10月中旬。新しいモノ好きの技術者のインターネットコミュニティーでちょっとした「祭」が起きた。東京・秋葉原地区に老舗電子部品ショップを構える秋月電子通商が突然売り出したある米国製品が原因だった。価格は1個1万800円。入荷した在庫は「瞬間蒸発」で売り切れ、ネットは買い損ねた人たちの恨み節であふれた。
その製品の名は「モビディウス・ニューラル・コンピュート・スティック(NCS)」。大きなUSBメモリーのような外観の製品は、最先端の人工知能(AI)技術であるディープラーニング(深層学習)の演算処理を数倍から数十倍高速にする機能を持つ。
もともと家電機器など向けに開発された低消費電力のディープラーニング専用チップを搭載しており、5000円程度で売られている格安ボードパソコンの「ラズベリーパイ(ラズパイ)」でも、ディープラーニングに基づく高精度な解析処理が使えるようになる。
開発したのは米インテル傘下の米モビディウスだ。AI処理専用チップを手掛ける新興企業で、昨年インテルに買収された。米国で発売したのは今年7月だが、日本への出荷は「先月始まったばかり」(インテル広報)という。
「売り出しに気づいて買えて本当によかった」と話すのは、GMOインターネットの社長直轄の特命担当技術分析官を務める新里祐教氏だ。秋月電子の5日後に販売を始めたスイッチサイエンス(東京・新宿)で購入した。「発表の時から気になっていた。早く入手して実力を試してみたいと待っていた」という。
映像解析の新興企業フューチャースタンダード(東京・文京)の技術者である石田陽太氏は日本での発売を待ちきれず、先行販売された米国ハワイに出向いたほど。「列の先頭に並んで買ったので、世界で最初に手に入れたのはボク」と笑う。
ディープラーニングは大量のデータを使って人間の脳内の神経細胞間の結び付きを作るように学習させた「推論モデル」を使う。従来よりはるかに精度の高い画像解析や文字認識、言語処理などをできる特徴がある。
クラウドの進歩などにより、膨大な計算力が安価に使えるようになった結果、ここ数年で大幅に利用範囲が広がっている。流通分野では店頭の画像解析や画像を使ったネットサービスなどでの活用も期待が高まる。
やまだ・たけよし 東工大工卒、同大院修士課程修了。92年日経BP社に入社、「日経エレクトロニクス」など技術系専門誌の記者、日本経済新聞記者を経て16年から現職。京都府出身、50歳
とはいえ、推論モデルを実用的に利用するには、それなりの計算力を持つコンピューターが必要だ。「気軽には使えない」のがこれまではネックだった。
モビディウスNCSが画期的なのはこのジレンマを解消すること。フューチャースタンダードの石田氏は、「例えば安価でより精度の高い監視カメラ網を作ったりできそう」という。カメラ画像を自動解析して「そこにあってはマズいモノを見つけ出す」といった処理はディープラーニングの得意分野だ。安価で気軽に使えれば、例えば小売店の店頭などでも様々なトライができる。販促への応用などで、思いも寄らない用途が見つかる可能性も広がる。
かつてのディープラーニングの利用にはまず、膨大なデータと計算力を自分で用意して、精度の高い推論モデル作りから始める必要があった。だが今は、グーグルなど第一線の企業や研究者が開発した実績のある推論モデルが、無料で多数公開されている。画像判定や文字認識といった一般的な用途なら、わざわざ自分で推論モデルを用意する必要はなく、アリモノの推論モデルの組み合わせで実用的に使える。
モビディウスNCSのような安価なデバイスの登場は、ディープラーニングをさらに身近にするに違いない。売り場もネットサービスも、いつでもどこでもディープラーニング――。そんな世界はもう、すぐそこまで来ている。
[日経MJ2017年11月12日付]