2017.12.12
凡人という模範
二十世紀まで凡人たちはずいぶん粗暴で馬鹿騒ぎしていたのだが、団塊世代の品性下劣さに比すると、最近の若者はずいぶんマナーが向上している。未だに暴れているのはDQN枠と障害者枠だけであり、これに当て嵌まらない人間を凡人と定義するなら、凡人はずいぶんおとなしくなった。コンプライアンスの意識の高まりとも相関関係はあるだろうが、かつては俗衆と揶揄されていた凡人が模範的に見えるようになってきたのである。結局のところ凡人は適応力が高いので、水に入れば魚になってみせるような具合で、世の中の水準に合わせている。社会が暴力的になれば、凡人はまたその屍山血河に適応するのだから、カメレオンみたいな性質という話であるし、決して正法眼の持ち主として持戒しているわけではあるまいが、進歩史観で世の中を見るのであれば、凡人たちは俗悪さを克服したのであり、マナー向上に後戻りはないという見解も可能である。
また凡人だからロースペックとは限らない。インターネットの発達により、能無しを極めた人格障害者をたくさん見かける昨今においては、気質としての平凡/非凡と個人の性能を切り離して考えることも可能である。性能は高いが、思考パターンが凡人そのものということもある。ほどほどに大過なく生きたなら、人生に未練を持つことすらない。人間の交換可能性は性能によって違いがあるし、ハイスペックな人ほど代役を探すのは難しいが、とはいえ、代役がいるのも確かである。たとえば医者が不慮の事故で死んだとしたら、別の人間が医学を学べばいいだけ、とも言える。もちろん優秀な人間は限られているから、大量生産するわけにはいかないし、交換可能性を強く言い立てるのも誤謬ではあるだろうが、別の誰かで補充可能なのも確かである。その交換可能性の儚さに何ら痛痒を覚えず生きていて、自分しかできない独自性の探究という煩わしいことはしないのである。
ニュートンは自らを巨人の肩に乗っているに過ぎないと評した。この真意については様々な意見があるが、ここで細かい考証をするのはわたしの手に余るし、そもそも必要がないであろう。人類という巨人がいて、 ニュートンはその肩の上に乗っただけであり、 突如としてニュートン力学が生まれたわけではないということだ。 そういう控え目な態度であるのと同時に、人類の最頂点に立って、その未踏たる望楼から誰も見たことのない風景を眺めたという自負でもある。巨人の肩に乗ってこそ真実がわかるのであり、有象無象に埋もれているなら何もわからない、と敷衍することもできる。
本質的に人類は分業であり個々人は交換可能な部品でしかないが、その巨人の肩に乗り爪痕を残したがる人がいるかと思えば、そのような渇望を持たないハイスペックな凡人が少なからずいるのも確かである。死後の名誉というのは、 他人の中に自分を残すという願望であろうが、 われわれの大半は、自分の先祖のことでさえ、何百年も遡ればまったく知らないのが普通であるし、 記憶の連鎖は容易く途切れる。 だからこそ、人類という巨人のレベルで記憶されようという未練がましい欲求が生じるのかもしれないし、われわれは自分の江戸時代の先祖がどういう人物か知らなくても、ニュートンなら知ってるので、 修辞を弄するなら、ニュートンはまだ生きているとも言える。とはいえ、ニュートンが死亡しているのも間違いのない事実だ。世の中のエリート層の少なからずは気質として凡人であり、人類史に爪痕を残したいと切望などしておらず、 アッパークラスの無名人として人生を楽しんで穏やかに死んでいければ最高と考えている。そして昨今の凡人のマナーのよさからして、もはや俗衆と蔑むわけにもいかず、模範的なお手本として蒼天まで聳え立つように屹立している。
また凡人だからロースペックとは限らない。インターネットの発達により、能無しを極めた人格障害者をたくさん見かける昨今においては、気質としての平凡/非凡と個人の性能を切り離して考えることも可能である。性能は高いが、思考パターンが凡人そのものということもある。ほどほどに大過なく生きたなら、人生に未練を持つことすらない。人間の交換可能性は性能によって違いがあるし、ハイスペックな人ほど代役を探すのは難しいが、とはいえ、代役がいるのも確かである。たとえば医者が不慮の事故で死んだとしたら、別の人間が医学を学べばいいだけ、とも言える。もちろん優秀な人間は限られているから、大量生産するわけにはいかないし、交換可能性を強く言い立てるのも誤謬ではあるだろうが、別の誰かで補充可能なのも確かである。その交換可能性の儚さに何ら痛痒を覚えず生きていて、自分しかできない独自性の探究という煩わしいことはしないのである。
ニュートンは自らを巨人の肩に乗っているに過ぎないと評した。この真意については様々な意見があるが、ここで細かい考証をするのはわたしの手に余るし、そもそも必要がないであろう。人類という巨人がいて、 ニュートンはその肩の上に乗っただけであり、 突如としてニュートン力学が生まれたわけではないということだ。 そういう控え目な態度であるのと同時に、人類の最頂点に立って、その未踏たる望楼から誰も見たことのない風景を眺めたという自負でもある。巨人の肩に乗ってこそ真実がわかるのであり、有象無象に埋もれているなら何もわからない、と敷衍することもできる。
本質的に人類は分業であり個々人は交換可能な部品でしかないが、その巨人の肩に乗り爪痕を残したがる人がいるかと思えば、そのような渇望を持たないハイスペックな凡人が少なからずいるのも確かである。死後の名誉というのは、 他人の中に自分を残すという願望であろうが、 われわれの大半は、自分の先祖のことでさえ、何百年も遡ればまったく知らないのが普通であるし、 記憶の連鎖は容易く途切れる。 だからこそ、人類という巨人のレベルで記憶されようという未練がましい欲求が生じるのかもしれないし、われわれは自分の江戸時代の先祖がどういう人物か知らなくても、ニュートンなら知ってるので、 修辞を弄するなら、ニュートンはまだ生きているとも言える。とはいえ、ニュートンが死亡しているのも間違いのない事実だ。世の中のエリート層の少なからずは気質として凡人であり、人類史に爪痕を残したいと切望などしておらず、 アッパークラスの無名人として人生を楽しんで穏やかに死んでいければ最高と考えている。そして昨今の凡人のマナーのよさからして、もはや俗衆と蔑むわけにもいかず、模範的なお手本として蒼天まで聳え立つように屹立している。
スポンサードリンク