【今こそ皆で】東京電力が隠蔽した津波安全神話のパンフレット【宣伝しまくろう】
原発の分野では宣伝・広告のことをPA(パブリックアクセプタンス)と称し、多額の予算を費やして多くの奇妙な広報が行われてきた。
この問題については既に本間龍『電通と原発報道』『原発プロパガンダ』、早川タダノリ『原発ユートピア日本』、或いは朝日新聞が出版した幾つかの福島原発事故本で様々な検証が進められている。
だが、多くの読者、そして各種訴訟当事者にとって本質的な疑問であるのは、直球の原発安全神話、中でも津波や電源喪失に対する安全神話を断言したものである。
原発宣伝の作り手は巧妙であるため、パンフレットのような紙に残るものでは、間接的なアプローチによる安全神話の浸透が多用されてきた。
- 有利な点のみを語り、不利な点を伝えない
- テクノロジー、空撮、女優、ポンチ絵などをバックにイメージを前面に押し出す
などの方法である。意外にも「事故は絶対に起きません」「津波が来ても大丈夫」と断言したものは余り数が多くない(それでも放射能、地震に関しては福島事故前から関心が高かったので、直接的な断言も多く見られる)。
今回、東京電力が行った津波安全神話の広告が発掘されたので、ここに紹介する(下記画像は敢えて3MBで掲載)。
『げんしりょくはつでん』P19-20東京電力営業部サービス課 1989年5月
上記だけでは東電とは分からない。下記が表紙である。恐らく小学生用だったのだろう。
次に目次を示す。
我々の受け止め方、使い方だが、まずは、東電による津波安全神話の存在を広く知ってもらうため、ツイッターなどで拡散して頂ければと思う。元が宣伝用の冊子なので、ある意味向いている。特に、未だに原発推進を説く業界人のツイートにリプを返す形でぶら下げるのはとても効果的だろう。目障りなツイートの減少も期待出来る。
【補論:東電の津波PAに何故そこまで拘るのか】
以下は、過去の経緯や訴訟に関心を持っている方向けに書いたものである。パンフレットの醜悪さは見れば分かるだろうから、運動家が特に無理して読む必要はない。ただし、これまで原発問題について書かれた書籍では扱いの薄い、津波とPAについて主軸にしていることだけ予め述べておく。一言で言えば、菊池健、宅間正夫、竹内均といった80年代以前に東電が用意したPA師達によって、今日の地獄に至る道は「丁寧な説明」によって舗装されたのである。
宣伝用パンフレットによる、原発の津波安全神話は、次のものが知られていた。
文部科学省:「わくわく原子力ランド」(2010年、関連togetter)
福島県:アトムふくしま1990年11月号他
したがって、国や県に対しては原発広告の面からも直球の批判を加えることが出来た。だが、意外にも東京電力については、自社のHPに記載されていた簡単な案内以外に、津波に言及した宣伝は発見されていなかった。
何故発見されなかったかと言うと、福島事故後、業界をあげて消して回ったからである。
その後事故の深刻さが明らかになると共に、原発プロパガンダに手を染めていた企業や団体は脱兎のごとく証拠隠滅に走った。原子力ムラ関連団体はそれまでHPに所狭しと掲載していた原発CMや新聞広告、ポスターの類を一斉削除したのだ。
事故以前、東電のHP上には様々な原発推進広告が掲載されていたが一斉に消去され、二〇〇六年から新聞や雑誌広告と連動させてHP上でも展開していた漫画によるエネルギー啓蒙企画「東田研に聞け エネルギーと向き合おう(弘兼憲史)」もいち早く三月末には削除した(中略)。
さらに原発プロパガンダの総本山である電事連さえ、原発に批判的な記事をあげつらって反論していた「でんきの情報広場」の過去記事を全て削除した。NUMOも、過去の新聞広告やCMの記録をHPから全部削除した。そして、資源エネルギー庁も、HPに掲載していた子ども向けアニメ「すすめ!原子力時代」などを削除した。また、二〇一〇年から大量の原発広告を出稿した東芝も、自社HPの広告ライブラリーから原発に関連する広告画像をすべて削除した。
(中略)カネに魂を売って安易に作り続けてきた作品群は、カネの切れ目が縁の切れ目とばかり、あっさり闇に葬られた。
本間龍「証拠隠滅に躍起になったプロパガンディスト」『原発プロパガンダ』第4章 岩波新書 2016年4月
本間氏が書いている通り、東電や電事連は、宣伝を消して回った。用心深く事に当たっていたから、津波安全神話を作らなかったのではない。これは推測だが、むしろイメージ広告が主体の紙メディア掲載済みのものは囮として活用し、より問題ある上記のようなタイプの宣伝を最優先で削除していたことさえ疑っている。特に東電の場合、東京レコードマネジメントという自社グループ専門の文書管理子会社を持っていることは、注目されても良いと思う。
最近、ネットの質問サイトでも事故前の宣伝の酷さを知らない人が「安全神話なんて本当にあったのですか」などと書き込んでいるのを何回か見かけたが、困ったことだと感じている。添田孝史氏の最新刊『東電原発裁判』でも、福島県の計画している原発事故の展示施設が、いずれも過去の安全神話に切り込む姿勢に消極的という報告がある。
そこで、民間の収集家の出番となるが、こういったパンフレット類は一過性のものであり、「史料」として認知されにくい。大量に消費されていてもほぼ100%近くは捨てられる。ことに原発反対派の場合、有害図書としてすぐに捨ててしまう向きも多かったのではないだろうか。時が経つと、こういった証拠の品は有用なのだが(だから原子力「情報資料」室は推進派以外にも嫌っている人がいたのだろう)。
なお、存在自体がそのまま訴訟に繋がり得る広報は、私が収集した中でも、黎明期から次のようなものがある。
【事例1:菊池健(福島民報、1976年)】
この時は、新聞社が女性向けセミナーを主催し、サービス・ホール(第一原発併設の展示施設)に連れて行った。サービスホールで案内したのは館長の菊地健氏。その様子を1面使って報告した、今で言うPR記事が載った。そこで決定的な一言が記録された。
地震にも大丈夫
発電所などの施設は、太平洋に面した標高三十五メートルの台地を標高十メートルまで掘削し、主要な建物はすべて耐震設計。わが国は地震が多いだけに不測の天災が気になるところだが、菊池さんは「施設は丈夫な岩盤の上に鉄筋を縦横に組んでいるから、関東大地震の三倍の地震が起きてもビクともしませんよ。」と胸を張る。また、津波にしても延長二千八百メートルの防波堤が大抵の大波をシャットアウトしてしまうという。
「新しいエネルギー原子力 民報女性社会科教室」『福島民報』1976年11月9日6面
津波シミュレーション、堆積物調査の技術が無かったとは言え、開口部のある防波堤でシャットアウトとは随分といい加減なPR振りである。あの防波堤は外海の一発大波や暴風時の高潮には効果があるが、津波防波堤としての機能は(公開された仕様には)規定されていない。しかも津波警報が発令された際は昔から4m盤は無論のこと、10m盤からも退避するのが習わしであり、緊急時のマニュアルにも取り込まれていた。
【事例2:宅間正夫(政経人、1982年)】
これは外部電源喪失の問題なので津波とは異なるが、PAとしては殆ど存在していないので、挙げておく。それは『政経人』という、『電気新聞』のような業界誌にしか広告を出さない、電力業界向け月刊経済誌に載っていた。インターネット普及前の日本には、こういう一見怪しい提灯雑誌だが、妙に業界の内情にも詳しい定期刊行物が結構存在したのである。そこに、1970年代原子力部門で設計・建設を担当したある東電技術系幹部社員の言葉が載った。
一ヵ所にまとまって建っていれば、港湾や道路の他に共同で使えるものはたくさんある。(中略)送電ももちろん、発電所の中に変電所をつくり、まとめて一気に送っている。ただ、この送電線が事故や地震などでいっぺんにやられないかという心配があると 思うが、今の技術から言って、変電所や送電線は一寸した地震には十分耐えられるし、故障しても直ちに保護装置でその波及を防ぐといった設計になっている。 これは原発に限らず電源が集中的に固まっているところの送電設備や変電設備は、「保護システム」が非常に高度に出来ているので、いっぺんに全部やられると いうことはほとんどありえない。
「東電・原子力発電の現況-卓越した実績を元に着々計画進行」『政経人』1982年10月号P84
彼については2014年の記事で取り上げているが、その後、2017年に書いた記事で、1982年当時でさえそのような考え方が誤りであったことを示した。しかし宅間もまた、東電OBとして、2000年代に原子力産業協会の副会長、原子力学会会長まで上り詰めた。
【事例3:日米規制当局の警告を無視(1989年、福島民報)】
1980年代、深刻な原発事故が相次いだことを受けて、シビアアクシデント対策が議論されるようになった。この時に東電が示した消極性は事故の遠因としてこれまでも色々な文献で言及されているが、事後証言と文章表現的には巧妙に書かれている公式文書に頼った、曖昧な表現に終始している。しかし、米NRC(原子力規制委員会)がベントが確実に出来るように改造するよう勧告を出した時、東電は次のようにコメントしていた。
現時点で対策不要 東京電力の話
今回の米国の動向については十分承知していた。日本の原子力発電所では事故発生防止を最優先に安全性が高められており、現実に炉心溶融など起こるとは考えられない。現時点では、そのような事故の影響を緩和する対策を講じる必要はないと考えている。「原子炉沸騰水型に通気弁 米規制委員が決定 東電福島第一に影響 」『福島民報』1989年7月7日朝刊7面
予め断っておくが、ベントすべきかどうか自体は無条件で賛成すべき見解ではない。ベントにより地元は汚染されるためである。したがって、この記事にある資源エネルギー庁のコメントは当時の回答としてはまずまずである。同じ東電のコメントを載せた、福島民友ではエネ庁の見解が「基礎的な勉強中の段階」と完全な否定ではないことも伝えている。東電がおかしいのは、理由としてリスクではなく完璧な安全神話を持ってきていることである。インターネット時代以前のPAはそれなりに巧妙に書かれているものだが、このコメントはそうした巧妙さとは無縁で、東電技術陣の傲岸な態度がありありと刻印されているので、価値があるのだ。
その後、1990年代になって日本の原発は確実にベントすることを目的とした改造を実施し、福島事故の際はベントすることが目標となった。
このように、傲岸不遜な態度については、ストレートニュースなどの形でメディアにも記録されてきた。今回の発見で欠けていた重要なピースが嵌ったと言える。
【第二次行動計画(1989年)で強化された原発PA】
このパンフレットが作られた1989年とはどういう年だったのか。
当時電力業界の営業・広報関係者および記者クラブ関係者、代議士事務所をターゲットにして書かれたと思われる『開く見える動くいま東京電力』(マスコミ研究会、国会通信社刊 1990年)という1冊の本がある。何故か国会図書館には納本されていないのだが、当時の東電の経営戦略の概要が解説されていて非常に興味深い。
その内容をそのまま引用するとブログ記事がさらに長くなってしまうので、簡単にまとめるが、私にとって意外だったのは、当時東電原発広報が何故、前のめりになったに関しては、どうも2つの理由がある事だった。
(1)チェルノブイリ/福島第二3号機事故/地震予知対策
既報の幾つかの研究に触れられているように、事故、取分けチェルノブイリ事故(1986年)による反原子力運動の高まった時、業界内では巻き返しが必要と説かれた。こういう事故が起こるとまともな感覚ならその技術を使うことを躊躇ったり、他の危険性などが無いか用心深く点検するようになるものだが、欠陥を矮小化する動きが必ず現れる。
同書に先立って1989年に出版された『21世紀の主役宣言 いま東京電力がおもしろい』第7章によると、通産省は省内に「原子力広報本部」を設け、電事連(当時の会長は東電社長だった那須翔)も組織替えで1988年4月より「原子力PA企画本部」を設置した上、各社の広報担当常務会でこれをバックアップすることとした。
また、『開く見える動くいま東京電力』第9章などによると、1989年7月、東京電力は全社的な経営戦略として「第二次行動計画」を策定していた。平岩外四を会長に据え、那須の下で、原子力PA活動は重点課題の一つと目された。それまで企画部の中の広報課に過ぎなかったPA担当の部署は第二次行動計画を機に、広報部として独立し、スタッフも拡充された。
危機を背景に「弁の立つ」人間が太鼓を叩いて予算取り、と言う訳だ。
特に東電の場合、1989年1月に福島第二3号機で再循環ポンプ事故を起こしており、この対応にもナーバスとなっていた。このため第二次行動計画に先立つ1989年4月の人事で、福島駐在のPA担当を設置し、菊地健・送変電建設部長が就いた。同書では福島に原発を続々建設していた時期に「地元対策で奔走した」と紹介されているが、上述の通り、1976年にサービスホールの館長として語った津波PAが新聞に掲載された「実績」に注目したい。東電では、津波安全神話を騙る人物が昇進したのである。
なお、上記【事例3】で取り上げたベントの記事は、菊池健の異動後の出来事である。記事を読むと、共同田崎特派員と署名されている。つまり、米国駐在の共同通信田崎記者が書いた記事の配信を載せている。しかし、過去記事データベースで検索すると、福島の2紙だけがこのコメントを掲載しており、通産/エネ庁のコメントは各紙各様の表現となっている。よって、コメントは東電本店ではなく、後述する福島PA担当の「作品」の可能性がある。
もっとも、1980年代末時点では地方紙で過去記事データベースを導入していないところも多かったので、河北新報、新潟日報、茨城新聞、静岡新聞、北國新聞、西日本新聞などが導入済だったのかを原紙や縮刷版を含めて確認しないと、確実なことは言えない。福島民報はデータベース導入前だったようで、縮刷版で確認した。また、田崎記者が東電ワシントン事務所に確認したが、配信記事では福島2紙以外が削った可能性もある。
チェルノブイリ事故や福島第二再循環ポンプ事故は今でも文献を紐解けば載っている「鉄板ネタ」である(特に前者は)。だが、当時の東電にとっては、面倒な事態に成長し得る種がもう一つあった。
福島県内の総合月刊誌『政経東北』1989年2月号に「福島県沖に”地震の巣が・・・県の震災応急対策は万全か”」という8頁に渡る特集記事が載ったのである。記事によると、1987年春にM6クラスの地震が5回続いたことを受け、1989年5月、地震予知連が「極端に大きなものは発生しないであろうが、M6-7クラスはあり得る。津波が発生することもあり得る」と見解を発表していた。それから2年後に、『政経東北』はこの件を蒸し返して福島県を歴史的には大地震のあった場所などと危機を煽った。
『政経東北』記事では原発震災への言及はされていない。以前、反原発運動に長年従事している東井怜氏から伺ったことだが、昔は、反原発陣営の中でも地震や津波を軽く見る人がかなりいたらしい。なお、地震学者の石橋克彦氏が阪神大震災からの想像で「原発震災」を提唱したのは1997年のことだから、89年時点ではまだ提唱は無かった。
地震の危機を煽った3ヶ月後、『政経東北』1989年5月号に再循環ポンプ事故を起こしていない福島第一所長の石井敬二へのインタビュー記事が掲載された。彼はそこで、安全対策の定番トークに加えて津波に言及した。
津波対策ですが、過去の記録から想定される最大水位上昇を考慮して、敷地の高さは十分高くしてあります。
「安全優先の発電所運営を推進 石井敬二・東京電力福島第一原子力発電所所長に聞く 」『政経東北』1989年5月号
丁度、今回紹介した小学生向けのパンフレットが製作された時期と被っている。今見なおすと、部門を超えての連動企画を立て、年代とメディア別にPAしていたのだろう。
東電が建設時に、重要な海水ポンプを配置している4m盤と原子炉建屋のある10m盤の位置付け整理出来なかったことは以前のブログ記事で指摘した。後述のように、89年時点では既に4m盤の安全は保証出来ない状態だったのだが、社内でどう整理していたかは未だに良く分かっていない。東電が技報などの開示を拒否しているからである。
さて、1989年6月には(この分野に関心のある向きには有名な)加納時男原子力本部副本部長が取締役に選任された。この人事で、当時すでに社内でも専門性を盾に、他部門から隔絶し始めていた原子力本部から加納氏を取り立て、タテ割りの弊害に意識革命をもたらすというのが名目だった(今の目線で見ると、原子力本部の方に意識革命が必要なら、何故その中から取り立てるのかは理解に苦しむが)。そして『原発プロパガンダ』でも指摘されているように、バブル期以降、広報予算は更に潤沢となったのである。
加納が業界誌に応じたインタビューでは「成功例」も述べられている。『電気情報』1989年3月号によると、彼が「朝まで生テレビ」に出演する度に電話での反響があり、名前を名乗ってかけてきた人とは話をするようにしていた。話を交わしたある女性は、加納が出演を繰り返す度にスタンスに揺らぎが生じ、3回目の出演後に遂に「転向」を表明したという。これは恐らく事実だろう。そのような「成果」が無ければPAに自信は持てないからだ。今でこそバカバカしく見えるのは確かだが、彼等の宣撫能力まで過小評価をしてはいけない。
(2)電力需要の過大見積もり
バブル時代の好景気は電力需要を想定以上に伸ばし、1987年に総合エネルギー調査会が出した長期エネルギー需給見通しを上回った。この結果、需給見通しは修正を迫られ、1990年に修正した新しい見通しでは、2010年までに原発40基を新規に稼動し、電力需要の4割以上を原発で賄う計画だった。一方で、電力会社は装置産業のため膨大な設備投資を迫られ、財務体質は悪化していた。正に、総括原価制様様だった。
しかしこのような姿勢は安全のための、直ぐには儲けに繋がらない投資を尻込みさせる動機を生むものでもあったと考える。そこで、津波のような原発建設後に厳しく評価されるようになったリスクには、広告で乗り切った方が安く上がるというマインドが働いたのだろう。
(3)1989年当時の福島第一は2011年当時より更に脆弱
勿論、津波対策が只の宣伝紙切れとはとんだお笑い草だ。
過去に色々書いたが(関連記事)、1980年代時点で福島沖の津波シミュレーションは公表されたものがあり、潮位を考慮すると最低でも6m程度の高さに備えなければならないことは明白であった。東電はその問題に対して最初のネグレクトを行い、後に電力業界と癒着する津波工学者、首藤信夫は『電力土木』1988年11月号で関係者に問題提起(リンク)を行っている状況であった。
また、宮城県は防災計画の参考のため県南でこれまで起きたことの無い津波を想定した(関連記事)。続いて東北電力が仙台平野で貞観津波の痕跡を探すため、堆積物調査に着手、当時建設中だった女川2号機では、津波シミュレーションを採り入れ、1号機の時採用した3mという津波想定を9mに引き上げた。福島第一1号機(1971年運転開始)で採用した小名浜港でのチリ津波実績値3mを、15年以上後の福島第二4号機(1987年運転開始)まで10基に渡って踏襲した東京電力とは雲泥の差であった。
なお、1989年当時、福島第一には空冷の非常用発電機は無く、全て海水冷却に頼っていた。津波が4m盤を超えてディーゼル冷却海水系ポンプが水没すれば、非常用の交流電源は全滅である。3.11後の訴訟で10m盤を超える津波が焦点になっている理由の一つは、空冷の非常用発電機なら10m以下の津波に対しては安全性を確保できる、という前提があるからだろう。
また、1987年の福島県沖地震では新福島変電所で一部機器の破損があった。それ以上の規模の地震が来れば変電設備の全滅(=外部電源喪失)は容易に想定出来た。東電は1983年の神奈川県西部地震の時には変電設備全体の更新を進めたが、1987年の福島沖地震の時は、原子力が重要だと認識していたにもかかわらず、碍子を取り換える程度の対応に留まった(『変電技術史』11章P558-559、1995年)。誰がこの決定に関わっているかはまだ解明していないが、菊池の前職は送変電建設部長である。
よって、1980年代末に算定会が考えていたようなM8.2程度の地震が起きれば、碌に追加対策もしていない福島第一は、全交流電源喪失により2011年の事故と同様の事態に至ったと考えられる。1980年代に想定された10m以下の津波を、今再検討する意義はここにある。
【地震予知批判者が安全神話を説いていた皮肉】
このパンフレットの監修者として竹内均の名がクレジットされている。まぁ、今後は原発安全神話の戦犯として記憶されることになろう。
彼は、プレートテクトニクス理論を提唱したことで知られ、過去に起きた記録が碌に見つからなかった頃から、福島沖で海溝型津波地震が予想されていたのも、この理論が大元にある。そう言う意味では、彼の存在抜きに津波想定が発展することは無かった。
それが一体何故こんな結果を招いたのか。一つ言えるのは、竹内は、地震予知批判者達が語ってこなかった、矛盾を象徴する存在だったからである。
さて、1990年代より東京大学の地球物理学者ロバート・ゲラー氏は地震予知利権を度々批判してきた。311の後その頻度は更に高まり、予知批判者と言えばまず彼の名が上がるようになった。
実は、竹内は予知批判の先輩格に当たる人物である。
この間、むろん批判者がいなかったわけではない。例えば、故・竹内均・東京大学理学部教授は、痛烈に予知研究を批判したが、その批判は特に世論に影響を与えることはなかった。竹内氏は、政府の方針を建議する測地審議会の委員ではなかったため、政策決定プロセスへの影響も皆無だった。
ロバート・ゲラー『日本人は知らない「地震予知」の正体』双葉社 2011年8月 P152
ロバート・ゲラー氏が同書で竹内に触れた個所はここだけだが、説明としては片手落ちである。何故なら、竹内は原発論争を長年ウォッチしてきた人にとっては有名な推進派の学者であり、1981年に東大を退官して以降は科学啓蒙雑誌『ニュートン』編集長として論陣を張ったからだ。テレビなど他のマスメディアへの露出も積極的にこなしていた。彼に心酔する「専門家」が書いたと思われるWikipediaの紀伝体風の記事によれば、テレビ出演回数は2000回を超えると言う。「世論に影響を与えることは無かった」とは到底思えない。
竹内均の投稿実績をciniiで確認してみる。1978年に成立した大震法と相前後して、1970年代末に『月刊自由民主』(自民党の機関誌。現在は完全な広報誌だが、当時は同時代の論壇誌と同程度の内容的なボリュームがあった)で毎月連載を持っていたことが確認出来る。一線の研究者として専ら研究誌に投稿していたのは1970年代前半頃までであり、『月刊自由民主』での連載開始の頃から、あからさまに政治に近付いて行ったようだ。
彼が地震予知利権に批判的でいられたのは、自民党と建設業界・海洋資源開発などの別の利権で繋がりを持っていたからだと考えられる。
幸か不幸か、損害保険算定会などを舞台に1980年代から表立って行われるようになった、福島沖の津波シミュレーションは、どちらかと言うと「予知利権」がもたらした「成果」でもあった。竹内にとって、全く面白くなかっただろう。
東電営業部はそこに目を付けて起用したのだと思われる。たかだかM7クラスとは言え、福島での地震を警戒するよう発表したのも予知連だったから、その点でも竹内は適任だった。更に言えば、歴史地震的な見地に立っていた『政経東北』の方が、予知連より更にまともだったのだが、名義貸し同然であっても、学者の名前さえ出しておけば、素人マスメディアの扇動記事など簡単に「論破」出来た。
しかし、出来上がったのは、傍から見れば単なる津波安全神話を刷り込むパンフレットに過ぎなかった。
竹内個人の問題は、どうも津波の脅威をあまり理解していなかった節がある所だ。「大地震は起こるか」(『コンクリート工学』1980年3月号)で彼は、大地震の揺れに東京のような大都市が襲われた場合の損害に比べれば、東海地震による被害など取るに足らないと述べた上、当時のコンクリート建築の水準を称賛していたからである。前者の主張は、原子力関係者にとってはとても都合の良いものではあった。原発は大都市から離れた地点に立地していたからである。
後者の主張も、現状肯定を意味する上で、ゼネコンを筆頭とする建設業界関係者には都合の良いものであった。そもそも、建築関係者には有名な宮城県沖地震による耐震基準の引き上げが行われたのが1981年であり、当時の目線で見ても、強引な現状肯定論と言わざるを得ない。そのメッキが完全に剥がれたのは、阪神大震災であった。要するに彼は、地震の揺れにおいても、過小評価に迎合した戦犯の1人であったのだろう。
なお、『コンクリート工学』は建設業界の技術専門誌で一般人向けの啓蒙誌ではない。竹内はそういう場になると、臆面も無く愚民観を披露しているのが分かる。その根拠が都市住民が日照権を望むからと言うのも、よく分からない理屈である。日照権が確保されている都市とは、密集建築が無く防火帯が確保されていることを意味するのだから、竹内は地頭が悪い。単に再開発と称したペンシルビルを乱立させたいデベロッパーの代弁をしているのが透けて見える。実際、80年代に東京で行われたのは、そういうミニ開発だからである。左右中道を問わず、啓蒙に熱心な人物にありがちなことだが、こういった二面性を含め、全く同情の余地は無いだろう。
無能評論家、これが竹内に相応しい肩書である。
17/12/13:89年の政経東北記事2本の件を追記。
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