今秋おこなわれた衆議院選挙を振り返ってみると、誰もが述べているように、自民大勝、立憲民主の躍進、希望の失速、公明、共産、維新、社民などの低迷という結果に終わった。
多くの人たちが述べていたように、野党の分裂が自民の勝利をもたらしたとか、小池前代表の言動によって希望が失速したというようなこともそのとおりなのであろう。
だが私がこの選挙などをとおして感じていたことは、そういうことではなかった。
それは、昭和的なものが「失脚」していくということだった。
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政治の世界は、昭和的な政治家が支配している。ここでいう昭和とは戦後的な昭和であり、とりわけ、高度成長をとおしてつくられた昭和であるといってもよい。この時代をつくってきた政治家のラインが、いまも日本の政治の世界を支配しているのである。
この時代の政治は、国内的には国の経済政策をとおして経済成長をはかり、その成果で国民を豊かにしていくというものであった。経済成長が人間たちを幸せにしていくという路線である。
そのためにはある種の開発独裁がおこなわれた。土木事業を代表とする財政出動がくり返されたばかりでなく、政府系金融機関を使った投資、補助金の支給、企業に対する目的減税、最近では特区などを用いた国民にはわかりにくい成長戦略が、まるで独裁的な経済政策とでもいうようにおこなわれていったのである。
他方、対外政策では、日米同盟が永遠の体制であるかのような政策がとられていた。
とともにこの路線の下で、政治はたえず政治家に一任するかたちがとられた。選挙で多数派を形成してしまえば、すべての政策が与党に一任される。いわば「私に任せてくれ」という政治である。
しかもこのような政治の下では、ときに金銭授受もふくめて、さまざまな利権構造もつくられる。「一任された」政治家と、その下に群がる人たちとの間に発生する「友好関係」が生みだす利権構造である。加計学園問題はそのひとつであろうが、それはお互いに便宜を図り合う関係である。
国民は有権者でしかなく、選挙のときには国民の支持を取り付けるためのデマゴーグの政治がおこなわれる。昭和の政治とはそういうものであった。
そうやって経済成長と日米同盟が追求されつづけたのである。
しかし私たちが暮らす現実の社会は、21世紀に入ると急速に昭和的なものではなくなっていった。
高度成長期に確立された終身雇用制や一種の生活保証賃金である年功型賃金は、民間企業では崩れてきている。経済成長が人々を豊かにするどころか、企業の成長の追求が格差を広げ、非正規雇用が増大しているのがこの社会の現実である。
経済成長を基盤としてつくられた社会保険、社会保障システムもその持続が危ぶまれるようになっている。若者たちは、老後は年金で暮らすことが可能だとどれほどの人が思っているだろうか。
それだけではない。経済成長が幸福をもたらすという昭和的なテーゼも、多くの人には色あせてみえる。より多くを消費することに喜びを感じ、幸せなマイホームを追い求めた昭和的生き方に虚しいものを感じる人たちがふえてきた。
みんなが行く場所に自分も乗り遅れまいと観光旅行に出かけ、同じ理由で海外旅行に出かける。そんな昭和的な価値観は終わりかけているといってもよい。
実際、居酒屋で酒を飲みながら上司が部下に企業人の心得を説くというような昭和的な行為は、いまではもっとも嫌われるものになっている。
そんなこともふくめて、「昭和的」と感じされるさまざまなものが、現実に生きる社会では、構造としても価値観としても「失脚」しているのである。
にもかかわらず政治の世界では、昭和的政治家が支配している。
このギャップが、政治に能動的に関わる意志を萎えさせてきたといってもよい。