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2017年12月14日 (木)

いやそれがジョブ型・・・

Eyecatch_immig_france625x352クーリエジャポンのサイトに「「フランスで働く」現実はこういうこと!|仕事探しからフランス人との付き合い方まで教えます」という記事が載っているんですが、

https://courrier.jp/news/archives/105626/

その中にこんな一節が・・・。

だが、そこで直面したのが「学問の壁」だ。フランスでは、大学の科目が職業に直結する。

「豊田通商を辞めてから、転職活動をしたのですが、次の仕事が見つかるまで1年くらいかかりましたね。フランスの人材紹介・派遣会社に10件以上登録しました。だけど、毎回こう言われるんです。『あなた、金融の勉強をしたことないでしょ。ファイナンスアナリストの仕事をしていたみたいだけど、勉強はしていないよね』って」

いやそれがまさにジョブ型、というかその中でもとりわけ学校教育システムによる職業資格をもっとも重視するフランス型労働社会の特色なんですね。

参考

http://hamachan.on.coocan.jp/webrousei161212.html(ジョブ型社会のアキレス腱)

・・・・・ジョブ型社会というのは、こういうフォーマルな教育訓練制度を修了することで獲得された「資格」でもって特定のジョブに「就職」する社会なのです。逆に言えば、そういう「資格」がないゆえに「就職」できないというのが、欧米の雇用失業問題であり、それゆえにそれに対する対策は主として教育訓練に力を入れて「就職」できるような「資格」を与えることになるわけです。それが役に立つ政策であるのは、労働社会が「資格」に基づいているからです。フォーマル学習に基づいて発給された「修了証書」がその人のスキルを表すものであると社会の多くの人々が受け取ってくれる社会であるからこそ、「資格」を得た人はスキルのある人とみなされることになるのです。

ここは皮肉な話ですが、日本では非正規労働対策として教育訓練に力を入れてもあまり役に立たないことと裏腹の関係にあります。日本人が欧米の教育訓練関係文書を読んで一番違和感を持つのは、おそらく“「資格」イコール「スキル」”という前提をほとんど疑わないで議論が進められていることでしょう。日本人にとって、ある労働者が「できる」か「できない」かは、そんな「資格」などではなく、同じ会社の社員同士長年付き合ってお互いによく知り合うことによってこそよく分かるものだからです。とはいえそれは、日本以外の社会ではほとんど通用しない感覚です。

 しかし、だからといってジョブ型社会に問題がないわけではありません。いやむしろ、本当にその労働者がその仕事を「できる」のかどうかは、フォーマル学習で得られた修了証書だけで決まるようなものではないのではないか――という素直な疑問が、欧米でも当然のように提起されてきます。そう、そこで「ノンフォーマル学習」だの「インフォーマル学習」だのという概念が登場してくるのです。

上記勧告は、続いて「ノンフォーマル学習」を、教師-生徒関係のような一定の形をとった計画された活動として企業内や市民社会団体によって行われるもの――と定義しています。いわゆるOff-JTがこれに当たるといってよいでしょう。

これに対し「インフォーマル学習」は、日々の労働に関わる活動の結果としての学習で、いわゆるOJTがこれに当たります。多くの人が日々の仕事をしながらパソコンのスキルを身につけてきたと思いますが、これなど典型的なインフォーマル学習ということになります。

言うまでもなく、欧米社会でもこういう形で実際のスキルを身につけるのはごく普通のことです。実際に仕事をする上で使っているスキルの大部分は、フォーマル学習に基づく資格よりも、こうしたノンフォーマル・インフォーマル学習で身につけたものだという調査結果もあります。問題は、ジョブ型社会というのは、そうした「資格」なきスキルを素直に認めてくれるような仕組みではないということなのです。日本のようなメンバーシップ型社会であれば、「資格」などといううるさいことはほっておいて、同じ社員同士「あいつはできる」と理解し合っていればいいのですが、ジョブ型社会ではそうはいかないのです。そう、ここにジョブ型社会の最大のアキレス腱(けん)があるのです。

 そこでこの勧告は、加盟各国に対して、こうしたノンフォーマル・インフォーマル学習で獲得した知識、スキル、職業能力を「認定」(ヴァリデーション)する仕組みを構築するよう求めています。学校や大学、訓練校に通って得るのと同じ「資格」を、企業やNGOのOff-JTやOJTでそれらを身につけた人々にも与えることができるようにしようというわけです。そのために、例えば技能検査(スキル・オーディット)をすることも示唆されています。そうやって、一国の職業資格制度の中に位置づけていこうという動きなのです。

 改めて日本人の目から見ると、欧米社会は何でこんなことに血道を上げなければならないのかがよく分かりかねるかも知れません。仕事を通じてスキルを身につけたと周りの人間が分かっているのなら、そういう風に扱えばいいじゃないか、と。しかし、そういうわけにはいかないのがジョブ型社会なのです。だからこそ、EUの重点政策としてノンフォーマル・インフォーマル学習ということが打ち出されたりもするのです。 ・・・・

http://hamachan.on.coocan.jp/hirotakaken.html(広田科研研究会議事録)

・・・私は実は、どういうジョブについてどういうスキルを持ってやるかで仕事に人々を割り当て、世の中を成り立たせていくジョブ型社会の在り方と、そういうものなしに特定の組織に割り当て、その組織の一員であることを前提にいろいろな仕事をしていくメンバーシップ型社会の在り方の、どちらかが先験的に正しいとか、間違っているとは考えていません。
 ある意味ではどちらもフィクションです。しかし、人間は、フィクションがないと生きていけません。膨大な人間が集団を成して生きていくためには、しかも、お互いにテレパシーで心の中がすべてわかる関係でない限りは、一定のよりどころがないと膨大な集団の中で人と仕事をうまく割り当てることはできません。
 そのよりどころとなるものとして何があるかというと、ある人間が、こういうジョブについてこういうスキルがあるということを前提に、その人間を処遇していくというのは、お互いに納得性があるという意味で、非常にいいよりどころです。
 もちろん、よりどころであるが故に、現実との間には常にずれが発生します。一番典型的なのは、スキルを公的なクオリフィケーションというかたちで固定化すればするほど、現実にその人が職場で働いて何かができる能力との間には必ずずれが発生します。

 ヨーロッパでいろいろと悩んでいるのは、むしろその点です。そこから見ると、日本のように妙な硬直的なよりどころがなく、メンバーとしてお互いによく理解しあっている同じ職場の人たちが、そこで働いている生の人間の働きぶりそのものを多方向から見て、その中でおのずから、「この人はこういうことができる」というかたちで処遇していくというやり方は、ある意味では実にすばらしいということもできます。
 ただし、これは一つの集団組織に属しているというよりどころがあるからできるのであって、それがないよその人間との間にそうことができるかというと、できるはずがありません。いきなり見も知らぬ人間がふらりとやってきて、「私はできるから使ってくれ」と言っても、誰も信用できるはずがありません。そんなのを信用した日には、必ず人にだまされて、ひどい目に遭うに決まっています。だからこそ、何らかのよりどころが必要なのです。
 よりどころとして、公的なクオリフィケーションと組織へのメンバーシップのどちらが先験的に正しいというようなことはありません。そして、今までの日本では、一つの組織にメンバーとして所属することにより、お互いにだましだまされることがない安心感のもとで、公的なクオリフィケーションでは行き届かない、もっと生の、現実に即したかたちでの人間の能力を把握し、それに基づく人間の処遇ができていたという面があります。

 おそらくここ十数年来の日本で起こった現象は、そういう公的にジョブとスキルできっちりものごとを作るよりもより最適な状況を作り得るメンバーシップ型の仕組みの範囲が縮小し、そこからこぼれ落ちる人々が増加してきているということだろうと思います。
 ですから、メンバーとして中にいる人にとっては依然としていい仕組みですが、そこからこぼれ落ちた人にとっては、公的なクオリフィケーションでも評価してもらえず、仲間としてじっくり評価してもらうこともできず、と踏んだり蹴ったりになってしまいます。「自分は、メンバーとして中に入れてもらって、ちゃんと見てくれたら、どんなにすばらしい人間かわかるはずだ」と思って、門前で一生懸命わーわーわめいていても、誰も認めてくれません。そういうことが起こったのだと思います。

 根本的には、人間はお互いにすべて理解し合うことなどできない生き物です。お互いに理解し合えない人間が理解し合ったふりをして、巨大な組織を作って生きていくためにはどうしたらいいかというところからしかものごとは始まりません。
 ジョブ型システムというのは、かゆいところに手が届かないような、よろい・かぶとに身を固めたような、まことに硬直的な仕組みですが、そうしたもので身を固めなければ生きていくのが大変な人のためには、そうした仕組みを確立したほうがいいという話を申し上げました。・・・

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コメント

> フォーマルな教育訓練制度を修了することで獲得された「資格」でもって特定のジョブに「就職」する社会

OECD が高等教育の無償化を提言しているのは、こうした背景があるのでしょうね。再就職するうえで関連分野の学位が必須となるのであれば、高等教育に高額な費用がかかるのは、労働者が産業間を移動するのを大きく妨げることになりますから。

他方、我が国でも、政府・与党が「学び直し」を打ち上げていますが、大学がただのカルチャー・センターでしかないのであれば、ただの道楽に公費で補助を出す、という無残な結果に終わりかねないですね。次の不況期には公費の大いなる無駄遣いとして糾弾されることになりそうです。万一、失業保険財源が足りなくなった場合には、大学関係者の吊るし上げが盛り上がりそうですね。

投稿: IG | 2017年12月14日 (木) 22時32分

一口に「欧米」と言っても、相当の高学歴(大学序列)社会であるところのアメリカと、実践的な国家職業資格を重視するヨーロッパ(引用の仏の他にも英国のNVQなど)では「クオリフィケーション」の意味するニュアンスが異なる印象があります。そこで、アメリカにおける「学歴たるクオリフィケーション」とはジョブを手に入れる時のチケットでしかなく、就職後はあくまでも本人のパフォーマンスがその職を維持するための必要条件です。一方で、欧州の「実践職業資格たるクオリフィケーション」では、国家資格というお墨付きを与えられることですでに手に入れたジョブ(職業)をより確固たるものにするものではないでしょうか。その点、メンバーシップ型企業における「資格」という枠組みは(有名な職能資格制度という名称からもわかる通り)社員メンバーたる組織構成員の「等級制度」と同義で用いられてきたものと理解しています。

投稿: ある外資系人事マン | 2017年12月14日 (木) 22時54分

話が複雑になるのは、少なくとも高等教育の無償化を主張する人は現在の「大学で勉強したことは全部忘れてこい」を前提にしているのではなく、なにがしか上述のようなジョブ型社会に移行すること(すべきこと)を前提に論じているのですが、それを受け取る側は、メンバーシップ型社会が維持されることを大前提に考えるので、話がどんどんこんがらがってわけが分からなくなるわけです。

大学無償化の代償として産業界から人材を受け入れる云々も、その肝心の産業界の人材氏がメンバーシップ型社会にどっぷり浸かってきた人だったりすると、「残業100時間くらいで過労死するなんて情けない」と叱咤激励することになったりするわけで。

とはいえ、今朝の朝日の経済気象台にもあるように、

http://www.asahi.com/articles/DA3S13273996.html

そういう社会だからこそ日本の若者は(少なくとも労働市場論的には)幸せでいられるのも事実であって、話はぐるぐるめぐるわけです。

投稿: hamachan | 2017年12月15日 (金) 09時38分

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