「学び」と「遊び」の関係性について、ここ最近ずっと考えていたことが、昇華した話。

ELL75_yousyohondana20120620_TP_V.jpg

■ずっと引っかかっていた問い−「学び」とは?-

11月の某日、「あなたのやりたい『大人の教養大学』(社会人が歴史的名著にふれる対話型プログラム)は、ここ5年はもつかもしれないけれど、30年やるならモデルとして古くはないだろうか。もっと何も考えずに楽しめるものが流行っている」とアドバイスをいただいた。
確かにそう。例えば今、漫画を読みながら専門知識を知らぬうちに得たり、アプリやゲームを介して多彩な学問に触れたりと、「遊びながら学ぶ」機会が増えている。ビジネス書の半分は向こう5〜10年で、テキストベースではなく、漫画ベースになるだろうなんて説もある。

これは昨今、UI/UXの快適さが追求され、サービス利用上の動線が極めて大事になってきているのが一因だ。いわゆるデザイン思考-使用者のインサイトを見出し、いかにストレスなく問題を解決できるか-に基づいている。アプリケーション百花繚乱の戦国時代に、人様の可処分時間を奪うにはストレスNG。仮に少しでもストレスがあれば即座にリジェクトされる。この発想が、デジタル上だけでなく、現実にも染み込み、相互補完的に世界が成り立ってきている。

でも、果たして、それだけなのだろうか?


■本当に、やさしい「学び」でいいの?

硬いりんごを食べるよりも、すりおろしりんごにされた方が食べやすい。だが、多分そのうちに飽きるだろう。同様に、個人の好みに合わせて用意周到に環境を整備し、受動的にコンテンツを楽しんでもらうことがサービス設計の全てではない。

もちろん、大半の人はラクして情報を手に入れたいし、サイレントである。その背景にはすべてに精通する時間が不足しているのと、専門家ではないから語ってはいけないという心理的障壁がある。特に後者は根が深く、完璧な意見でなければ許されない、失敗することは恥ずかしいという、正誤があって中間がない発想からやってきている。また、語ってナルシスティックに見られたくないだとか、語ることで責任が生じるのは面倒くさい、誰かを敵に回すよりは語らないほうがいい…などと他者の目線が常に意識されている。とにかく本を読み、人と話すなんて高負荷である。私だって、ものすごく怖い。結構いろんなシーンで打ちのめされた経験があり、それは今でも現在進行形で起こっているからだ。

でも、それだけなのだろうか?

専門家だけが語り、その他の人は口をつぐんでいるか? 似たような階層の人たちとゆるゆる過ごすのみが気持ちよい暮らしなのか?
多分、否だ。誰かに与えられた予定調和から抜けて、予期せぬことに遭遇し、負荷がかかることを人は求めている。知りたいと思うし、あの人のようになりたいだとか、彼・彼女を越えたい、新しい世界へ踏み込み、世界をつくりたいと思う(※1)。

と、ここで、学びにも種類・段階があることに気づいた。これは同じ東京大学大学院情報学環教育部に通うアニメ研究者でフリーライターのいしじまえいわさんとの帰り道での会話から着想を得たものだ。(いしじまさん、ありがとうございます!)

あくまでエンタメとして遊び要素の高い学びと、意識的に自分を追い込んで現在の自分をより高次に変化させようとする学び。私がやりたいことは、後者寄りだ(※2)。


■「遊び」と「学び」の種類と段階

これをもっと探究しているのが、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガとフランスの思想家ロジェ・カイヨワである。「遊び」に関する研究者らだが、「学び」は「遊び」の延長線上にあるのだという言及がある。

少し彼らの主張をみてみると、『遊びと人間』のなかで、カイヨワは、遊びには4つの要素があるとしている。また、これらには人生に不可欠の資質がベースとなっているという。
遊びの種類

無論、すべての遊びをこの4要素に明確に分けることはできず、4要素のうちのいくつかが掛け合わされているものもある。

ホイジンガによれば、学問や政治はアゴン(競争)の進化したものだそうだが、ここは個人的には腑に落ちない。テストで高得点をとりたいとか、志望する学校の入試に受かりたいだとか、なるべく社会的に高い位置に身をおこうとするシーンではまさに「闘争本能」が根底にある。しかし、「ダンスをやってみたい」だとか「あの人のようになりたい」みたいな気持ちが働く場面もあり、ミミクリ(模倣)的要素も含んでいると考えるからだ。

したがって、次のようなことがいえそうである。

①「学び」には、その源流となる「遊び」的要素が強いものと、「遊び」が進化してより「専門」的になったものがあり、段階的に推移する。

②「学び」にも複合的な要素があり、取り組む動機もさまざま(内発的動機(知りたい、うまくなりたい…)、外発的動機(お金を稼ぎたい、ほめられたい…))である


学びの段階

※ジャンルによって「経済的結びつき」のレベル感は異なる(実学と虚学の違い)


■人と人を結び、一人の学びを深化させたい

ここ数週間、ずっと冒頭の問いにあった「遊びながらゆるゆる学ぶ」というエンタメ分野のコンテンツ消費的な学びにシフトすべきかと揺れてきた。なぜなら、ゆるい遊び的な学び方も私は好きだし、必要だと思うからだ。だから、その手法は頭の片隅に置き、適宜参考にしていきたいとも思っている。

しかし、反面、もっと深遠で心理的渇望に根ざした学びはいつの時代にも廃ることはないとも考えた。すべてが気軽で易しい学びに変わるわけではない。もっと善くありたいというのは人間の本質であり、絶えることのない根源的な欲望だ。

本を読むというそれなりの負荷・強制力があるから自身の「意欲」を高め、「身体性」を実感する。この身体性というのは結構大事で、ちょっと苦痛を強いられても何かにのめり込むときが一番得るものが大きい感じがしないか(※3)。

また、著者の思想に触れ、他者と対話するから社会に参加している「当事者性」「つながり」がもてて、自己という存在をメタ認知できる。それまで黙々と一人で進めてきた学びと、他者の学びが結びつき、止揚される。「教養大学」での学びを通して、人間の知性の奥深さや伸張性、多様性を感じとれるはずだ。

Aiが世の中の大半のルーティンな仕事を賄ってくれるし、知識なんて検索すればいくらでも出てくるから教養なんていらないかというと、そんなことはない。技術が向上していくからこそ、人間は多くの知識を元手に考え続け、対話しなくてはいけない時代に突入してきている。教養とは「過去・現在・未来の多くの人とつながり、ともに考えていく姿勢そのもの」なのだ。
教養人

アルゴリズムによって、自分に都合のよい話や、聞こえのよい話のみが選別され、友人関係も規定されていく。自分の思考にバイアス(偏り)がかかり、どんどん孤立化していくことに気づけない(フィルターバブル)。情報過多だと、キュレーションが求められるし、ある程度のクラスタ化は致し方ない。カオスのなかで人は生きられず、法や慣習などが存在するように、一定の枠組みがないと、すべてを疑う必要が出てきて不安で前に進めないからだ。でも、自分の専門領域だけ磨いていればいいんだっけ?

同様に、不安定な国際情勢から多くの人が拠り所を求め、独裁政権を是としたり、原理主義に走ったりする傾向がみられる。この排外主義的な流れに私たちも乗るんだっけ?

「不安煽りビジネス」だとか、「知性主義」だとか、「別になくてもいいもの」だとか、否定的な意見もいただく。「ハードルが高い」ともいわれる。そして、私自身もまだ改善すべき点・やるべきことがたくさんあることは認識している。

しかし、根幹は間違っていないと思っている。成果が目に見えず、お金にもならず、長期的に捉えなくてはいけないから、興味を示さない人も多い。教養は一朝一夕では身につかない。いくらでも知るべきことはあるから終わりはない。けれど、だからといって逃げ続けていればいいんだろうか。かつての私は逃げていた。でも、それはゆっくりと退化していることと同義。不十分だからこそ、やり続けなくてはいけない。

まずは、私の話に耳を傾け、共感してくれている方々を大事にし、一歩でも先へ進みたい。サスティナブルに継続するための経済的側面を意識しつつ、文化・芸術分野にも寄与しつつ、社会的な課題を解決できる「考え続ける人たち」を一人でも多くつくり、つなげたい。
mezasubasyo.png

次回は、12月23日(土)。
テーマは「幸福論。そして、君たちはどう生きるか」

イベントページ
FACEBOOKページ

たくさんの方のご参加をお待ちしております!

次回予告


※1 そのモチベーションの多寡は、個人が置かれている環境や、そもそもの個体の特性によってまちまちだ。
※2 ただし、ハードルが高くてフィルタリングがきつくなり、多様性が奪われすぎるのを避けるために、オーディエンス参加席の設置や、古典の解説本を扱うなど、試行錯誤を繰り返している。
※3 原理主義的な宗教のように思われる方がいるかもしれないが、そういうことではない。多くの人は部活や勉強、仕事を介してそういう経験をしたことがあると思う。







スポンサーサイト

Comment

Leave a Reply


管理者にだけ表示を許可する