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あなたはまだ知らないであろう…。おかしな歴史的事実たち

みんな股下の開いたパンツを履いていた。

1. ビクトリア朝の医者は患者を愛撫していました。

Sony Pictures

女性の「ヒステリー」(すなわち、不安、過敏症、神経症、および抑圧的な家父長主義社会において、ほとんどの権利を持っていなかった女性であることによるその他の症状)は、ビクトリア時代には重大な問題とされていました。しかし医者はこれらの問題が、適切に行えば「骨盤の指マッサージ」(えっ)によって一時的に解消されることを発見しました。ええ...はい確かに。

2. 女性の下着はみんな股下が開いていました。本当です。

H. Finley / Museum of Menstruation / mum.org, Giphy

あらゆる女性の肌着は上の画像のような一対の長いブルマーでした。しかしこのブルマーは「下着」ではなく、両脚を覆うようにしか作られていませんでした。これは女性が簡単に用を足せるようにするためで、また当時の服は非常に重く複数の層で出来ていて何もかもを隠していたからでもあります。つまり、ビクトリア朝のヴァギナは直接床を見ていました。

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3. それは、この時代が血みどろの悪夢 であった理由の1つです。

Giphy

商用のナプキンが無く、女性が何層もの服を重ね着していたので、多くの女性は何もせず肌着にそのまま血を流していたと、多くの歴史家は考えています。他の「解決法」は赤ちゃん用おおむつをベルトで固定したり、ラードを使って陰部に羊毛をくっつけたりといったものです。神様、タンポンをありがとう。

4. うわぁ、女性はどこもかしこも毛むくじゃらでした。

imgur.com

女性用カミソリなんてものはありませんでした。脱毛クリームはあったのですが、非常に毒性が強く、顔、手、腕にしか使えませんでした。なので脇、脚、アソコはもじゃもじゃでした...何層もの布地に隠されていたので、大した問題ではなかったのです。

5. テムズ川は汚物と動物の死骸でいっぱいで、まるで歩いて渡れるようでした。

en.wikipedia.org / Creative Commons

他に汚物を捨てる場所がなかったため、1860年ごろには何千トンもの糞便が毎日そのままテムズ川に投棄されていました。同時に、テムズ川は街の飲み水の水源でもあったのです。赤痢、コレラ、腸チフスで数えきれないほどの人々が亡くなりました。人々は汚染された空気が病気の原因だと考えていたとか。いやはや。

6. そして通りもまた信じられないほどおぞましい状態でした。

Giphy

1891年に書かれた文章で、Harbertonさんは、ロンドンの街を少し歩いている間に、彼女の長い婦人服に、吸い殻2つ、タバコ9本、ポークパイ、つまようじ4本、ヘアピン2本、猫の肉1切れ、半分になった靴底、噛みタバコ1つ(噛んだあと)、ストロー、泥、紙切れ、様々な街路のごみ(うんち)が付いていたと報告しています。

7. 1860年代には婦人服の幅はさらに広くなり、頻繁に玄関に詰まるほどでした。

commons.wikimedia.org / Creative Commons

1850年から1870年の「クロノリン時代」には、大きな木製のフープにいくつかの(どんどん華やかになる)スカートを重ね合わせて、本当に巨大な衣装を作りました。クロノリンスカートを着た女性はドアを塞ぐだけでなく、ろうそくに触れて頻繁に燃え上がったので、この流行はそれほど長く続きませんでした。風刺雑誌「Punch」は、妻を火災保険に加入させるよう、夫に勧めていました。

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8. 混ぜ物のある汚染された食べ物が広まっていました。

NBC

低温殺菌が開発される前は、ミルクが肺結核を広めていました。特に大きな都市では、買うもの全てを信じることができませんでした。あくどい商人は新鮮な肉の脂肪で飾り付けた腐った肉を売り、パン屋はパンを白く見せるためにミョウバンとチョークを加えていました。ピクルスや他の保存食品にヒ素を加えて酸味を増す、といったトリックもありました。そして食べた人は、おそらく、死にました。

9. ビクトリア女王は毎日大樽いっぱいのカレーをシェフに作らせました。たとえ自分が耐えられなかったとしてもです。

youtube.com

彼女は香辛料のきいたものはすべて嫌いだったと伝えられていますが、まるでインドの女王のように、カレーがいつでも食べられるようにすることを命じました。万が一、「東洋人の訪問客」が立ち寄った時に備えてです。でも、カレーはそれほど美味しくはありませんでした。レシピでは、材料を調理してしまってから、最後にカレー粉を加えることになっていました。ですから、カレーは涙が出るほど香辛料がきいていて粉だらけでした。

10. カレー以外の食べ物は大好きで、それを光のような速さで平らげました。

Universal Pictures

ヴィクトリア女王は厳格にしつけられ、子供時代にたくさん食べることは許されていなかったので、女王になったとき、失われた時間を取り返すことを誓ったのです。食べるのも早く、女王がコース料理を食べ終えると、来客者はたとえ一口しか食べていなくてもすぐに食べるのをやめなければならなかったので、問題になったといいます。1880年代には、彼女のBMI値は32で、現在の基準でいうと肥満でした。

11. 歯磨き粉は炭と蜂蜜で出来ていました。

Giphy

ある雑誌が「炭と蜂蜜をペースト状にすると、歯を磨くのに非常にいい」という「歯磨き粉」のレシピを広めました。炭? もしかしたらいいかもしれません。でも蜂蜜? いやいや、これは虫歯がひどくなるだけでしょう。

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13. 1870年代のロンドンとリバプールでは、「犬の顔をした少年」が最も人気のあるアトラクションの1つでした。

Illustrated Police News / HistoryExtra.com

彼はFedorと呼ばれるロシア人で、父親のAndrianと一緒に、「現代における2つの偉大な人類の好奇心」と銘打たれていました。彼らの顔は毛におおわれ、テリア犬のような見た目になっていました。Andrianはアルコール中毒の合併症で亡くなりましたが、Fedorはその後何年も「公演」を続けました。

14. 就学年齢になるまで男の子はドレスを着ていました。

Facebook: the.vintage.everyday

裕福な家庭では、性別に関わらず小さな子供に主に白い、フリルの付いたドレスを着せていました(家が豊かなほど、より多くのレースとフリルが付いていました)。そして男の子も女の子もリボンのついたボンネットを着けていました。なかなか良いアイデアに聞こえます。

15. ほぼ50%の子供が5歳未満で死亡しました。

commons.wikimedia.org / Creative Commons

最も死亡率が高かったのはスラム街で、特に有名なロンドンのSeven Dials地区と、マンチェスターのスラムであるAngel Meadowは、あまりひどく「地上の地獄」と呼ばれていました。多くはアイルランドからの移民である30,000人の労働者がたった1.6キロ四方の土地に詰め込まれていました。Angel Meadowの多くの子供たちは放置され自活せねばならず、ごみをあさって生きていました。中には野良猫を食べる子供さえいました。

16. 悲しみに暮れる家族は、まだ生きているかのようなポーズで子供の死体の肖像を作らせました。

imgur.com

豊かな人々は写真家に撮影させましたが、貧しい人々はしばしば写生画家に頼みました。John Callcott Horsleyという心優しい画家は、しばしば死体公示所を訪れ、無償で亡くなった子供たちの写生をしました。この死後の絵が、家族が所有する子供の唯一の肖像となることも。

17. 裕福な人々はなんらかの理由で子牛の耳のフリッターを食べました。

BBC

貪欲な一方で不思議と倹約的でもあったビクトリア時代では、無駄になるものは何もありませんでした。夕食のために子牛の頭丸ごとが茹でられ、その小さな脳みそは、バターソースに浮かぶピンクの塊という副菜にされました。子牛の耳はそぎ落とされ、茹で、揚げられました。『羊たちの沈黙』に出てくる家のディナーのようであったに違いありません。

18. ダーウィンは変わった動物を食べるのに病みつきでした。

Flickr: socsci / Creative Commons

チャールズ・ダーウィンは珍しい動物を研究するだけでなく、それらを食べることを楽しんでいました。彼は「Glutton Club」と呼ばれるケンブリッジの社交クラブに参加し、友人たちと鷹、リス、うじ、フクロウのような奇妙な料理を食べていました。ビーグル号で発見の船旅に出たとき、彼はイグアナ、ゾウガメ、アルマジロ、ピューマを食べました。

残念ながら、彼が「急いでワニのサンドイッチを持ってこい」と発言したという記録はありません。

この記事は英語から編集・翻訳しました。

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