皆さんこんばんは。
今日は最近思ったことについて書こうと思います。
その日はなぜか色々考える気分の日でした。
そこで急に思いました。
「偉人たちはその時代に合ってなければ名が上がることはなかったのかな?」と。
なぜその考えに至ったのかと言うと、正直忘れました(笑)
ただその日は、野口英世やヘレンケラーを考えました。
今思えばなぜそんな気持ちだったのか意味不明です(笑)
「野口英世」
この人は幼少期に火傷により片手の指4本がくっつきました。
しかしながらその手は医療によって治りました。
その時に医療のすばらしさに感動し、医療の道を歩みました。
そして生涯を通していくつもの病気を発見した医学研究社となりました。
最期は黄熱病によりなくなってしまいますが最期まで研究を投げ出すことはありませんでした。
野口英世が亡くなった後に電子顕微鏡というものが発明されました。
ここで俺は思います。
「もし、野口英世が生きている時代に電子顕微鏡があったならもっと多くの病気を発見し、人類の医学は進んでいたのかもしれない」と。
顕微鏡と電子顕微鏡の差がどれくらいあるかは正直知りませんがそうと見えるに違いありません。
逆に小さいときに火傷をしなかったら、あるいは顕微鏡のない時代に生きた人なら野口英世は無名のままだったかもしれません。
「ヘレンケラー」
この人は視覚と聴覚に障害を持っていました。
1歳半の時に髄膜炎にかかりかろうじて一命をとりとめましたが、聴力、視力、言葉を失いました。
今の俺なら正直絶望していることでしょう。
普通に考えただけでも俺は生きる気力を失うと思います・・・
1歳半にその状態になったので両親からの教育を受けることができずにわがまま(度が過ぎた)になってしまいます。
サリヴァンは家庭教師で、自分の経験を活かし「しつけ」「指文字」「言葉」を教えました。
その後50年にわたり良き教師、友人としてヘレンを支えました。
ここで俺は思いました。
「もし、二人が出会わなかったら?もし、この時代の医療が進んでいて少し目が見えて耳も少し聞こえていたら?」
恐らくサリヴァンと出会わなければ生きるのが辛くなっていたでしょう。
もしかしたら自ら命を絶っていたかもしれません。
医療が進み目が少し見えていたり、耳が少し聞こえてたら「障がいのある人」で人生を終えていたか、医学の道に進んでいたかもしれません。
俺が色々考えてみた結果
「それぞれの人生はそれぞれの時代に合っているのではないか」と思いました。
今回書きませんでしたが死後有名になった「ゴッホ」や「ゴーギャン」は「生きた時代が彼らの時代ではなかったのではないか」と俺は思いました。
芸術家として名を遺した人は「音楽家」「画家」「彫刻家」などが多い気がします。
今でも作品が存在し、保管され、管理されていることが何よりの証明なのではないかと思います。
つまり、死後に有名になった人たちはこの先の時代もずっと彼らの時代なのかもしれません。
今、自分たちが生きている時代は自分たちが生きるにふさわしい時代なのかもしれません。
何か大作を作り上げたり、何か大きなことをしたり偉業をなしたりするとお迎えが来るのかもしれません。
「命は何か意味があって生きている。いらない命なんてない。」
この言葉はあながち間違ってはいないのかもしれません。
今は自分の人生にどんな意味があるのか、何のために生きるのかは分からないと思います。
しかし、頑張って生き抜いてようやく命尽きる時に生きてきた意味が分かるのかもしれません。
それが実はかけがえのない素晴らしいものなのかもしれません。