近頃は書く/打つというよりも、読むということが多くなって、この日記を更新する頻度が著しく下がった。このままでは自身に課せた月に最低10項目は書くという飛行訓練に届きそうもない。まあそれ別にどうでもいいのだが。わたしは少々活字中毒気味なので、誰かしらひとのブログをみているとついのめり込んで読んでしまう。時間もないのに。
それからいざ書きだす段になると、言いたいことが多すぎてどうも文章が長くなってしまう。長くなるのは悪くない。けれど、ただ冗長なだけで、いつまでたっても主題にたどり着けないのがいけない。わたしがわたし自身に伝えたいことすら、そんな調子だから困る。わたしはわたし自身の心の声すらも言い表せない。
ネットを巡っていると、様々なひとがいる。様々なひとがそれぞれ様々な人生を語っている。実に巧みに。なかにはプロのひともいる。そういうひとたちの作品やら文章やらが無料でみられるというのだから、本当に、驚くべきはなにより現代だ。
みんなそれぞれ自身の心の声に従い、本気で本当のことをいっているようにみえる。もちろん時には不都合な事情を隠してはいるだろうけれど、そんな隠したペルソナなど、まるで薄皮のようにおもえるくらいに、それぞれが本気の声を上げていて、時々そそういうひとたちの世界が理解、というか触れられたとおもえる時がある。
この体験は、正規に販売されている優れた作家の優れた作品なんかでも、なかなか体験できることではない。意外にも。
それは確かに、荒削りで不確かでいい加減な情報ばかりの空間だが、だからこそ見分けやすいし、また、そういうひとたちがこれほどまでに沢山いたのだと思えるということに、わたしは驚愕し、時に戦慄し、時に希望ともなる。
わたしは日記を書いている。それなりの切っ掛けのもとに。自分自身のために。当初からそれは変わらない。もっとも熱烈な読者は自分。最も聞きたい声は、自分自身の心の声だ。
ところが、近頃はどうやらこのわたしの駄文を、本当に読んでくれているひとがいるという事実に気がつき、なによりも感激している自分がいる。
当たり前だけれど、わたしが書くこの世界の、このパソコン画面の向こう側に、本当に誰かがいて、すごく温かい、血の通った交流をしているということに、毎回驚いている。それはいつまでも馴れることなく、新鮮だ。
『はてな』の星も、もらってみると嬉しいものだ。はじめの頃はたぶん、お情けというか、社交辞令というか、そういう感じで星をつけるひとたちばかりだったとおもう。けれど最近は、ちゃんとレスポンスもくれ、拙い絵さえも褒めてくれるひとがいる。ほんとうに嬉しいことだ。
だからなにかお礼を伝えられたらいいなと常々おもっている。あるいはなにかしらの励ましの言葉。あるいは気持ちを。けれどなにも思いつかない。なにひとつ。
たとえば人生を窮屈に感じているひとになにがいえるだろう。困っているひとに。たとえば、心が弱ってしまったひとに。なにがいえるだろう。
まえにも書いたが、わたしにいえる言葉はない。何もない。
人類は言葉によって進化した万能の生物だ。けれどそいつはいつも、ほんとうに必要なときには決まって無力なのだ。
だったら、自身の苦労話でもしてみるか?実のところをいえば、わたしの人生ってやつも、ひととはかなり違うだろう。いささか数奇だし、可笑しくもあるだろう。それを笑いあうか。わたしなんかにも、決して消えない記憶も刻まれているし、できれば墓場まで持っていきたい心の傷もひとつやふたつあるだろう。そいつを打ち明けてみるか。それで、自分も苦労したがこうしてなんとかやっている、だから大丈夫、とかなんとか、力強くいってみるか?
だがそんなことしてなんになるだろう。そんなこと無責任なだけだろう。だからわたしはそんなことは語らない。優しい言葉をいったりもしない。なぜならわたしは大人だから。立派な“大人”だからだ。
わたしは要領が良い。自分でいうのもなんだが。コミュニケーション能力も高いほうだ。社会の底辺で過ごすはずだったわたしが、結局こうして一日中椅子に座り、時には働いているふりをして、ぼんやりネットを眺めたりしていられるのは、ほぼ100パーセントこのコミュニケーション能力によるものだ。
また、わたしはオンラインゲームで知り合った友人が数人いる。そこでは違うアカウントを持っていて、違う名前を名乗っている。彼らとは何度かあったこともある。友人と呼べるひともいる。彼らはナマケモノのことを一切知らない。
わたしはスマホをもっていない。携帯電話はメールだけ。だからTwitterもFacebookもやらない。必要もない。いまはまだ。
それからわたしは友だちが少ない。その友だちともほとんど連絡を取らない。あえてそうしている。便りがないのは無事な証。それが信条。
わたしは開いている。開いていて、いつでも笑顔で他人を中庭に招じ入れている。ところがいつも部屋の扉は閉じられていて、窓には鎧戸がかかっている。部屋には決して入れはしない。
なぜなら私は要領が良いからだ。要領の良い人間はそれができる。だから、だれかが傷ついている時でも、わたしは同調し、心を痛めながら、同時に仕事にも打ち込める。だれかを心配しながらも、いっぽうで僅かな持ち株の値段に気を揉んでいる。仮想通貨にさえ興味を抱いている。世の中に溢れる貧困や飢餓や暴力や差別、嫉みそねみに心を引き裂かれる想いでいても、その夜には酒を呑んで笑っていられる。わたしはずるい。ずるくて無神経だ。嘘もつく。その嘘も、平気で忘れる。たとえバレても笑い飛ばす。些細なことだと笑い飛ばす。
聞きかじりでの心理学的な話。先天的な心の話。ひとが困っているときに「どうしたの?」と声をかけられるAさんと、かけられないBさんがいる。どちらが外交的でどちらが内向的か?という質問。
実は、平気で声をかけられるAさんが内向的で、声をかけられないBさんが外交的なのだそうだ。心理学的には。
Aさんは自分に自信がなく、常に外に答えがあるとおもっているので平気で無神経に声をかけられるのだそうだ。いっぽうBさんは自分に答えがあり、常にひとの信条と違いを尊重していて、だからこそ安易に声をかけられないそうだ。
この話によれば、コミュ障とよばれるひとは、本質的に外交的ということになる。
わたしはたぶん、先天的にはBさんのほう。心理学的には外交的。
だからどうしたという話。わたしはAさんに憧れる。ひとが困った様子をみて、平気で話しかけられるAさんが好きだ。話しかけた結果、無神経にひとを傷つけてしまうことがあっても。たいして考えもせず、行動できる無神経さが好きだ。
だから、わたしは後天的な学びによって、Aさんを目指した。だれがなんといおうと、困っているひとに話しかけ、年寄りに席を譲り、かわいそうな猫や犬たちに心を痛め、同時に肉を喰らい、同時に屠殺される牛や豚には目をつぶれる。そういう無神経さを目指した。
そしてそれができた。なぜならわたしは要領が良いからだ。わたしは無神経になることができた。わたしは常に本気にならずいられる術を学んだ。だましだましやり過ごす術を学んだ。そうしてわたしは“立派”な“大人”になっていき、この社会に溶け込むことができた。
わたしは要領が良い。要領が良いということは、誰かを頼れるということだ。ズケズケとひとの領域に踏み込み、無茶な頼みごとを平気でできるということだ。だからわたしは若い頃のクズのような生活から抜け出せたのだ。
わたしがいまここに居られるのは、間違いなく他人に頼ってきたからだ。なぜかMacintoshをわたしの部屋に置いてくれて、いまの仕事につく切っ掛けをつくってくれたのは他人だった。ひどいぜんそくに見舞われた際、わたしを救ってくれたのは他人だった。突然家を出なくてはならなくなった時に、すばやく引っ越しの手配をしてくれたのも他人だった。ここでは書かないが、まだまだ山ほどある。それこそ腐るほど。
わたしは要領が良いので、他人に頼ることができる。いつでも。だからいつでも他人に感謝している。だから無神経でもいつでもなにかしらの言葉を探している。感謝の言葉を。
毎回のようにサリンジャーのはなしになるが、『フラニーとゾーイー』という小説の話。兄のフラニーと妹のゾーイーが対話を続ける話。ふたりで話し合っている最中、ゾーイーがなにやら呟いている。フラニーがそのことを問うと、彼女は「いつでも祈っていることが可能かどうか試している」と答える。
いつでも。風呂に入るときも友だちと話しているときも食事をしているときも寝るときも、祈ることは可能だろうか?
この物語を読んで以降、わたしはそのことが頭からずっと離れなかった。はたしていつでも祈ることは可能だろうか?この問いに行き当たった時からずいぶん時間がたった。
そして、答えはできる、だ。
いつでも祈ることはできるのだ。理由もなにもない。あっても話すつもりもない。ただ、わたしにはそれができるのだ。ずいぶん時間がかかったけれど、それがわたしの行き着いた真実なのだ。だれがなんといおうと。
それから、「花束」という言葉が好きだ。花束なんて贈ったこともないのに。なぜか好きだ。子供の頃、かつてわたしの母親は、花が嫌いといった。花は枯れちゃうから寂しいじゃない、といった。わたしはそのこともずっと考えていた。ゾーイーの問いと同じように、頭の片隅の領域にいつも残していた。
そしてある時、それはとても寂しい考えだということに辿り着いた。確かに花は枯れる。けれど、枯れたらまた贈れば良いではないか。いつでも、だれにでも。贈ればいいではないか。わたしはそう思うことにした。
わたしは5つの顔をもっている。仕事の顔とゲームの世界での顔と休みの日の顔と恋人といるときの顔、それからこの日記での顔だ。
どの顔でいるときも、いつでも感謝している。贈りはしないけれど、いつも心では花束を贈っている。誰か他人に。
たとえ、そのひとたちの顔を知らなくても、知っていても、それが誰かは関係ない。いつでも感謝している。そして祈っている。もちろんここに訪れてくれるひとたちにも。
それが無神経で“立派”な“大人”ができる。せめてもの心づかいだと思うからだ。
── けれどどうやらネットの世界で花束を贈るのは難しいようだ。だからこれから「はてなスター」を購入することにする。運営の思う壷と知りながら。
なんでそんなことをするのかって?なぜならわたしが、“立派”な“大人”だからだ。
これから大人パワーで購入したこの感謝を、楽しい記事を書いてくれる“他人”に、バンバン贈ろうと思う。
またしても冗長。