異才・梶本レイカ

梶本レイカは、昨年BL作品の『コオリオニ』が各所で好評を博し、飛躍的に注目度を高めた作家である。Twitterでの投稿を利用したマンガランキング企画「俺マン2016」では、『コオリオニ』は『私の少年』(高野ひと深)と並んで1位に支持された。

『コオリオニ』は、1990年代の北海道警察を舞台にしたサスペンスである。
北海道警の不祥事となれば、当然、稲葉事件がモチーフであることが想起されるだろう。本作が刊行された直後、同じく稲葉事件を元にした映画『日本で一番悪い奴ら』が公開されたこともあって、読者の耳目をひいたようだ。
ジャンルものとしての達成度を測りかねていた。BL好きのためのレーベルから刊行された作品として、BL好きにリーチしたのかどうか。
以上の2点から、作品単体としての完成度には疑いの余地はないのにも関わらず、BLを読まない人にも、そしてBL好きに対しても、僕からは強くオススメすることができずにいた。

その後、梶本レイカはいったんはマンガ家を廃業するも、新潮社「GoGoバンチ」からのオファーに応じて活動を再開(そのあたりの経緯は作者サイトを参照のこと)。
再開後の最初の連載となった一般作が、この『悪魔を憐れむ歌』である。

われわれ読者は、どこに連れていかれるのか

『悪魔を憐れむ歌』の主人公・阿久津亮平は、8年前に起きた未解決事件「箱折連続殺人事件」を捜査する刑事だ。四肢を逆関節に折る猟奇殺人犯「箱折犯」を追う過程で、阿久津は医師・四鐘彰久と知り合う。アメリカ帰りのエリート医師としての「表の顔」とは裏腹に、この四鐘こそが箱折犯であった。四鐘と出会った阿久津は、追い求める犯人が目の前にいるとは知らず、しかしメフィストーフェレスにいざなわれたファウストのように、地獄めぐりに引きずり込まれていく。
猟奇殺人、警察の不祥事、冤罪と隠蔽、犯人の秘密、主人公の過去など、さまざまな要素が複雑に絡みあうクライム・サスペンスである(試し読みはこちら)。
Just as every cop is a criminal
And all the sinners saints
As heads is tails
(警察のすべてが犯罪者であるように、
 あるいは罪人すべてが聖人であるのと同じように、
 すべては表裏一体である)
タイトルと設定から、ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)」を思い起こす読者もいるだろう。

新潮社の「バンチ」系雑誌に掲載された連続猟奇殺人の物語ということで、僕は最初、『プルンギル -青の道-』(原作:江戸川啓視‎、作画:クォン カヤ)を連想した。
原作者の江戸川啓視とは、浦沢直樹とのコンビで有名な長崎尚志の別名である。
日本と韓国で、体じゅうの関節が捻じ曲げられるという猟奇殺人事件が発生し、両国の刑事が衝突しながらも協力して事件解決に向かうバディもののクライム・ミステリーだった。
サッカーの日韓共催W杯の開催時期にあわせて、創刊間もない週刊誌時代の「コミックバンチ」で連載がスタートした作品で、日韓両国のあいだに横たわる偏見を大胆に盛り込んでいた点で、強く記憶に残っている。
『悪魔を憐れむ歌』は極めて特異な作品ではあるが、新潮社/バンチには、このような作品を受容する素地が備わっていたと見るべきだろう。

『プルンギル -青の道-』は犯人が不明のまま物語が進むミステリーであったのに対し、『悪魔を憐れむ歌』はあらかじめ犯人が提示されている倒叙のサスペンスである。
倒叙サスペンスを成り立たせるには、ミステリーとは異なった「謎」で読者を惹きつける必要性があるり、本作にも様々な要素がちりばめられているが、なによりも阿久津と四鐘の魅力が推進力となり、グイグイと物語を牽引していく。
ページの構成やコマ割がBL的であり、それは一般的なマンガ文法よりも「キャラを見せる」ことに適しており、主題と手法がマッチした心地よさがある。
その語り口に導かれて、いつしか息が苦しくなるようなノワールの雰囲気に飲み込まれていくはずだ。

「キャラを見せる」手法の代表例としては、1巻P.40~43までの一連の流れを挙げたい。この作者はコマを縦位置で割ることが多いのが特徴で、それがために登場人物の全身を俯瞰から捉えた絵が印象的だ。「キャラを見せる」ことに意識的であると同時に、映像的でもある。
対して横で割ったコマは、時間の経過や場面転換に用いられることが多い。
両者の特性を併せ持つのがP.10~11で、コマ割りとしては縦に割っているものの、引いた目線で見開き全体を一枚絵として俯瞰すると、時間経過が示される。なお、この「異なる時系列の表情を見開きで並べて見せる」手法は、2巻冒頭でも用いられており、この作者特有のスペシャリテとして、そこに用意された時間的/空間的な間を楽しみたい。
(コミックスのカバーでは、1巻と2巻ともに、「折り返し」をめくるひと手間を加えることで、表1と表2で同様の効果を得ている)

現代にも影を落とすユーゴスラビア紛争

さて、刊行されたばかりの2巻について触れていきたい。
2巻ではイタリアから来た刑事によって猟奇殺人犯の出自がほのめかされる。「箱折連続殺人事件」に酷似したイタリアでの一家惨殺事件は、クロアチア紛争の折に軍医が救出した戦災孤児が、成長したのちに起こしたとのことだった。

ここで作品の背景を理解するために、クロアチア紛争について触れておきたい。
1990年代前半、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国からはスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナが相次いで独立。連邦は解体に向かう。
連邦解体までの紛争を総称してユーゴスラビア紛争と呼び、クロアチアがユーゴスラビア連邦からの分離・独立を求めた戦争がクロアチア紛争である。

余談だが、この連邦解体の余波を受けて、サッカーのユーゴスラビア代表チームも崩壊する。当時、代表監督だったのは、のちに日本代表監督となるイビチャ・オシムであり、チームの主軸はドラガン・ストイコビッチであった。FIFAの制裁によってユーゴスラビア代表は国際大会から締め出されることになり、ストイコビッチに関しては所属クラブ(オリンピック・マルセイユ)が八百長に関与して2部に降格処分を受けたことも影響して、"ピクシー "は日本行きを選択することになる。


一連のユーゴスラビア紛争は凄惨を極め、NATOはボスニアへの空爆を決行した。
この紛争では数多くの戦災孤児が生まれ、1995年にはボスニア戦災孤児救済のためのチャリティ・アルバム(『HELP』)が発売され、このアルバムにはOASISやブラーが参加して大きな話題を呼んだ。
OASISの「フェイド・アウェイ」(弟リアムではなく兄ノエル・バージョン)が収録されており、僕も当時購入した覚えがある。


ユーゴスラビア連邦解体は、こと日本においては振り返られる機会が少ない。
同時期に国内ではオウム真理教によるサリン事件があった影響もあるだろうが、とはいえ世界的には決して風化した事件ではない。
先月末(11月29日)、オランダのハーグでは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でクロアチア人勢力の幹部だったスロボダン・プラリャク氏の裁判が開かれたが、プラリャク氏は裁判中に服毒自殺を図ったことがニュースとなった。
また今年5月には、セルビア人兵士にレイプされたムスリム女性の母親によって生まれた直後に捨てられたセルビア人青年が、親探しの旅に出るドキュメンタリー映画『見えない子供の罠』が公開された。
ユーゴスラビア紛争は、現代社会にも依然として暗い影を落とし続けている。

浦沢直樹の『MONSTER』は、"怪物 "誕生の背景をナチスに求めた。
しかし、ドイツ降伏から時間が経過しすぎて、現代劇でナチスに"出自 "を求めるのは難しくなりつつある。梶本レイカは"悪魔 "誕生の背景を、より現代的なユーゴスラビア紛争に求めた。それは現代の時代性にマッチしている。
ユーゴスラビア紛争を"悪魔 "誕生の背景に用いたフィクションはまだ少なく、日本のマンガでは寡聞にして聞かない。おそらく今後は増加していくものと思われるが、その先鞭をつけたのが本作であり、梶本レイカの"創作者としての嗅覚 "の正しさは、信頼に足るところだ。

内戦によって蹂躙され「見えない」存在とされた孤児が「箱折犯」(四鐘)であるとしたら、彼は猟奇殺人によって己の仄暗い存在証明を続けているのに、今も警察の隠蔽体質によって「真犯人なんて必要ない」と存在を否定され続けている。そんな四鐘が、「悪魔(箱折犯)の存在」を証明しようとする阿久津を求めるのは、必然と言えるだろう。犯人が、追っ手を希求しているのだ。果たしてこのメフィストーフェレスは、ファウストの魂を手に入れることができるのだろうか。

また、この2巻では主人公がなぜ「引き返せない状況」にあるかが明かされる。
どうも阿久津は、「情熱的に事件を追う」というよりは、どこか冷めたスタンスでズルズルと事件に携わり続けているような印象を受けたが、その平熱感が劫火に包まれていく。伏せられたカードが一枚、また一枚とめくられていくような情報開示の手際の良さが、この2巻では際立つ。

2巻ラストまでには、読者が頭の中で物語を遊ばせるに足る要素が、だいぶ出揃ってくる。
ルーレットに投げ込まれた運命というボールは、ホイールの中を激しく回り続け、隣り合う赤と黒のポケットのいずれに落ちるのか。だが、われわれのベット(賭け)をよそに、梶本レイカという凄腕のディーラーは、緑色の「0」にボールを落としてきそうだ……。