創価学会の主要な活動の、「宿業転換」、「人間革命」。
ぱっと見、言っては悪いですけど、近づき辛い言葉に感じます。見たくない言葉でもあります。当然、現実的にも大変な作業です。
愚痴から始まりましたけど、気にしないで下さい。このあと、何とか盛り上げていこうと思っています。
…宿業転換の活動は、心身共に結構なストレスを感じながらのものですので、やっぱり大変です。(…あ、これからね)
そもそも、問題があった場合、全ての責任(因)を自分自身に帰すると言う事が、なかなか納得不能です。「相手が全て悪い!」という、キリスト教的な生き方で一件落着出来そうなのに、何故自分だけが苦労せねばならないのか、…と更に更に愚癡っぽくなってきます。
どうしてこんな辛い目に…と思いながら、途中、訳の分からない闇の世界に迷い込みそうにもなります。(いや…ここはまだ枕詞的な話で…)
「宿業転換なんて話は、全て嘘っぱちだ。何が永遠の生命だ!!題目なんてどうでもいい!!…海のバカヤロー!!!」
と言う、陳腐な青春ドラマ的パニック状態に襲われる訳です。
これを称して、「宿業転換パニック症候群」と言うかどうかは、全く知りません。
結果、そんな面倒臭いことはどうでもいい!!との感情に流されてしまい、小さいながらも折角の宿業転換の場が、おじゃん…。(…こ、これからが、本番ですよ)
ず~と、そんな「負の宿業転換」ばかり経験して来た私ですけど、この頃グッと堪(こら)える術(すべ)を身につけました。
「アホ!今頃、遅い!!」
と言う、非難中傷・無責任な罵声が自分の中からフツフツどころか、グツグツと涌現しまくりますけど、まあ今更、時間を巻き戻すことも出来ない訳で…
「これまでのことは、全部無かったことに…」
と御都合主義的に、過去の出来事は全てシャワーで流し切ります…。
兎に角、全て有耶無耶(うやむや)にした上で、そして、考え付いたのが今回の表題の言葉。学会教学の話としては、かなりの違和感もありますけど、これはいつものことです。
考えたことは以下の通りで、何かあった時、感情論に走る前にこう考える事にしたのです。
「この場を我慢することで、自分の持っている【宿業転換カード】にポイントが加算されるはず。だから、何があっても今は辛抱をすべき。若し、感情的な行動を取ったり、そんな思いに苛(さいな)まれてしまうと、折角溜まったポイントが一つ(または、数ポイント)減る事になる。その減ったポイント分だけ、人生の宿業転換が遠のいてしまう…」と。
…驚いたことに、こう達観してしまうと、少々のことでは腹が立たなくなって来たのです。
勿論、全ての出来事がそうなるとは限りませんけど、例えその時点で、いつもの「宿業減額(帳消)ポイント」となったとしても、時間を置いてもう一度冷静に自分の行動を眺(なが)めることが出来る様になってくるのです。(と言うか、「し易く」なります)
若い時は、学会員でありながら、「宿業転換」などと言うものに全く興味が湧かなかったんですけど(部員さんには偉そうに話していましたが…)、年齢を重ねた結果、「三世の生命観」を「真正面」から見つめる度胸が付いてからは、結局、学会の話している事って「真実」なんだなと思えてきました。(遅いですね…。我ながら、そう実感しています)
いま、持参している「宿業転換カード(通称・「日蓮カード」)」(日蓮株式会社発行)には、微々たるものですけどポイントが加算されつつある様に感じています…。
先日も妻との言い争いで、若干のポイントの揺れがありましたけど、何とか「プラス0.3」ぐらいには………。
八方ふさがりの状態に陥ったことがあります。
生きるか、死ぬかの二者択一の道しかありませんでした。
題目を上げようとしても一編の題目を唱えては泣き崩れました。
やがて、一編の題目がに二編になり、題目が増えてきました。
ただ、ひたすら、題目をあげました。
御書の一節「われ並びに~まことの時にはわするるなるべし」
が浮かんできました。
まことのときとは、いつなんだと自問自答し、まことのときとは
今なんだと分かったときは命の底から歓喜が湧いてきました。
99.9パーセント不可能とおもえる道を選択しました。
もし、私が、題目を上げることができず、御書の一節を思い起こしていなければ
世捨て人か、生きていなかったです。
あの頃は、一瞬一瞬が仏と魔との戦いでした。信じ切る以外に私が生きる道はありませんでした。
二度と、あのような体験をしたいとは、思いません。
しかし、その体験があったから
耳が聞こえない人と聞こえる人の橋になると先生に誓いのお手紙を出すことができました。
誓いの人生に悔いはありません。必ず、先生に勝利の報告をします。
人間(大きくは動植物を始めとする全生命体)は死後、どうなるのか。
大きく分けて3つの捉え方があります。
(細かく区分することも可能ですが、些末を論じても無意味ですね)
1.生命とは、肉体の機能として付随的に存在するものであり、
肉体の消滅(脳活動、心活動を中心とした身体機能の喪失)
によって、精神活動とともに消滅する。
2.死後には死後の世界が存在し、肉体的機能の消滅後には、
肉体に依存しない精神世界へと赴く。
肉体に依存した活動を行っていた世界(娑婆世界:現実世界)で
「良い行い」をすれば、俗に、天国や極楽と表現される世界に行き、
安穏・安楽の世界に住することが出来るが、同様に「悪い行い」を
すれば、 地獄のような世界で日々責め苛まれることになる。
死後の世界のその先に、次の世界は存在しない。
3.生命とは、その表現の場が顕在化している状態(娑婆世界・現実世界
で能動的活動を行っている)と、表現の場が冥伏されている状態
(宇宙空間に融け込み、その一部となっている受動的状態)を
不可逆的時間軸に沿って「生」→「死」→「生」→「死」・・・と
繰り返してる。
「次生」とは、「生まれ変わる」ことではなく、生前の生命状態が
そのまま引き継がれていく。
さて、それぞれの捉え方をしている人たちの中で、死後に「後悔」を
する可能性があるのは、いずれの人でしょうか。
また、最も「希望ある」考え方はいずれでしょうか。