玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。旧玖足手帖から記事・ブクマを引き継ぎました。


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ガンダム密会・肉体派NTシャア・アズナブル論

 また「密会 アムロララァ」を読み返していたのだが、ニュータイプの描写で非常に納得のいく記述があった。それはアムロとシャアとララァとオールドタイプについての設定である。非常に端的にそれぞれの人々の性質を述べている。
 そして、またこれは富野監督の最新作のGのレコンギスタクンタラの差別やシャアの尻尾としてのマスクや主人公・ベルリ・ゼナムの描写にも同じ著者の思想として通じるものがある。
 それで、そこで感じたことを現在進めているGレコのベルリの殺人考察に引用しようかと思ったのだが、そのニュータイプ論を入れられるのは第23話「ニュータイプの音」なのだ。現在は第12話の考察を書いており、一話あたり1か月以上の執筆時間と言う遅筆なので23話までたどり着くまでに発想を忘れる危険性がある。
 なので、今回の着想はGレコとは別にファーストガンダムのシャアとアムロララァについてのコラムとして書いておこうと思う。


 では、その問題の個所を引用する。


 と、思ったが、このブログを読みに来るような人は当然「密会」を所有しているわけなのでわざわざタイピングをする必要はないと思う。
 今回、最重要な個所は角川スニーカー文庫版102p8行目から103p14行目までである。


 えっ?まだ密会をお持ちでない人がいる?買いましょう。

密会―アムロとララァ (角川スニーカー文庫)

密会―アムロとララァ (角川スニーカー文庫)

 これがダイレクトマーケティングだ!


 (この記事は一万二千文字あります)

 この個所はTVアニメ版機動戦士ガンダム第34話「宿命の出会い」のコンスコン艦隊とホワイトベース部隊の戦いをテレビ中継でシャアとララァが観戦するシーンにあたる。そこで、ララァがテレビを通してアムロについて感じたことなのだが。102p8行目から14行目まではニュータイプとしてのアムロの本質を述べている。15、16はララァ・スンでありGレコのクンタラについて。17、103p1行目は一般大衆としてのオールドタイプ。103p2行目から5行目についてはシャア・アズナブルの狂気についてだ。あのララァエルメスゲルググをかばう運命の時以前に、シャアとララァは静かに心が離れて行っている。テレビ版ではララァとシャアが事後にアムロを上の立場から傍観するようなムードだったが、富野版のリライト(ORIGIN)ガンダムである「密会」では本編と同じセリフの間にさらに熟成した解釈や心情を挟んでいる。これはアニメを描き直した小説だからこそできる、レトリック中のレトリックといえる技だ。
 さっきまで一緒に寝ていたかもしれない男女が、すでにもう心が離れはじめている・・・・・・というような心理的な瞬発力が富野作品の描写にはある。(逆シャアの有名なナナイ酒とかね)


 Gレコの「ニュータイプの音」はマッシュナーの虫の知らせがニュータイプ描写としてあった。しかし、主人公のベルリ・ゼナムロックパイを感じることもまた、ニュータイプ描写だろう。そして、それは密会のアムロの解釈と同じである。
 そこで、差別されてきたララァは包容力と共感力のあるアムロに惹かれる。Gレコでは差別されてきた女戦士のラライヤとクンタラのノレドがベルリを叱咤する。この対比構造は殺人考察で23話を分析する時に述べる。
 で、共感力があるのがニュータイプ、ないのがオールドタイプの大衆、と言うわけだが、シャア・アズナブルはそのどちらでもない。彼は狂気の人として描写されている。ここは安彦良和版のORIGINのシャアが狂人であるという解釈と、狂気の点において一致している。しかし、安彦版のシャアが復讐の狂気なら、富野版のシャアの狂気はそんな幼年期を引きずって幻影に負けるマザコンではない。
 ガンダム20周年の井上大輔のアルバムに井荻麟が作詞したシャアのテーマソング「シャア ロンリー ソルジャー」と言うのが富野のシャアの狂気への解釈だろう。
 もちろん、このブログを読んでいるような富野ファンの人はこの歌も愛聴していることと思う。

 えっまだ持ってない人がいるんですか?


 富野にとってシャアはロンリーソルジャーなのだ。国や妹を護るための騎士でもなく、軍隊で共闘する兵士でもない。自分のために部下も女も裏切り家族も捨てる。そして敵を殺す。シャアはいつでも一人の男の戦士に過ぎなかった。だから、シャアにとってすべての物は戦士として使いこなす武器、道具に過ぎない。ララァのこともアムロニュータイプ能力も性能面で見ている。だから、ララァはシャアから心が離れた。
 シャアはもしかすると他人に心があるということすら考えないようにしている人なのかもしれない。
 人を見下すとアムロにも評されたシャアだが、シャアは一人で完成された戦士なので自意識が強く、それゆえに自分のことで手一杯で、他人にも自意識があると考える余裕もないのかもしれない。


 だから密会107pのテキサス・コロニーの実験のシーンでもララァはシャアに甘えたかったのに、シャアはララァを他人として扱う。そして、ここでララァの心に触ったのはシャアではなくアムロのテレパシーだった。だからシャアはララァと離れていく。こういう少女の機微を描くと富野由悠季は本当にうまい。ララァの少女としての面を描く言葉の選び方が本当にうまい。感動を覚える。


 オリジンのシャアはついにアムロのことを連邦のニュータイプということ以上に認識しなかった。そして「私はキャスバルだ!」「私にはアルテイシアがいる!」と叫んだ。しかし、セイラがシャアに刺されたアムロの面倒を見ていると、妹をアムロにとられた気持ちになってキシリアを殺しに行って逃げる。安彦先生はニュータイプのことを書かないと決めたのでララァを取られたシャアの気持ちは描かない。(そのくせ、終盤には萬画のくせに挿入歌を書き入れて、せこいんだよ)
 オリジンのシャアは結局、シャア・セイラ編のキャスバルに過ぎなかった。妹をザビ家から守る、そういうことで自己正当化する坊やだった。ララァについても救えなかった母の代わりに救う対象としてしか見ていなかった。男じゃないんだ!坊やなんだよ!それにしても、安彦先生は絵の才能だけは富野監督の何万倍もあるのに、シャアの気持ちを表現するのに雑なセリフとネームに頼って、本質的な文才はないんじゃないのか?絵描きは作画監督だけをやっていればいいものを!
 富野のシャアは違う。ララァを失った後、密会のシャアは167p8行目の認識である。彼はキャスバルではなく、シャア・アズナブルだからだ。



 安彦良和先生はニュータイプ論を70年代の新人類ムーブメントとしてとらえた。そして、ORIGINのシャアにも「オールドタイプ対ニュータイプの戦争だ」と言わせた。もちろん、ニュータイプ論は当時のニューエイジ思想や新人類と言われた当時の若者の世相を取り入れたところはある。それはZでも逆襲のシャアでもそうなのだが、しかし、それだけでもない。それだけでもないのだが、安彦先生は学生運動で投獄された当事者だからなのか、イズムとしてだけニュータイプを語ってしまった。そこが狭いんだよ!そんな人間が「正しい宇宙世紀歴史観のORIGINでシャアのイメージを修正してやる!」なんてさあ!歴史萬画家は歴史をなぞっていればいい!
 富野喜幸学生運動では体制側右翼の学部執行部にいたらしい、それで堅気の仕事にもなれず映画監督にも成れず虫プロの制作進行になったのだが、実写のCM制作会社に転職するようなこともしたというのは自伝のとおりらしい。
 富野はイズムよりももっと世間の人間関係に敏感な人で、また、そういう経歴を持った作家なのだろう。(富野監督にも思想やイズムもあるんだけど、ローマクラブにはまったり最近はアーレントにはまったり、結構そのとき読んでる本に影響されるミーハーな面もある人だ)


 じゃあ、結局ニュータイプって何なのかと言う話に戻るが。∀ガンダム直前に執筆された密会時点での富野由悠季監督の見識では「人とのかかわり方の問題」という俗な部分だろう。それは政治運動ではなく、もっと卑近なものだ。
 密会125p2行目でララァはシャアを愛しいと思うが、それはシャアが妹以外にはろくな人間関係を持っていない寂しい一人の男だからだ。友人も部下も平気で殺す。そういうダメな男を愛してしまうのも、ララァと言う女なのだ。
 しかし、その当のアルテイシアは密会160pのような意識でシャアに歯向かう。彼女はネイキッド・ナイフ。結局、まともじゃないシャアの妹のセイラもまともではない。
 それで、ララァはセイラの愛と自分の愛を感じて、比べて、161p10行目のようにエルメスを投げ出すことになった。
 「敵と戯れるな!」というシャアに対して、ララァの164p13行目の意識は、まさにニュータイプが他者との関り、その中で生まれる愛の話だということを表している。単にテレパシーやサイコミュが使えて、オールドタイプよりも進化しているとか、そういう話じゃないのだ。


 だが、シャアと安彦にはそれがわからない。だからニュータイプをマシーンの性能としてしか見れない。そのシャアについてはララァアムロは172p2行目、185p4行目のように評している。
 シャアと安彦は戦力と画力が強い。圧倒的な我がある。ゆえに、他者との交感から発生するニュータイプを認めることができない。認知できない。
 だが、そのシャア・アズナブルは190p2行目から5行目で、決闘しつつアムロとテレパシーで感じ合った。
”貴様だって、ニュータイプだろうに!”



 そう、シャアはニュータイプなのだ。だが、一年戦争に身を投じて、戦い続けたシャア・アズナブルニュータイプである以上に戦士になってしまったのだ。だから人間はニュータイプを殺し合いの道具にしか使えないと思う。それはシャアが他人を道具としてしか扱えない人間だからかもしれない。シャア自身がそういう認識しかできないので、シャアは「人間はニュータイプを道具にしかできない」と主張したのかもしれない。


 だが、人は道具を使って生き延びてきた動物だ。


 シャアはその動物としての肉感を高めたニュータイプなのかもしれない。アムロララァはオカルト的な、或いは脳や精神におけるニュータイプとなった。他者との通信、同一化、共感、それもニュータイプであるし叡智を持つ人の特性だ。


 しかし、そこでまた最初に述べた最重要な102Pの人間の4類型、アムロララァとオールドタイプとシャアに戻る。
 包容力のあるアムロに、差別されたララァは同一化した。オールドタイプは自らの安逸にしか興味がない。シャアは知恵と狂気と肉体を持った人!だからシャアはジオングに乗った時に181pラストのようになれた。ララァは精神をアムロに、肉体をシャアに捧げたのだろうか。



 ニュータイプ論の解釈の一つとして、戦場で主人公のアムロを生き延びさせるにはエスパーにするしかなかった、というものがあり、これも富野監督が語ったことではある。これはアムロが無敵のニュータイプになって強くなれた理由付けでもある。
 では、逆になぜ、シャア・アズナブル通常の三倍の強さを手に入れられたのだろうか?この議論は少ない。天才政治家、ジオン・ダイクンの息子だったからだろうか?ザビ家に対する復讐の鬼だったからだろうか?


 しかし、密会102pのシャアの狂気についての描写を見ると、そういうものではない気がする。シャアは単に現実主義者で肉体を使って戦う戦士であり、究極的に自分しか信じていない、いや、自分しか世界にいない人間なのではないだろうか。これは雑に言うとサイコパスなのだが。
 大衆としてのオールドタイプは経済格差や社会システムの搾取によって、他者との利害と言う関わり合いによって安逸を手に入れようとする。自分は大した力も持っていないくせに、テレビや新聞やツイッターで他人のうわさに汲々として足の引っ張り合いをして自分だけは助かろうとする、蜘蛛の糸カンダタレ・ミゼラブルのテナルディエのような人間が我々大衆です。社会システムに依存したこそ泥です。
 しかし、戦士は大衆ではない。戦士は知恵によって動物以下の利己的な行為を正当化する。戦士にとって確かなものは自分と、肉体と、道具と、経験と、現実しかない。戦って獲得する、それだけだ。だからシャアは強さを手に入れた。
 アムロララァのようなニュータイプは意識によって分かり合えた。しかし、それはイメージの密会に過ぎないのではないか?
 そういう関係に対する対になる極として、「自分の肉体と現実」だけで戦うロンリー・ソルジャー、シャア・アズナブルをキャラクターとしておくのは創作術としても自然なことだ。


 資本主義はマルクスエンゲルスの時代やビットコインの最近まで、空想だと言われることもある。オールドタイプの経済システムも見知らぬ他者を搾取する空想のシステムで稼働している。オールドタイプも空想や意識の中でなんとなく生きている。
 しかし、シャアは現実の中で生きている。だから、人を殺す時にも相手の苦しみや過去や価値とか、そういうイメージには頓着しない。ただ、自分のためになるなら殺す。それゆえに強い。
 

@highland_viewさんがTwitterで言ってたけど(元記事たどれず)

以前ブログにも書いたけど、シャアによるジオングの戦果って奇跡のような活躍なんだよね。キシリアの「赤い彗星も地に落ちたものだな」という台詞もあって、なぜかバカにされがちなんだけど、経験豊富なユニットに対して出来たての勝率10%ぐらいのユニットで相討ちできたような奇跡に近い。
 そもそもジオングは一体のモビルスーツインファイトするような機体ではないので、本当は対艦船にでも専念でもするのが

 って、おっしゃってたけど。実際ジオングは戦艦を落としてたけど、シャアは他の兵士と連帯して対艦隊防御行動とかするのが性格的に無理なので、他人と協調できない子なので、アムロガンダムに無理やりインファイトを挑む。それでアムロに「シャア以上のニュータイプか!」って思われるくらいの気迫を出す。シャアは結局一人の戦士として戦い抜くのが一番伸びる子なんだなあ。



 機動戦士Zガンダム第7話「サイド1の脱出」でクワトロ大尉となったシャアは毒ガスでティターンズが大量殺戮したことについて「直接、刃物を持って殺さないからさ。手に血が付かない人殺しでは、痛みが分からんのだ」と述べた。シャアはそういう殺し方はしない。自分の手で殺す。なぜなら自分の手以上に信頼して使える道具がロンリーソルジャーにはないからだ。(もちろん、木馬を囮にしてガルマを殺したり、そういう道具の応用をする知恵も持っている)(あと、ジャブローに潜入する時もアカハナに服装を合わせない(設定画を起こす暇と金が当時のサンライズや監督や作画監督になかっただけかも…)。ロンリーソルジャーは迷彩服が似合わないやつだし)
 イセリナアムロにぶつけた後「人には頼れんな。あ、ドレン、私のモビルスーツは電気系統がめちゃめちゃに焼き切れていて使えなかった事にしておけ」って言い放つくらい。く、クズ過ぎる…。



 では、シャアはサイコパスで共感能力が欠如したクズの悪党に過ぎないのだろうか?



 しかし、それはそれで違うのだ。本質的にはやさしい人だ。
 なにより、シャアはララァ・スンカミーユ・ビダンクェス・パラヤといった最高レベルのニュータイプを見出し、アムロ・レイとも高度に通じ合えた。
 しかし、それはアムロのような精神的なニュータイプとは手順が違う。シャアは肉体と感性を究極まで高めることによって、共感ではなく肉体の観測で、イメージではなく現実体験としてニュータイプの域に到達している。シャアは現実的な経験として自分が「良い」と思ったものは「良い」と分かる能力はある。
 それがシャアの強さだ。物事の本質を理解する、と言う面でのニュータイプだ。


 だが、脆さでもある。
 シャアには自分しかいない。もしかしたら、世界が平和だったら、他の人間がもっと優しかったらシャアもアムロのようなニュータイプになれたかもしれない。だが、シャアは殺して生き延びるしかない戦士だと自覚する経験しか、現実社会で得られなかった人だ。シャアにとって世界の本質とは殺し合いと戦いでしかなかった。
 「死に至る病」においてキルケゴールは最も深い絶望は「救済を拒む悪魔の絶望」だと述べた。ララァのような至高のニュータイプと感じ合いながら、しかし彼女に救済されることをシャアは拒んだ。「我」が強いからだ。そのシャアの絶望は逆襲のシャアまで続く。
 そういう一人の人間でしかないニュータイプは新訳Zガンダムのラストでのパプティマス・シロッコに対する批評でもある。


 しかし、現実が殺し合いでしかないとしたら、殺して勝つ、それは正しいものの見方だ。


 だからシャアはアムロを殺そうとする。シャアはニュータイプアムロが最強の兵士として人間に利用されないようにアムロを殺そうとした。殺して勝つ以外に、現実主義者が安心する術はない。空想の社会システムで他者を虐げて安逸をむさぼる大衆ではないのだ。自分で勝たなければ気が済まない。
 アムロとの最後の戦いをフェンシングにしたのも、結局自分の肉体がいちばん信じられるからだろう。(ORIGINではシャアは少年時代のトラウマでアムロに負けたって言う理由だが、テレビ版はララァの導きもあったのかもしれない。密会ではアムロと剣で引き分けになったことよりも白鳥のララァを重視している。異能バトルとしてラノベっぽく考えたら、肉体を使う技に秀でたシャアの運動神経をアムロニュータイプ能力で感知して、切っ先を読んだとか……。キャスバルのトラウマが無くてもアムロが勝てる理由はいくらでも出る)


 そんな自分の勝利しか信じない性格、それはそれでライバルキャラクターとしてはキャラクターが立っているのだが。
 だが、シャアは単に勝つことだけを求めるドラゴンボールベジータみたいなライバルでもない。


 それはZガンダム小説版第四部110pのダカール演説を聞くセイラ・マスの兄に対する印象でも描写されてある。シャアは自分で戦って勝つことを求めるのだが、ものすごく強くてかっこいいので、オールドタイプを道具にするために、自分が道化を演じることもある。しかし、そこに不快感を覚えるのがシャアでもある。
 シャアは自分では道化を演じることを不快だと思うが、それでも大衆を引き付けるくらい、かっこいいのだ。


 そう、シャアは強くてかっこいいのである。強さとカッコよさだ!
 これが問題を根深くしている。アムロはやさしさを強さだと勘違いしているようなニュータイプだが、シャアは逆。ダメなDV彼氏がモテるように、シャアみたいな共感せず現実の力を振るう戦士はかっこいいので、モテる。ララァですら、シャアが強く孤独だからこそ愛した。大衆もそういう孤高のヒーローをアイコンにしようとする。シャアも大衆を自分の戦いの道具にするために不快感を覚えながら演説をする。そして、それもうまくやってしまい、人の心をつかんでしまう。アムロニュータイプとして誠実に一年戦争の後に講演会とかをしたせいでオカルト野郎扱いされて幽閉された。アムロは大衆ではなく人と関わろうとするから、政治が下手糞。シャアみたいなサイコパスの方が大衆を道具として扱うので実は経営者向きだったりする。そして、クェスやナナイやカミーユみたいな大衆の中から特別扱いされたいと思うような才能を持ったものを引き付ける力もある。これはカルト組織の典型でもあるのだが。


 シャアは自分が強すぎるのが長所であり短所なのだ。そして、それはものすごくざっくり言い換えると、「他人の人生に介入して平気で殺すこともするくせに、自分の人生に他人が影響することが許せない。自分以外の要素で自分の人生が動くことが許せない」という境地。だから、他者との交流によって生じるニュータイプとは決定的に違う。しかし、性質は違ってもシャアもまた、ニュータイプ級の高みなのだ。
 

 だからジオングに乗った時も、逆襲のシャアの時も、アムロを殺そうと執拗に付きまとったのは「自分以外の戦士に自分の人生を曲げられたと思うことが許せないので殺す」と言う心理なんだろうな。ララァの仇討とかザビ家打倒というのはどうでもよくて、自分より上に誰かがいるのが許せない。アムロに同志になれって言ったのも、自分がアムロに影響されたのではなく、影響する側に立ちたくて仕方ないからなんだろう。セイラはいい女になったからか、戦争を忘れたのだが。シャアと対面したら殺意を抑えられないから、セイラはシャアに会いに行かない、という危険な女でもある。


 そんな性格なので、シャアは正体がバレてもキャスバル・レム・ダイクンを名乗るのは道化を演じるとき以外はやりたがらない。偽名を使ってる方が落ち着く。なぜなら、キャスバルとして父のジオン・ダイクンに自分の人生に影を落とされることすら、シャアは嫌だからなのだ。彼は独立した個人として家族も持たず、妹は金塊で処理して、自分の人生を自分だけで生きたいと思っているのだ。父のジオンを尊敬する心とかジオニズムを信奉する理論なんかみじんも持っていないのだ。強すぎてカリスマ視されやすいくせに、シャア・アズナブルと言う名前がカリスマになったらクワトロ・バジーナに変わってただの戦士をやりたがる。


 そんなシャアが小説版Zガンダム第四部122pのラストのようにハマーンから逃げ出すのは当然のことだ。ハマーンは狭い世界でシャアを手本のようにして育った少女で、だからハマーンもシャアを真似て他人を支配しようとする。ハマーンはシャアを良いものとして真似ている。しかし、ハマーンは辺境のアクシズの男たちの女王・アイドルになってしまう。シャアは自分を真似ている少女が自分のいるアクシズに影響を与えて、自分がその組織の一部になるのが嫌になった。だから逃げる。
 シャアは自分の影響で変わった少女のララァハマーンから、逆に影響を受けることがとても嫌な人だ。シャアは自分は常に与える側で、勝つ側で、奪う側でないと気持ち悪くて、対等なパートナーとして女性や他の友人と相互に与えあう、と言うことが生理的に無理な性格なのかもしれない。
 (やっぱり、美少女妹のお兄ちゃんだからなのかもしれない。)
 (アニメ版ではアムロに頭を刺されてるのに爆風で飛ばされたアルテイシアを颯爽と庇ったからな。ORIGINではアルテイシアアムロをかばってたのに。テレビのアムロは孤独に剣を自分で抜く。これは安彦さんと富野監督の作家性の違いかなあ。男女観かも知れない。シャアが奪う側でいたかったのは、結局男をやりたかったからだろう。それは次作でレコアを絶望させることになる)
 それが個としての力を鍛えてシャアを強くすることになったのだが、シャアの人生がそういう性格のせいで破たんしていった記録も、ガンダムと言うフィルムだ。
 踊るダメ人間の王国の王様であるシャアは世界を焼き尽くしても一番ダメな自分が残るのだ。



 で、無理やりGレコの話に戻すと、マスク大尉は差別されつつマニィの肉体を手に入れて、戦う。クリム・ニックは上流階級なのに戦士として戦うし背の高い彼女をゲットする。そしてベルリは。スコード教クンタラというフィクションで安逸している大衆って言う構造も、20年前の密会からGレコまで一貫した富野監督の思想、人間観なのかもな。

  • 余談

 機動戦士ガンダムTHE ORIGINは全話ガンダムエースから表紙ごと切り抜いて持っているくらい絵画としては評価している。でもアニメは見てない。機動戦士ガンダム サンダーボルトTwilight AXISも観てない。
 これは富野以外のガンダムを評価していないってわけじゃなくて、あの、ガンダムだからって他の新作アニメを見る時間や筋トレする時間や、こういうブログを書く時間を削ってまで、ガンダムだからと言うだけの理由で見ることはしない。それだけです。
 映画の「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」も見たかったけど、なんか映画館に行くと風邪を貰うので…。健康が欲しい…。

  • 余談 なんでこんなことに

 こういうブログを書いてしまうのも、結局僕もシャアみたいに自分しかいない人間だからなんですよ…。社会に居場所がない…。他人が嫌いだ。でも、シャアほどの力もなければアムロのようにだれかと愛し合うこともできない。
 でも、富野作品の素晴らしさは僕を大気圏外の太陽のように照らす。
 だから、こういう文章を書いて書いて、斬って斬って斬り死にするほかない。


 こないだ宇野とか言うのが富野監督に「宇野さんに言いたいのは、喧嘩売るだけでなく相手の目を見て話す。そうすれば革命じゃなくて世直し。テレビ局とも和解できるんじゃないのかな」って優しくしてもらってたじゃないですか…。
 僕は富野監督の講演会で「絶望してはいけない!」って言われた翌月に親が自殺してるからな…。かといって富野由悠季監督と言う他人の祖父に父性を感じる筋合いでもない。富野のアニメ程度で救われる段階はとっくに過ぎたのだ。
 母性のディストピアなんてあまっちょろいものじゃない。荒野しかないのだ。


 とか言いながら、今日は読者の方がから送っていただいたレトルトの牛玉子どんぶりに牛肉を50グラム増量して食べました。そのおかげでこの文章を書く気力がわきました。おいしゅうございました。
 でも本当はこんな短編小説の密会の読書感想文一万二千文字に5時間もかけてる場合じゃなくて、Gレコの評論をやらなきゃいけないしソシャゲもやりたいのになーっ!私の実力が足りない!クソッ!
 結局、自分の事しか考えてない…。


  • おしらせ

 そんな自分の事しか考えられない寂しいグダちんに、「世界にはほかにも人間がいる」「グダちんのことを気にかけている人もいる」と言ってくれる人はどうか…。


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著者へのプレゼントはこちら
nuryouguda.hatenablog.com
ガンプラや食べ物や書籍やオナホールを送ってグダちんを君好みに育成しよう!
 でもクズなので先月はお酒を10本送ってもらったけど、飲んだら恩も忘れちゃった!メンヘラは承認欲求のタンクに穴が開いているので、常に注目を浴びれるように文章を書いて、常にちやほやされ続けていないと「自分には価値がないので自殺しよう」って無意識の免疫機構が働いて普通に高熱を出して死にかけるからな。精神障碍者は常に自分で自分に生きてる価値があるって証明し続けごまかし続けないと自然死します。


twipla.jp
 こういう集まりにも参加します。でも、主催の人と僕しか参加者がいない…。やはり魂は孤独?


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