小池百合子知事が東京知事選に立候補したときは、彼女は昭和的な政治家の世界を破壊していく政治家のようにとらえられた。それが小池人気を高めたのである。
ところがその幻想はたちまちはがれることになる。
オリンピックや築地・豊洲問題への対応でも、希望の党の結成過程をみても、彼女もまた「私に任せてくれ」という昭和的政治家でしかなく、選挙で勝つための公約を並べるだけの政治家でしかないことが、さらには経済成長と日米同盟しかない政治家であり、自分が権力を確立するためにはすべてを道具として使う昭和的政治家以外の何物でもないことがわかってしまった。
それが小池人気を失墜させた。とともに希望の党に群がった、自分の当選のことしか考えない昭和的政治家たちもまた信用を失ったといってもよい。
今回の総選挙がみせたひとつのかたちは、昭和的なものの「失脚」なのである。
だから昭和的革新勢力でしかない共産党や社民党もその力を低下させている。「進歩的」な「知識人」や勢力によってすすめられてきた啓蒙主義、人々を目覚めさせていくという路線も、いまでは昭和的なものにしかみえなくなってきた。あるいは昭和的寝技政治家集団だととらえられた公明党や維新の会も低迷を余儀なくされた。
そのなかで脱昭和的な雰囲気をだすことに成功したのは、唯一、立憲民主党だけだったといってもよい。
国民を自分たちに一任してくれる有権者としてとらえるのではなく、ともにこの社会を改革していくパートナーとして位置づけるというこの党から発せられたメッセージに、昭和の政治家とは違うものを感じた人は、立憲民主党に投票した。脱昭和的価値観がこの党への支持率を短期間に高めたといってもよい。
とすると自民党はどうなのだろうか。
おそらく安倍政権もまた「失脚」への道を歩んでいくことになるだろう。
もちろん昭和的価値観を維持したい人たちもたくさんいる。その人たちに自民党は支えられていくことにはなるだろう。だがそういう人たちのなかにも、昭和的価値観に虚しさを感じる人は広がりつづけるだろう。
それは正確に言えば、一人の人間のなかに、ふたつの相反する精神が併存するということだ。ひとつは昭和的な価値観を維持したいという精神、もうひとつはそれに虚しさを感じる精神である。
維持したい精神は昭和的な経済、政治の維持を願い、それは選挙においては自民党へと収斂する。他方それに虚しさを感じる精神は、いかにも昭和的な政治家に対する感覚的反発を生みだす。
それは自民党が選挙で勝ちながらも、安倍政権に信頼できないものを感じていく人たちを生みだしつづけるだろう。
安倍首相の後に誰が首相になっても、同じことが加速度をつけながら展開していくだろう。なぜならいまの自民党には昭和的政治家しかいないからである。
いまの日本の政治の対立軸になりはじめているものは、保守か革新かでも、保守かリベラルかでもない。
昭和的か、脱昭和的かなのである。
もちろん政治家が当選によって一任を取り付け、開発独裁をすすめるというような昭和的な政治を脱していこうとすれば、市民参加型の政治や地域分権型の政治が視野に入り、それを追求すれば、それもひとつのリベラルな方向ということになるのかもしれない。
あるいは日米同盟一辺倒の政治から、別のかたちでのアジアの平和を追求する政治が生まれれば、それもまたリベラルな方向ということにはなるのだろう。
しかしそれは結果であって、軸になっているのは、昭和的な構造、価値観に対する嫌悪なのである。