もちろん、今後も昭和的なものへの再評価もおこなわれるだろう。
だがそれは昭和の音楽や映画、美術、さまざまなサブカルチャー、さらには町がまだ町としての生命力をもっていたと感じられる時代へのノスタルジーのようなものであって、昭和をつくりだした基軸にあるものではないだろう。
歴史の転換期には、ふたつのことが起こる。
ひとつは現実につくられている構造に対する嫌悪感の高まり、もうひとつはこれまでの支配的な価値観への批判的意志の拡大である。
歴史は理論によってつくられるわけではない。人々の感情がひとつの方向に向かうとき、歴史は変化への可能性をみせるのである。
とすると今日の人間たちには、何に対する嫌気が広がっているのだろうか。日本ではそれは、昭和的なものへの嫌気だと私は思う。
とともにその心情は、先進国ではある種の共通性をみせはじめているといってもよい。
アメリカではアメリカンドリームに象徴されるアメリカ的生き方への反発が広がりはじめているし、フランスでも戦後的構造をつくりだした「共和国連合」と社会党の「失脚」が顕著になった。といっても現在のマクロン政権もまた戦後的なものでしかない以上、いずれ「失脚」のときを迎えることになるだろう。
そういうことが世界中で起こる時代がはじまっているのである。
そういうさまざまな動きが、戦後的な政治や社会、経済の構造、価値観の黄昏を促進していく。そしてその奧には、近代的な国家のあり方が黄昏れていくという問題が横たわっている。