戦前の困難な時代の中で真実を求め続けた哲学者、三木清。生誕120年にあたる今年、今の時代を予言していたかのような三木に改めて注目が集まった。 今なぜ三木の言葉が必要とされているのか。
Eテレ「100分de名著」で三木清『人生論ノート』の解説を担当したアドラー心理学の岸見一郎さんと、『三木清教養論集』『三木清大学論集』『三木清文芸批評集』を編纂した批評家の大澤聡さんが読み解く。
(この対談は、八重洲ブックセンターにて行われました)
大澤 三木清は兵庫県の龍野の出身です。15年ほど前にふらっと旅の途中で立ち寄ったことがあるんですが、現代でも揖保川と田畑が延々と広がるのどかな光景でした。そんな土地で育った三木が第一高等学校に入学するために単身上京します。1914(大正三)年、17歳のときのことです。
三木清の東京での孤独については、岸見さんもご著書『「人生論ノート」を読む』(白澤社)のなかでちょっと触れられていましたね。「孤独」は読書に関して重要なキーワードになると思う。このあたりからはじめましょうか。
岸見 以前、プロボクサーの村田諒太選手と対談しました。彼は僕の共著『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)は知ってはいたけれど、ベストセラーはどうもうさんくささを感じるから最初は手を出さなかったと言うのです。そういう人は結構多いですね。
評価が定まった本であれば安心して読めますし、多くの人が手にした本もハズレることはあまりないだろうと思って読める。そんなとき人は孤独ではありません。けれど、誰も手を出さない本もある。本当に読みたい本を読むとき、人は孤独なのです。
大澤 その意味で言うと、読書に先立って何かを参考にするのかしないのか、するならそれは何なのか、という問題があるでしょう。知人から薦められた本を読む、新聞書評で見かけた本を読む、ネットのレビューで評価の高かった本を読む……入り口が無数にあるのが現代です。
けれど、三木があるエッセイでこんなことを書いています(「講義録狂」)。他人が薦めた本や入門書ばかりを漁り続ける人がいるけど、そこにとどまってしまうのはよくない、と。そうではなくて、他人がまだ気づいていない一冊を発見できるかどうかが読書人生において大切なことなのだ、そう説いている。
岸見 課題図書リストというものがあります。息子が学校でもらったリストを手に僕の部屋にやってきて、「この本もってる?」と聞く。リストにあがっている本を僕はほとんどもっていました。
そこには厳選された良書しか存在しないわけです。つまらない本やくだらない本は入っていない。これは一見よいことに思えます。ですが、そんな本ばかり読んでいると、自分で本を選ぶ力は養われません。
大澤 一般的には「精読」が大事だと言われるけれど、そこに到達する前に一度は「濫読」「多読」の時期を経由しないとダメなんだと三木は強調しています。『三木清教養論集』の第一部には彼の読書論を九本集めて収録したんですが、そのコースが何度かくりかえされている。
岸見 こんな本読まなければよかった、というような経験を数々重ねる中で、自分の人生を変えるような本に出会う。三木は西田幾多郎が著書や論文で引用している本を片端から読んだそうです。ある意味無駄に思えるような読書を経て一冊の本に出会う。
大澤 『読書と人生』(講談社文芸文庫)に収録された「読書遍歴」という連載エッセイでそう言っていますね。そのあたり、三木は両面で説明しわけているようです。多読の重要性と、ガイドをもつことの重要性。いずれにせよ、彼は読書にも「技術」が必要なんだと言っている。
一般的には、技術で処理すると言うと、効率重視で打算的に聞こえてしまうんだけれども、三木はむしろプラスの意味で使っています。あらゆるジャンルには必ず、技術なり型なりが存在しており、学問においても読書においてもまずそれを獲得するところからはじめよ、と。
世の中には読書のコツがいろいろ指摘されます。たとえば、「読書の方法」と題した中村光夫の文章があって、そのなかで読書会の是非が議論されているんです。むずかしい本を一人で読み進めると挫折することがしばしばある。そんなとき、複数人でいっしょに読みあわせる形式だと、次回までに読んでこないといけない範囲が外的に強制されるわけですね。それがある種のペースセッターとなる。
ただ、これにはマイナス面もあるんだと中村は言います。家で読んだとき、何かしら自分なりの意見や感想をもつわけですね。でも、読書会に行くと別の意見をもった人がいて、その人の声が大きいと、ついそちらに引っ張られてしまって、初読の自分の意見がかき消される。だから、孤独な読書も大事にしないといけないよと言うわけです。
岸見 三木清は「孤独は強さである」という表現をしていますね。僕が大学院生だったころに、演習でアリストテレスの本をみんなで読んでいたのですが、大先輩があきらかにまちがった読みをしていた。僕は研究室に入りたてで、とても迷いました。
大澤 大先輩に誤りを指摘していいかどうかですね。
岸見 指摘したのですよ。ちがうんじゃないですかって。場の空気が凍りつきました(笑)。けれど、やっぱり学問的な話をする以上は誤りを見過ごすわけにはいかない。「強さ」が必要ですね。読書会でも、ときとして「強さ」をもって挑まないといけないのかもしれません。