拉致被害者 増元るみ子さん母親 信子さん(90)死去

拉致被害者 増元るみ子さん母親 信子さん(90)死去
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北朝鮮による拉致被害者、増元るみ子さんの母親の信子さんが12日朝、入院先の鹿児島県内の病院で亡くなりました。90歳でした。
増元信子さんは昭和53年、鹿児島県日置市の海岸から市川修一さんとともに北朝鮮に拉致された増元るみ子さんの母親です。

平成14年の日朝首脳会談で北朝鮮は拉致を認め「るみ子さんは死亡した」と伝えてきましたが、その説明には矛盾や不自然な点があり、信子さんは娘の生存を信じて帰国を待ち続けてきました。

鹿児島県の自宅で毎朝いちばんに煎じた日本茶をるみ子さんの写真の前に置き、無事を祈ることを日課にしてきましたが、ここ数年は足腰が衰え思うように体を動かせなくなったことから、施設での生活が続いていました。

夫の正一さんは平成14年に亡くなって、信子さんは一日も早いるみ子さんとの再会を願っていましたが、12日朝、心不全のため入院先の鹿児島県内の病院で亡くなりました。

平成14年の日朝首脳会談以降、政府が認定している拉致被害者の親で、子どもとの再会を果たせずに亡くなったのは信子さんで6人目となります。

次男の照明さん「政府はもっと本気で」

NHKの取材に応じた信子さんの次男の増元照明さんは「母がこんな急に逝くとは思ってもいませんでした。本当に悔しい気持ちでいっぱいです。うちの家族は両親が2人とも再会を果たせずに倒れてしまいましたが、ほかの被害者の親には存命のうちになんとか子どもとの再会を果たしてほしい」と話しました。

そのうえで「拉致被害者を取り戻すという点において、政府にはもっと本気で動いてほしかった。このままではまた家族の誰かが倒れてしまう」と危機感を訴えました。

また15年前、父の正一さんが亡くなる直前にるみ子さんに宛てたビデオレターで『日本を信じろ』と呼びかけていたことを振り返り「日本政府にやってもらわなければ拉致問題は解決できないから父は信じざるを得なかったんだと思います。ただ15年たっても事態は動いておらず、何を信じればいいのかという思いです」と話しました。

市川修一さん兄の談話

増元るみ子さんとともに北朝鮮に拉致された、市川修一さんの兄の健一さんは「私も両親をすでに亡くしていますが、30年、40年と待ち続け、子どもと再会することなく旅立っていかれた心中を思うと残念で悔しかっただろうと思います。親にしても私たち兄弟にしても高齢化が進んでいて本当に時間がありません。だからこそ、政府も本腰を入れて全員救出に向け取り組んでもらいたいと、ただただ願うばかりです」と話しました。

おととしNHKの取材受ける

増元るみ子さんの母親の信子さんはおととし8月、鹿児島県内の病院でNHKの取材に応じていました。

車いすで面会室に入って来た信子さんは、るみ子さんについて「優しくて文句を言わない娘でした。るみ子のことを一日たりとも忘れたことはありません」と語っていました。

そして「北朝鮮に拉致された娘を思うと泣きそうになります」と話し「私が元気なうちにるみ子に早く会いたい。帰って来るまで絶対に元気でいて『お帰り』と言いたい」と娘との再会に思いをはせていました。

健在な親は4人に 解決は時間との闘い

政府が認定している拉致被害者のうち、安否がわかっていない12人の親で子どもとの再会を果たせずに亡くなった人は、平成14年の日朝首脳会談以降だけでも増元信子さんで6人になります。

増元るみ子さんに関してはこの15年の間に両親がいずれも他界したことになります。

るみ子さんの父親の正一さんは平成14年9月に行われた日朝首脳会談の翌月に鹿児島市内の病院で79歳で亡くなりました。
正一さんは亡くなる直前に残したるみ子さんに宛てたビデオレターで「もうこっちから迎えには行けないけど待っててくれ。自分も日本を信じるからおまえも信じろ」と呼びかけていました。

拉致問題はことし、被害者の家族会が結成されて20年、最初の事件の発生から40年の節目の年で、解決にあまりにも長い時間がかかる中、「生きているうちに再会を果たしたい」という家族の思いはこれまで以上に強くなっています。

信子さんの死去で、今も健在な親は横田めぐみさんと有本恵子さんの両親の4人になりましたが、めぐみさんの父親でこれまで活動の先頭に立ってきた滋さん(85)に介護が必要になるなど、全員が老いという現実に直面し、問題の解決は時間との闘いになっています。

拉致被害者 増元るみ子さん母親 信子さん(90)死去

北朝鮮による拉致被害者、増元るみ子さんの母親の信子さんが12日朝、入院先の鹿児島県内の病院で亡くなりました。90歳でした。

増元信子さんは昭和53年、鹿児島県日置市の海岸から市川修一さんとともに北朝鮮に拉致された増元るみ子さんの母親です。

平成14年の日朝首脳会談で北朝鮮は拉致を認め「るみ子さんは死亡した」と伝えてきましたが、その説明には矛盾や不自然な点があり、信子さんは娘の生存を信じて帰国を待ち続けてきました。

鹿児島県の自宅で毎朝いちばんに煎じた日本茶をるみ子さんの写真の前に置き、無事を祈ることを日課にしてきましたが、ここ数年は足腰が衰え思うように体を動かせなくなったことから、施設での生活が続いていました。

夫の正一さんは平成14年に亡くなって、信子さんは一日も早いるみ子さんとの再会を願っていましたが、12日朝、心不全のため入院先の鹿児島県内の病院で亡くなりました。

平成14年の日朝首脳会談以降、政府が認定している拉致被害者の親で、子どもとの再会を果たせずに亡くなったのは信子さんで6人目となります。

次男の照明さん「政府はもっと本気で」

NHKの取材に応じた信子さんの次男の増元照明さんは「母がこんな急に逝くとは思ってもいませんでした。本当に悔しい気持ちでいっぱいです。うちの家族は両親が2人とも再会を果たせずに倒れてしまいましたが、ほかの被害者の親には存命のうちになんとか子どもとの再会を果たしてほしい」と話しました。

そのうえで「拉致被害者を取り戻すという点において、政府にはもっと本気で動いてほしかった。このままではまた家族の誰かが倒れてしまう」と危機感を訴えました。

また15年前、父の正一さんが亡くなる直前にるみ子さんに宛てたビデオレターで『日本を信じろ』と呼びかけていたことを振り返り「日本政府にやってもらわなければ拉致問題は解決できないから父は信じざるを得なかったんだと思います。ただ15年たっても事態は動いておらず、何を信じればいいのかという思いです」と話しました。

市川修一さん兄の談話

増元るみ子さんとともに北朝鮮に拉致された、市川修一さんの兄の健一さんは「私も両親をすでに亡くしていますが、30年、40年と待ち続け、子どもと再会することなく旅立っていかれた心中を思うと残念で悔しかっただろうと思います。親にしても私たち兄弟にしても高齢化が進んでいて本当に時間がありません。だからこそ、政府も本腰を入れて全員救出に向け取り組んでもらいたいと、ただただ願うばかりです」と話しました。

おととしNHKの取材受ける

増元るみ子さんの母親の信子さんはおととし8月、鹿児島県内の病院でNHKの取材に応じていました。

車いすで面会室に入って来た信子さんは、るみ子さんについて「優しくて文句を言わない娘でした。るみ子のことを一日たりとも忘れたことはありません」と語っていました。

そして「北朝鮮に拉致された娘を思うと泣きそうになります」と話し「私が元気なうちにるみ子に早く会いたい。帰って来るまで絶対に元気でいて『お帰り』と言いたい」と娘との再会に思いをはせていました。

健在な親は4人に 解決は時間との闘い

政府が認定している拉致被害者のうち、安否がわかっていない12人の親で子どもとの再会を果たせずに亡くなった人は、平成14年の日朝首脳会談以降だけでも増元信子さんで6人になります。

増元るみ子さんに関してはこの15年の間に両親がいずれも他界したことになります。

るみ子さんの父親の正一さんは平成14年9月に行われた日朝首脳会談の翌月に鹿児島市内の病院で79歳で亡くなりました。
正一さんは亡くなる直前に残したるみ子さんに宛てたビデオレターで「もうこっちから迎えには行けないけど待っててくれ。自分も日本を信じるからおまえも信じろ」と呼びかけていました。

拉致問題はことし、被害者の家族会が結成されて20年、最初の事件の発生から40年の節目の年で、解決にあまりにも長い時間がかかる中、「生きているうちに再会を果たしたい」という家族の思いはこれまで以上に強くなっています。

信子さんの死去で、今も健在な親は横田めぐみさんと有本恵子さんの両親の4人になりましたが、めぐみさんの父親でこれまで活動の先頭に立ってきた滋さん(85)に介護が必要になるなど、全員が老いという現実に直面し、問題の解決は時間との闘いになっています。