよ。
「せいどう」と読むのか「しょうどう」と読むのかってそのくらいのレベル。だから「しょうどう会館」ですか?って聞いて、石井館長に「いや、せいどう会館です」と言われた。
石井館長はベースボール・マガジンの本社に風間健さんというブルース・リーと一緒に練習をされていた方と一緒に来たんですよ。最初は風間健さんと会うって話だったんだけど、そのとき石井館長も一緒に来て。
その時の印象は『今までにない空手家』という印象でした。ベルサーチを着ていたし、どうやったら儲かるかとか、空手をどうやって売っていくかという商売の話をされた。当時はバリバリの極真社会で極真から分かれた方はみんないい意味で堅物だったんですよ。『空手はこうしていかなければいけない』とかいう意味では。
『顔面パンチが必要』だとか、『実践で役立たなければいけない』だとか、空手の理論とか浪漫だったりをいろいろ話したりとか、空手の理想を語ってこられたんですよ。
でも石井館長は、『会員を増やす』とか『テレビに出る』とか、『大きな会場で空手の大会を開く』とか、そういう発想の話を聞くのは初めてだった。
それが面白くて大阪に取材に行ったんですよ。そしたら新幹線のホームまで石井館長が迎えに来てくれてさ、しかもベンツのオープンカーに乗ってて(笑)。凄く洒落ていた。
それで大阪駅のすぐ近くの天満というところに大きな道場があって『こんな駅の近くに道場があるんですか』って言ったら、大阪のど真ん中を指差して『空手の道場を始めるときに最初はお金がないからコツコツ地方から始めて都会に出るって考え方を普通の人はするけどそうじゃないんですよ。逆発想なんですよ。一番流行るところに道場を出したほうが話は早くて、その為にどうすればいいか考えるんですよ』みたいな話をされた。
それを聞いてやっぱりこの人は面白いなって。石井館長は僕の格闘技のセンスも気に入ってくれて。僕は『これからは格闘技の団体を作らなきゃいけないですよ』って言ったんですよ。僕は格闘技通信をやっていた時の一番の目標は『週刊プロレスにいかに追いつくか』だったから。そうするにはプロレスファンにも売っていかなきゃいけない。そして格闘技ファンを新たに作っていかないといけなかった。
週刊プロレスがなぜ成り立っているかというと、プロレスは毎週興行があるからなんですよ。でも格闘技は極真が年に1回か2回。キックボクシングに至っては当時はめちゃくちゃ氷河期で、後楽園ホールに行っても何百人しかいない。選手も知られていないという状況だったので、なんとかプロを作っていかないとプロレスに勝てないという話を石井館長としていた。
そしたら石井館長が正道会館の試合の中で、空手の試合なのにリングを組んでグローブを付けてスモークを焚いてやり始めたりとか、そこの延長で格闘技オリンピックとかがあってアンディ・フグが出てきたり。
そういう風な仕事関係ではないけど、アドバイスとかはしていました。石井館長は聞いてきたし、マッチメークにも関わってました。その関係はK-1が出来て最初の10年くらいも全然変わらなかった。
大会がある毎にマッチメークも話しましたし。あの人は人を褒めさせたら天下一品だから『谷川さんが書くだけでチケット売れそうな気がするわ』って言われて、僕も有頂天になって乗せられて。
仕事関係はなかったけど、格闘技通信でチケットを売らさせて貰ったりとか、K-1が人気になれば僕が解説でテレビに出たり、漫画の原作でアドバイスを頼まれたりとか仕事も増えていった。そういういい関係で。
まあ、石井館長はシビアな人だし金銭関係は発生しないほうがいいなと思っていたのが、2000年になる前ですね。
あの頃の石井館長は単身赴任されていて、K-1の成長と共にどんどんホテルが良くなっていった。最初はカプセルホテルだっただけど、新高輪プリンスになって、サクラタワーになって、新宿のなんとかみたいな。そこに呼ばれればお茶のんだり、飯ごちそうになったりしていました。
ー谷川さんは本当に黎明期からK-1に関わられていたんですね。ここから話が遡ってしまうんですが、谷川さんは学生時代はハンドボールとアメフトをされていたんですよね?格闘技はされていなくて。
そうですね。僕の世代は子供のころほとんどが野球をやるんですよ。僕も小学校の時に野球をやっていた。でも中学になってグラウンドが狭くて野球部がなかったんですよ。それで次の人気クラブはサッカー部だったんですけど、僕は手を使えるほうが好きだったのでハンドボールをしようって。それが凄く面白くて中学校と高校は夢中でやってました。
でも大学に行ったら今度はハンドボール部がなかったんですよ。そこで菊野君がテコンドーの試合に出たように、僕がいまさら野球部やサッカー部に入ってもレギュラーにはなれないなって。でもアメフトって大学から始める人ばかりだから試合に出れるんじゃないかっていう、ただそれだけで始めました。
1年生から試合に出たいじゃないですか。球拾いとかで終わるのが嫌なので。例えば菊野くんがレスリングの試合とか、全空連の試合に出てもオリンピックには出れないけど、元の競技から適正があるテコンドーなら目指せるんじゃないかという、そんな感覚と一緒かもしれないです。
でもアメフトはそんなに面白くなかったなあ。競技としては。アメフトってボールが持てない人がいるとか、球を取るだけの人とか、アメリカが作ったスポーツだから凄く分業制になっていてそれが合わなかった。バスケットボールとかハンドボールとか、全員がシュートを打てたりとか完全に分業じゃないスポーツのほうが好きでしたね。
アメフトのラインとか1日100回くらいぶつかるだけで試合が終わりますから。何が楽しいのかなって。ボブ・サップの気持ちがわからないよ。アメフトで楽しいのはクォーターバックだけじゃないのかな。
ーー谷川さんはどこのポジションをされていたんですか?
僕はクォーターバックをやりたかったんだけど、投げるのが得意だったので。でもチームとして背が高いとボールをキャッチする役割にされちゃうんですよ。だから僕はエンドっていう短い距離を走って球をキャッチしてぶつかられて倒れるというポジション。ワイドレシーバーっていうんですけど、長い距離を走って球をとるほど足が早くないので。
ーーそこからの話になるんですけど、格闘技ファンの間では谷川さんとUFCのデイナ・ホワイトがガチで闘ったらどっちが強いのかっていうのがネットで盛り上がっていたんですがご存知ですか?
DJオズマさんも言ってましたね。
ーーデイナはボクシングをやっていて、谷川さんはアメフトなので、MMAで闘ったらどちらが強いのかという話でした。
まあ、真面目には見てないけど知ってます(笑)。僕は格闘技の試合をやりたいって考えたことがなかったので。
僕が子供の頃は猪木さんの異種格闘技戦が全盛の時代だったんですけど、その頃に一番憧れたのは松井館長とかマス大山さんとか、高田延彦さんは猪木さんやブルース・リーに憧れていた。でも僕は梶原一騎に憧れたんですよ。
格闘技の物語を伝える人に憧れたんですよ。だからやるって発想は全く無かった。しかも地元には柔道くらいしか道場がなかったし。格闘技が身近になかった。
今は空手とかキックボクシングはどこにでも道場があるじゃないですか。MMAも凄く多いし。でも当時はそんな環境がなかった。
だから僕は梶原一騎の本を読んで、凄いなあ、なんでこんなに引き込まれるんだろうって、そっちに憧れたんですよ。なんでこんな考え方をできるんだろうって。
ーー谷川さんはナチュラルヘビーの体格があって、格闘技をやれば強そうなのにもったい無いですよね。
まあ、もしやるんだったらと考えると武道のほうになりますね。話を聞いていても身体の使い方とか面白いじゃないですか。やっぱり古武道とか少林寺拳法とか、菊野君がやっている沖縄空手とか、ああいうものは説明を聞く度に奥が深いなって。
あとはやっぱり打撃のほうが好きなんですよね。そしてMMAができて、UFCの最初の大会を見たときは絶対にこの中には怖いから入りたくないと思いましたね。壮絶な試合をやっていたじゃない。
ーー格闘技は好きだけど、伝える側の方に興味を持たれたということですが、谷川さんは最初から記者志望だったんですね。
そうですね。だからベースボール・マガジン社を受けた。だから他の就職活動なんてほとんど知てない。大学生の頃なんて職業なんてよくわからないじゃないですか。だから好きな道に取り敢えず進もうとは決めてましたね。
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シュルトは欠場させられたわけじゃなかったんだ…
平謝りっぽいな
思いました。でも平謝りよりもファン目線で聞いてるのが面白いですね。
マイク・タイソンがK-1に参戦していたら何かが変わっていたのかな…
全盛期のK-1はガチで世界一面白い格闘技エンターテイメントだったと思うし、もっと早くから海外に展開出来ていれば今頃UFCと立場が入れかわっていたまであると思う。
サラッと読みましたが、トンでもないこと連発ですね。後でじっくりと読んでみます。
>アメフトのラインとか1日100回くらいぶつかるだけで試合が終わりますから。何が楽しいのかなって。ボブ・サップの気持ちがわからないよ。アメフトで楽しいのはクォーターバックだけじゃないのかな。
この辺とかメチャクチャだけど、谷Pの声が脳内で聞こえました笑
石井館長がどれだけぶっ飛んでいたかから、谷川貞治がどうK-1に関わっていったを知れるのは青春をK-1観戦で過ごした自分にとっては凄く意味がある。
そしてビーストコールであったり、シュルトの疑惑の欠場とかその時代のファンだったら絶対に気になるポイントを抑えてくれているのが凄く嬉しい。
次回以降に予告されているダイナマイトUSAの失敗談とかも非常に気になりますね。これは期待したい。
素晴らしいインタビューだ。早く全部読みたい。
あの時は55,000人も入ってたのか。
スゴかったもんなぁ。
とりあえず1ページ目だけ読みましたが凄い内容ですね。無料で読んでいいの?というくらい。有料記事でも全然お金払いますよ。このペースで続けて体壊さないか心配ですが、応援してます。頑張ってください。