「朝鮮王朝初期、日本に行った経験のある申叔舟(シン・スクチュ)は、日本と共存することを遺言として残しました」。その後の韓日関係史は、紛争の関係を共生の関係に変えようと努める歴史だったという。「朝鮮王朝初期の癸亥(きがい)約条で三浦を開港し、倭寇(わこう)問題を解決しました。壬申(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)の後は、朝鮮通信使が両国の和解と文化交流の役割を果たしました」
「共存」のためには、歴史意識の「共有」が前提にならなければならず、未来に向けた「共生」のビジョンを持つべきだという。「朝鮮王朝時代の韓日関係における根本概念だった『交隣』精神は、今でも必要です。外交とは100対0で勝てるものではないんです」
そうはいっても、過去史の誤解や歪曲に対してはきちんと対応すべき、と語った。通信使についても、言うべきことは多かった。「韓国側の使節が持っていくばかりで、一方的な朝貢ではないかといいますが、朝鮮王朝は壬申倭乱以降、日本人の上京を禁止しました。17-18世紀ごろの幕府の年間予算は76万-130万両、通信使の招請費用はおよそ100万両でした。通信使の招請は、日本が必要としていたからだったのです」