2017年12月07日

ヘーゲルの「否定性」

カルチャーセンターでヘーゲルについて語る機会があった。ヘーゲルについて1時間で話すというのも無謀な話だが、長々と時間をかけたからといって、わかりにくい話が分かりやすくなるものでもない。問題は、ヘーゲルを誇大な物語としてではなく、今でも十分に活用可能な生きた思考装置として見直すことがいかにして可能かということである。以下、「否定性」ということに焦点を合わせながら、ヘーゲルに通常浴びせられる批判に対して、ヘーゲルが擁護できる合理性を、いくらかなりとも持つかどうかを検討してみることにしよう。
【ライプニッツの「調和」】
ライプニッツは、部分の不調和が全体の調和によって埋め合わされると考えた。

部分における無秩序は、全体における秩序である。(ライプニッツ『弁神論』�・128)

部分においていかに不条理に見える所があろうとも、それは全体を創造した神の目から見れば、結局は全体の調和を実現するための不可欠の部分として合理化されるに違いない。悪といふものも、全体の善を高めるための役割を演じるにすぎず、それ自体において悪であるものなど存在しないことが分かるはずなのである。

しかしこのような主張は、同様にもっともらしい反定立とともにアンチノミーを形成するだろう。なぜなら、部分においてこそ合理性は存在するものの、それらをすべて包み込む全体の秩序に、合理性が存在するはずであるとは言えないからである。そうすれば、反定立は、部分において合理性があるからと言って全体には合理性が存在しない、また部分において調和が存在するとしても、全体は偶然に任されるといったものである。実際ルカーチは、『歴史と階級意識』の有名な一節で、「部分の合理性と全体の非合理性の相互関係は、資本主義的合理化の前提」としている。

これは、個々人の人生を考えてみた場合、はるかにもっともらしい。テミストクレスは、ペルシアと戦ってサラミスの海戦で勝利した英雄であったが、陶片追放でアテナイを追われてからは、ペルシア王に仕えたと言われる。アテナイのためにとられた合理的行動と、その後ペルシアのためにとられた合理的行動とを統合する一貫した合理性は存在しない。

人生に何か一貫した意味を見出そうとするのは、エルの神話によって死後の視点から全人生の価値を計る視点を得たと空想し得たプラトンと、その世俗版のキリスト教を待って初めて歴史上に登場した見方にすぎない。しかも、それらはいずれもその意味を世界の外に(死後の救済に)置いた。

個々の経験の不合理性を超えて、合理性や調和を実現するためには、おそらく世界の全体とか歴史の全体を考えてみなければならないのであろう。その場合でも、いずれの定立も同程度のもっともらしさを持つ。そしてカントならば、そのような全体を見通す神の視点を、理性の越権行為として否定し、このアンチノミーに決着をつける必要はないと見なすだろう。

ただ、歴史学の課題を追求するにあたっては、あたかも全体に究極的な合理性や目的があるかのように見なすことが有益である。つまり、この全体的合理性は、実際に認識されるのではなく、認識の統制原理として、要請されるのである。理由律は、物自体の中に、無限の原因系列が実在することを保証するものではなく、探究の統制原理にすぎないのだ。

ちなみにヘーゲルは、悟性の突き当たるアンチノミーは、カントが見出した四つに限定されるものではないと主張している。

アンチノミーは、宇宙から取られた四つの特殊な対象のうちに見出されるだけでなく、むしろあらゆる種類のあらゆる対象の内に、あらゆる表象、概念、理念の内に見出される。(『小論理学』48節)

さて、ライプニッツの見方は、キリスト教の見方とは重要な点で違っている。ライプニッツにおいては、部分の不調和は、それ自体においては存在すらしない。それは我々有限な見方に映じる仮象にすぎないのである。神の知性に下では、それらは完全な調和を為すのであるから、部分における不条理には、それ自体の力があるわけではなく、調和は神によってすでに達成されているのであり、我々の力にかかっているのではない。これは審美的な鑑賞の立場と言えよう。世界は、我々が関わって悪戦苦闘すべきものではなく、静かにその美を愛でるべきものと見なされるのである。

キリスト教は、部分における不合理性(否定性)それ自体が、調和を実現するために不可欠な契機を為すと見なした。イエスの磔刑がその最たるものだが、ヨゼフのエジプト下りとか、ペテロの否認とか、そのような例は至る所に見い出せよう。したがって、有限な存在である我々自身の有限な洞察に基づく情熱が、全体の調和を実現するために必要なのである。

ヘーゲルは、このような否定性の持つ力を強調したという意味で、キリスト教の伝統の上にある。ヘーゲルは『精神現象学 序論』の有名な下りで、否定的なものへの滞留について次のように述べている。

精神の威力は、否定的なものに面と向かってそれを直視し、そのもとに身を置くという、まさにこのことに存する。(『精神現象学序論』p-30)

否定性という観念は、概念的なもの論理的なもの規範的なものでなければならない。なぜなら、自然の中には、おそらくはいかなる否定性も存在しないからである。否定性が見いだされるのは我々人間の思考においてのみであり、おそらくは言語的な思考においてのみである。感覚や情念にはもともと否定性は存在しない。空腹でさえ、十分に生命の発露の一側面であり、それ自体で否定的なものではない。

だが、ヘーゲルにおいては、概念的表現が、至る所でアンチノミー(二律背反)という八方ふさがりに到達するのであり、その否定的な関係を克服して事態を打開することが、規範的に要請されるのである。

しかし他方、ヘーゲルが否定性と呼ぶものは、狭義の論理的操作に限定されるわけではないということも重要である。この点がヘーゲルを論じる点で悩ましいところである。我々は一方で、否定性が介在する概念的思考において、否定性を純形式的な命題関数(文操作子)と見なしたいと思うけれども、実際ヘーゲルが否定性を扱うところを見れば、具体的内容に立ち入った複雑な文脈的諸連関がそこに巻き込まれており、ヘーゲルが論理的思考に特有な形式性を無視しているように思われるからである。

【ヘーゲルの「自己意識」】
たとえば、自己意識の有名な箇所を見てみよう。そこで、自己意識は互いに死闘を演じるとされているが、それこそが自己意識が自らの絶対的本質を自覚するには不可欠とされるものである。そのさい、意識は自分自身の肯定的な本質を、内観などを通じて反省するだけでは、決して真の洞察に至ることはない。むしろ、互いに死闘を演じるという否定的な経験を媒介にして、初めて自己の絶対的本質を洞察できるのである。この叙述には、それ自体説得力があるとしても、ここで「否定性」と言われていることは、決して論理的な否定操作ではない。死という何やら具体的な意識の経験が問題になっているのである。

我々は、どんな些末なことで争う場合にも、例えば有限の利害だけが問われている時にも、単にその有限な価値をめぐる争いに終わることはない。というのは、その有限の価値を獲得した者としない者との間には、勝敗という余剰の価値(一種の威信)が付きまとうからである。勝利とは勝利を承認させることであり、敗北とはその余剰の価値の為に己れを賭けることができなかった敗者という烙印(承認の欠如)を負うことである。勝者の承認はさらなる勝利を呼び、敗者の烙印はさらなる敗北につながる。かくて、勝利の余剰が初めはいかに些細なものであったとしても、結局は死を覚悟する者としない者という絶対的な違いに帰結する他はない。

たとえば、融和主義を取っていた大戦間時代の英仏は、それよりずっと少ない軍備しか持っていなかったヒトラーのドイツに、繰り返し譲歩を余儀なくされた。どんな軍備を備えていようと、存在を賭ける覚悟がなければ、その覚悟がある相手に譲歩を重ねざるを得ない。そして結局は奴隷に甘んじざるを得ないのである。

このようなことは、他の動物の争いには存在しない。彼らが争うのは、どちらが強いかがはっきりしない場合であり、それが明らかになればもはや意地を張って争うことはない。それゆえ、ヒトラードイツのようにブラフによって勝利を勝ち得ることもない。

人間(自己意識)の死闘は、相手が猛獣の場合とは全く違った論理に基づいている。相手が猛獣の場合、我々は相手にかなわないと思っても、降伏するという道はない。ライオン相手に降伏しても、その危険がなくなりはしない。人間同士の死闘においてのみ、降伏によって命を助けてもらう道が存在する。それは、ここでは危険とか強さではなく、承認をめぐる争いのみが問題であり、承認されることを放棄し屈辱の敗北を受け入れさえすれば、命だけは助けられることが、互いにわかっているからである。かくて、相手の危険・強さより、自分がどの程度、死を受け入れる覚悟を持っているかこそが、決定的な問題となるのである。

この「死を受け入れる」ということは、計算的理性にとっては決して理解できないことであろう。すべての価値を評価する基本となる自己の命を失ってしまえば、いかなるバーゲンも成り立たないということこそは、パスカルの賭けの議論が示したことではなかったか? しかし逆説的なことには、このような理性的判断に基づけば、あらゆるブラフに屈服せざるを得ず、結局、奴隷の生以外の余地はない。

それ故、いかなるささやかな自由のためでも、利益のためでも、名誉のためでも、最終的には死を覚悟することが潜在的に求められるということになる。いかなる些細な脅威と対決するためにも、いざとなったら何をしでかすかわからないといったところが必要である。しかも、どの程度までは我慢するけれど、そこを超えたら怒りを爆発するという基準と理由を明確にすることができない、ということになる。

このことの含意は、自由にとっては理性だけではなく不合理性も必要だということを示しているのかもしれない。神の掟がすべてであれば、それに従ったり背いたりするごとに、それなりに合理的な帰結を持つことができたであろう。もしそうなら、それは自然の秩序と同じで、自由も罪も、怒りも不条理も存在しなかったであろう。このように自然がすっかり合理性で満たされ、エデンの園のような調和が支配する世界は、進化論が描き出す自然界であり、理由律が支配するライプニッツの世界に近いものである。

しかし、自然の秩序とは別に自由の秩序が存在するのである。神の掟に背いても、必ず罰せられるわけではなく、ながく悪人がはびこることもある。だからこそ、突然、神の怒りが降り注ぎもするのだ。それが今であるのか、さらに先であるのか、その理由は伏せられたままである。いや、おそらく伏せられているのではなく、その理由は我々が見つけなければならないもの、いや創造せねばならないものなのであろう。こうして自由の余地が生まれるのだ。

さて、死闘において、突然、自分でも理由がわからない衝動が己れの内に目覚め、計算的理性を超えて、あえて死へと歩み出す自分を見出す。それは不合理であるがゆえに、理性の彼方に出現する。死闘のさなかに見いだされる自己意識とは、そのようなものである。それは有限の理由の地平で動くいかなる計算的理性をも超えた絶対的次元を啓示する。それこそが私を、有限の理由づけを超えて、あえて死を賭けた自己主張(承認の欲望)へとうながすのだ。ここでは一瞬一瞬「生きるべきか死ぬべきか」(一種のアンチノミー)が問われている。

その結果どうなるか? 一方の自己意識が他方を承認し、敗北を受け入れる。勝者と敗者が弁別される。一方は死を受け入れる覚悟をもって、その絶対性を主張しづけた者、他方は、それを承認し自己の敗北を受け入れて、その結果命だけは許されるという屈辱にまみれた者。前者が主人となり、後者が奴隷となる。

しかし注意して見れば、絶対的な自由(承認の欲望)という観念に到達するのは、勝者ではなく敗者であることが分かる。なぜなら、勝者は確かに敗者が降伏を受け入れるまで、自分の主張を曲げなかったとはいえ、それはたまたまかもしれない。いまだ死の恐怖を十分に感じないうちに、相手がかってに降伏しただけではないのか? そうだとすれば、勝者が自らの絶対性に気づく前に、相手がかってに敗北してしまったことになる。その場合、勝者が絶対的自由の片鱗にでも気づくことはなかったはずである。

そうすると、自己意識の絶対的自由の観念に到達するのは、勝者ではなく、敗者の方であったことになろう。敗北する者こそ、自己の死を明確に意識したのであり、それゆえに降伏を受け入れたのであるから、彼にとってこそ、敗北を受け入れようとしなかった勝者の意識が、絶対的自由を体現していたはずだと想像されるのである。この想像は、実態とは食い違っているだろう。勝者はたまたま死を意識することが敗者より鈍かっただけかもしれない。かくて、敗者にとってのみ、勝者の想像的な姿として、絶対的自由の理念が現れるのである。言い換えれば、それは敗者の意識による想像でしかない。敗者は、己れがなし得なかった承認欲求の追求を、勝者こそがなし得たものと想像するのだ。勝者にとっては、己れの勝利が、死を覚悟するところからなしとげられたものなのか、それとも死を覚悟する前に、敵方がやすやすと屈服したがために、たまたま獲得されたものか、あいまいさが残る。しかし、敗者の意識にはこのような曖昧性が存在しない。

この自己意識の下りは、他の場所のヘーゲルを理解するさいにも、手掛かりとなるものを多く含んでいる。まず、理性の歩みが直線的に進まず、自らの否定と直面して、一つのデッドロックに突き当たること。計算的理性が、自らの利益の最大化を目指すとき、結局は生命以外のすべてを奪われる隷従に至らざるを得ないこと、生か死かの二律背反(生を選べば生命以外を失い、死を選べば、全て――とりわけ価値計算可能性そのもの――を失うというデッドロック)に立ち至ること。そのデッドロックは、否定的なものへの滞留を介してしか、乗り越えることができないこと。つまり、あくまでも計算的理性に従い、生に固執することによっては打開できないのに対して、死の可能性を覚悟することによってはじめて、自由の可能性が開かれることである。

しかし、この絶対的自由(あらゆる有限な欲望から独立して、絶対的なものに向かうという意味で絶対的)の観念が生まれるのは、勝者の中ではなく、敗者が敗北の意味をかみしめるときである。その意味では、ここでも真に新たなる一歩は、勝利の直接性を享受する勝者においてではなく、敗北という否定性への滞留を介して出現するのである。

【イヴァンカ補佐官の「貢献」とミス・コンテスト】
「女性の社会参加」という理念のために、イヴァンカが嫣然とほほ笑むだけで、日本政府から57億円の寄付を稼ぎ出したというように見える。これがイヴァンカの「貢献」であり、イヴァンカ自身、女性の社会参加のモデルを示したことになる。

しかしうがった見方をすれば、(より広い文脈で見れば)イヴァンカの「貢献」は、トランプ大統領の権力に依存したものであり、しかもそれは性差別的権力である。すると、一見イヴァンカの貢献と見えるものは、むしろ性差別を助長するものであり、反対物に転化しているわけだ。この二つはアンチノミーを形成する。

このような事情は、ミス・コンテストをめぐる問題を考えればわかりやすい。ミス・コンテストの優勝者は、自らの能力によって社会参加の道を切り開いているとも見えるが、ミス・コンテストが依拠する女性の美醜という概念それ自体が性差別を助長するようにも考えられる。なぜなら、一見対象の直接的な性質のように見える「女性の美醜」の概念自体が、男性の視線によって設定されたものである嫌疑がぬぐえないからである。コンテストでは、女性たちの主体性が評価されるわけではなく、もっぱら男性の視点から受動的に被る資質の評価に焦点化されており、そのような弁別規準こそが性差別的に機能しているのである。

このような規準は、老―若の規準や未婚―既婚、奥様(しろうと)―娼婦(くろうと)の規準などと同様、女性を弁別するのみならず、女性個々人をも内面的に分裂させてしまう。かくて、女性はかかる概念的区別において、しばしば女性として自らを肯定的に評価すると同時に、否定的に評価するというアンチノミーに陥ることになる。そのため、性差別に対する闘いは、必然的に様々な局面でさまざまのアンチノミーに陥らざるを得ない。

【フェミニズムのアンチノミー】 
例えば、法的な平等を求めて女性としての特殊性を否定する普遍主義と、女性の特殊な本質を肯定する立場とのアンチノミーなど。

一般的正義の主張の下では、女性は不利になる傾向がある。出産、育児という仕事がキャリアにとってはハンディキャップとなり、労働力としての競争では不利を強いられる。一般的正義と言いながら、社会的評価や威信という尺度が、あらかじめ性差別的に割り振られている。たとえば、シャドウ・ワーク(家事労働)は賃労働に比べて社会的に低く評価される。あるいは、戦闘行為は「銃後の守り」よりは高い威信を持つ。女たちもそれらの分野に進出して威信を得ようとするが、その点ではもともとハンディ・キャップを負っている。

もちろんそれらの分野でも男以上に有能な人もいるが、それは女性性の抑圧をもたらすか、女性たちの分断をもたらす。それは黒人差別の現実における「名誉白人」のような存在になる。これは女性自身の内面にも分裂をもたらす。女性性を抑圧して「名誉男性」の地位を得るため、女性としての自己実現を阻まれる。つまり、女性の自己実現の試みが、その反対物へ転化するのである。

これに対して、女性の本質に依拠してそれを肯定的に自己主張しようとするのが、いわゆる本質主義である。しかし、本質主義が女性の本質をいかに定義しようとも、それが女性たちを分断することになるのは避けがたい。たとえば出産を本質の一つとすれば、出産した女性としなかった女性を差別することになるし、子育てや家事を本質に数えるなら、主婦と勤労婦人を差別することになる。これらは、男性の場合必要とされないことを考えれば、本質の定義を余儀なくされていることですでに、性差別に巻き込まれていることは明らかである。

これは、女性の本質定義を与える際、対象としての性質規定、したがって暗黙に男の視線の下で対象化された「本質」になってしまっているからである。もし女性の主体的な規定であれば、個々人によって違ったものになったであろう。それは、「男性の本質」を定義しようとすれば、たちまちその不条理性が明らかになることからもわかるはずだ。

これらの二律背反に追い込まれるのは、きまって直接性の立場ではなく、否定性への滞留においてなのである。

これらの概念の直接性にとどまる限りは、それは決して流動化しない。「美人」の立場から出発すると、それが肯定的なものかそれとも否定的なものなのか、判断がつかない。ミス・コンテストに優勝して社会参加のチャンスをつかむことに、何の疑問も持たない。魅力や美が単純な能力と見られる限り、自己実現として肯定される。しかし、それに落伍したり、それによって差別される立場からは、その概念の直接性が、欺瞞的でまやかしに満ちたものであることが気付かれるだろう。その場合、それらの概念の置かれたより広い文脈が知られる、ないしは反省される。

人種という概念も、被差別部落の概念も、それ自体だけで見れば、対象を区別するだけのように見える。しかし、その区別が差別の文脈を持つことが知られると、その区別がもっぱら差別という機能からその実際の意味と機能とを受け取っていることに気づくだろう。

そうなると、この区別はただ対象を弁別するのにとどまらず、対象に働きかける権力装置の部分となる。その限りでこの概念は差別的主体を構成しもする。

当初の理念(例えば「女性の社会参加」という理念)は、ミス・コンテストの概念と美醜の区別という概念を介して、その反対物に転化する。これは、これらが概念化しているからこそ運動するのである。

【否定性の論理】
以上みてきたように、直接性に固執する肯定的(実定的)立場に対して、否定的なものへの滞留は、次のステップへの移行を(強制しないが)要請するという意味で、ある積極的な役割を果たしている。

ヘーゲルの否定性は、このように力動的な展開を規範的に要請する点で、彼はこれを論理的展開と見ている。しかし、ヘーゲルが何やら重要なことを語っているにしても、それを「否定性」とか「矛盾」というような論理的な概念で語ることは、ミスリーディングではなかろうか? ここではヘーゲルは、過度に具体的であると思われるのである。

通常、論理学では、概念の内容には触れず(任意の内容を受け入れられるように、代数記号のように記号化される)、ただその推論の形式的妥当性のみに注目される。しかる上で、否定はいわゆる真理関数の一つとして、真偽を反転させるだけの文操作子として扱われる。

当然、それらの論理的操作を通じて、概念の意味は一貫して不変のものとされる。したがってまた、言語によって表現される事態の運動と、それを記述する言語の論理的展開とは、明確に区別される。前者は、せいぜい自然の因果的必然関係があるにすぎないが、後者は言語規則に基づくアプリオリな規範的関係がある。

これに対して、ヘーゲルの関心は、概念自体の運動・変容にある。たとえば、自己意識のドラマの前後では自由(欲望が求める対象)の意味が変容してしまう。当初、有限の対象や利益を求めていた欲望や、それらを選択する自由は、今や絶対的自由をはらんだものとなっている。

また、否定は、ただ言語とその規則の問題となっているわけではない。ここで否定は、とりあえずは互いに否定し合う反対命題というアンチノミーという形を取って対立し合ってはいるが、それぞれの定立は、対等に対立しているわけではなく、直接性と、否定性を媒介にしたものの対立なのである。たとえば、自己意識で対立するアンチノミーは、一方では生命の直接性に固執する定立と、他方では死を覚悟する反定立であるが、後者のみが、死という否定的なものを媒介にして、己れの勝利を勝ち得る。ここで、生と死とは、たしかに論理的に否定的関係に立つが、死を媒介にして勝利を勝ちうることにおいては、単なる論理的否定が問題ではない。死というのもは、生物や意識という具体的現実を踏まえた「否定性」なのであり、決して単なる真理関数的操作に還元できるものではないからである。

「女性の社会参加」の理念の下で、ミス・コンテストは、一方では直接性において肯定的であり(定立)、他方ではより広い文脈では否定的(反定立)という限りでは、一応論理的関係に立つ。しかしここでも、反定立がミス・コンテストに否定的評価を下すのは、そこに美醜の区別が導入され、それが事実上社会の中では性差別的役割を果たすことを摘発することによってである。ここに単なる否定操作を超えて、複雑な社会制度がかかわっていることは明らかである。つまり、ミス・コンテストが元の「女性の社会参加」の理念をその反対物に転化するのは、単なる論理的操作ではなく、現実の具体的制度としてなのである。

具体的な社会制度が歴史的に変移することは、経験的事実であるとしても、それを、否定とか反対物への転化といった論理的操作のように語ることは、適切であろうか? ヘーゲルはここで、具体的事物の運動に論理的仮面をかぶせているに過ぎないのではないか? しかし原因による因果性と理由に基づく規範性を混同することは許されないのではないか? ヘーゲルはここでは、過度に抽象的であるように見えるのである。

ミス・コンテストが、意味においてアンチノミーや反対物への転化というドラマを演じるのは、あくまでもそれが「女性の社会参加」という概念の下で捉えられるからである。そんな捉え方をしなければ、アンチノミーは避けられたのではないか? ありのまま物事を捉えるなら、否定的なものを除去することができ、それゆえアンチノミーも避けられるのではないか? これ自体、言語に対する直接性の立場であると言えるだろう。否定的なものを媒介することなく、あらゆるものを記述できるはずだ、ということ。

しかし、ミス・コンテストをありのままに記述するということは、どのようなことであろうか? そこに、「美醜」や「未婚」の概念が欠けていることはあり得ないだろう。未婚の女性をその美醜によって選別するコンテストというものが、どういう理念や目的で設定されている制度かを問うなら、「選別された人を通じて、女性の社会参加を促進ないしそのモデルを呈示すること」などの建前が、とりあえず浮かび上がってくるだろう。まさか、「陳列された女性を男性観客が鑑賞するため」などという目的を掲げるわけにはいかないからである。建前の理念が本当であれまやかしであれ、それが概念的に表明されることが重要である。それによって、その制度について規範的に議論することが可能になるからである。アンチノミーが形成されるのは、このように制度的な現実に対して規範的議論が生起する場合である。

それゆえ、ヘーゲルの否定性は、制度をめぐる広義の法的論議において働く論理であると考えると分かりやすい。法規範においては、あらたな判例などを通じて元の規範の概念(例えば人権の概念)が事実上変容していく。「健康で文化的な生活をする権利」の中に日照権のようなものが加わるようなものである。このような変容は、建築技術の進歩などといった社会的現実と無関係に起こるものではない。したがって、ここで言語とその規範の変化と、それによって表現される現実の変化を、ただ峻別することはできないのである。なぜなら、制度をめぐる議論において、現実をいかなる概念で記述すべきか自体が、論争の的にならざるを得ないからである。

新たな事態、新たな係争ごとに、新たな概念が生成する。それらは、事後的に広義の法を変容し、新たに秩序を打ち立ててゆくのである。

【ヴィトゲンシュタインの概念変容論】
ヘーゲルが考える概念の運動は、証明によって数学的概念が変容するというヴィトゲンシュタインの概念変容論とどう違っているだろうか?

たとえば、「東へ1キロ行った後、北へ1キロ行った場所」と「北へ1キロ行ったあと、東へ1キロ行った場所」とが同一の場所である、という定理を考えてみよう。(これは、1+2と2+1が同一であるという算術の定理といくらか似ている)

「東」や「北」「一キロ」などの概念がどのように適切に定義されているにせよ、「東へ1キロのあと、北へ1キロ」と「北へ1キロのあ、と東へ1キロ」とが実際に常に経験的に一致することは保証しないだろう。もし不一致の場合、この経験をどう解釈すべきか?「時々違う場所になる」とすべきか? 「定理」の証明された後では、「本来は同一の場所になるはずではあったのだが、いずれかの過程で何らかの誤差があった――例えば方角のずれか、距離のはかり方の誤差――と見られる」と解釈される。つまり、一見すると「東へ1キロのあと、北へ1キロ」などの操作が同じ意味を持つように見えるにもかかわらず、実際には証明は、以後の言動などに違いをもたらすという意味において、異なる意味に変容しているのである。(平面上と球面上とでは、「距離」や「方角」の定義に違いが生じるが、その点は無視しても考慮してもよい)

このような見方は、数概念の拡張と比較すると理解しやすい。2-5のような引き算は、負数を認めない限り計算不可能と見なされる。負数を導入することによって、我々は引き算の意味を変えたと言わねばならない。これは極端に言えば、サッカーからラグビーへの変化のようなものだと見るなら、数学実践は絶えずゲームの規則を変容していくゲームだと言えよう。

ヴィトゲンシュタインもヘーゲルも問題解決を通じて使用される概念が変容するという点では似ているが、前者においては、否定的なものの媒介が欠けている。むしろ、そこでは何か肯定的なもの(例えば概念の新しい結びつき)が発見される。当初の状況が何か否定的なものと捉え返されるのは、結果から省みて欠如と見なされるからにすぎない。欠如そのものが新しいものを生み出す力を発揮するわけではない。

ヘーゲルの否定性は、これに対して、否定性そのものが、次の段階を生み出す力を持つのである。とはいえ、それは決して必然的にというわけではない。否定的なまま袋小路にとどまり続けることも、当然あり得るからである。

ヘーゲルは、この点で、数学的認識に不満を述べている。

最初の命題がそれみずから運動して他の命題へと進んでゆき、そのような仕方で、事柄そのものの本性により必然的連関が生ずるということは、そこ〔数学的認識〕にはない。(『精神現象学』序論

ヘーゲルによると、数学的定理の証明は、例えば補助線を引くとき、それが適切な補助線であるということは、証明の結果からのみ知られ、初めは恣意的に引かれたように見える。その一歩が、結果的にどのように定理の証明に至るかの見通しがないまま進まざるを得ず、それが必要な過程であったことは、最後に知られるにすぎない。これは、証明において概念の新しい形成が現れるとしても、それは先行する段階にとって、渇望され、必須のものと要求されるものとして現れるわけではないことを示している。つまり、先行する段階が持つ否定性が果たす役割がないのである。それをヘーゲルは、必然性が欠けていると表現するが、それはややミスリーディングである。

重要なことは、概念の運動が必然的に進むことではない。むしろそれは、アンチノミーの袋小路に陥ったまま、打開されない可能性が常にあるという意味では、決して必然的進行ではない。数学の場合も、例えば負の数の存在を認めるという計算概念の拡張におけるように、必然性があるわけではない。そのような概念変容は、数学の可能性を飛躍的に広げ、数学的世界を豊かにするという意味で、結果的に見れば合理的で好ましい移行であろうが、決して強制されるわけではない。お望みなら、ただ狭い世界にとどまっていていいのである。

それに対して、ヘーゲルの場合は、アンチノミーのうちにとどまることはできない。それは不合理な袋小路を示しているからであり、その状態そのものが何らかの解決を求めているからである。このようなアンチノミーという否定性が、次のステップに移行するための力動性を持つのは、そのためである。だからと言って、うまい解決があるとは限らないし、一つの解決しかないと決まったわけでもないのである(問題解決の反実在論)。その意味では移行は、必要とされてはいるが、必然的ではない。

【映画「ジャスティス」に見る二律背反】
ヘーゲルにおける否定性を理解するのに、法的係争事例を参照することが簡便であることを示すために、以前に論じたことがある『ジャスティス』を例にとってみよう。

2002年封切りグレゴリー・ホブリット監督のアメリカ映画で、原題はHart’s Warである。第二次大戦のヨーロッパ戦線で、ドイツ軍の捕虜収容所が舞台。そこにコリン・ファレル扮するハート中尉が連れてこられる。捕虜たちの指導者はブルース・ウィリス扮するマクナマラ大佐。収容所で米軍軍曹の殺人事件が起こり、黒人の捕虜スコット少尉に疑いがかけられる。それをアメリカ人自身の裁判で裁くことを、マクナマラ大佐は収容所長に要求して認められる。かつてイェール大学に留学した経験がある所長が、「アメリカの正義」が人種差別の試練に持ちこたえられるかを見てやろうとして、特別の許可を出したものである。

かくて、収容所内での裁判という舞台が整う。法学士であるハート中尉が弁護士に選ばれ事件を詳細に調べていくうちに、スコットが無実であることが次第に明らかになってくる。結局、被害者の軍曹は、自身がドイツのスパイであり、それを知ったマクナマラ大佐の命令で殺害されたものであることが分かる。それは、マクナマラが大規模な脱走計画を進めており、それに気づいた軍曹のタレこみを防ぐために殺したものである。つまり、裁判自体がこの脱走計画を隠蔽するために巧みに仕組まれたものにすぎなかったわけである。しかしハートは、どのような大義のためであれ、ひとりの黒人兵の人権を蹂躙することはできないと決意を固め、米軍の勝利を最優先に考えるマクナマラ大佐のマキャヴェリズムと対決する。

マクナマラ大佐の立場は、米国の勝利のためにすべてを犠牲にするということである。ナチズムの勝利は、人権そのものの破壊につながるだろう。人権という価値を守るためにも、米国の勝利が絶対必要なのである。しかし、それはまた黒人兵スコットの人権を蹂躙することになり、かくて米国の憲法的価値そのものを自ら裏切ることになる。ハート中尉は、このように憲法的価値に固執し大佐のマキャヴェリズムを否定するのである。しかし、彼もその立場に固執し米軍の敗北を招くとしたら、人権を守ることにもならないことを認めざるを得ないだろう。ここに、アンチノミーが形成される。互いに自らの立場に固執することによって、反対物に転化せざるを得ない。人権と国防という価値の間に、解決困難なアンチノミーが存在するということは、法的な係争という形で浮き彫りになるのである。

映画では、スコットは弁護人ハート中尉の調査から見えてきたことを聞いて、自ら無実の罪を引き受けてマクナマラの脱走計画を成功させようと行動する。それも見たハート中尉は、最終弁論で犯人は自分だと叫んで、スコットの人権を守ると同時に、マクナマラの計画を成就させようとする。その混乱に乗じて囚人数十名が脱走に成功するからである。

もともとスコットの立場は複雑である。空軍パイロットとして黒人にもかかわらず将校に昇進している。これが白人の兵士たちには我慢がならない点である。スコット少尉は、米軍のエリートとして軍の中心的価値の内部に存在しているが、他方で、人種主義的偏見のため、その地位は白人将兵たちから嫌疑の的になっている。スコットはその意味で、米国社会の内側にいると同時に外側にはじかれてもいるのだ。

彼が、単に殺人犯としての嫌疑を晴らそうとしていた段階では見せなかった自己犠牲を、最後に見せようとするのは、米軍の勝利のための自己犠牲を引き受けることによって、はじめてその愛国的価値理念を贖うことができる、と感じるからである。つまり、これまでは白人から米国社会内部への承認を得ようとして奮闘するだけで、その努力自体が、他人の評価に依存するという意味で受動的なものであらざるを得なかったのであるが、今やその犠牲的行動によって、自分の全存在こそが、米軍とその価値理念を支えることができることを自覚するからである。

彼がこの価値を自らの存在で支えようとするとき、はじめてこの価値の能動的主体へと変容するのだ。そのとき米国の公民権は彼の偶然的属性の一つではなく、彼の主体的自己表現となる。こうして自分の命で贖うことによって、祖国の価値と同一化することができるのである。これは、欧州戦線で活躍した米国日系人部隊「第百大隊」「第442連隊」の英雄的奮戦にも働いている論理である。差別を乗り越えるためには、「名誉白人」として認めてもらうだけでは十分ではない。それはあくまで、他者からの評価に依存しているという点で、受動的な属性にとどまるからである。第百大隊の日系人たちは、死を賭けて祖国の大義を支えることによって、はじめてアメリカの真の臣民(subject)になったのである。

ハート中尉が自己犠牲に起ち上がるのは、スコットの自己犠牲を目の前に目撃したからであり、そこに自分が目指すべきモデル(欲望の模倣対象)を見出したからである(ちなみに、ヘーゲルにおいては欲望の意味自体が概念的・言語的に構造化されており、それによって概念の運動に巻き込まれている点に注意)。なぜなら、ハートにとって法学は、それまで彼の偶然的属性の一つでしかなかったし、せいぜい出世のための手段といったものでしかなかったのだが、今や彼自身の存在を対価として差し出して初めて守り得る絶対的価値となるのであり、彼の絶対的自由の自己表現に転化するからである(概念変容)。

そして、ハートとマクナマラが初めて真に理解し合うのは、この瞬間なのだ。ハートは、職業軍人たちが死を賭けて行動しているその対象(祖国)に、その内容(憲法と正義)を与えるのだが、それは軍人の行動形式(職業倫理に命を懸けること)を引き受けることによってである。

軍人の行動形式――死を賭ける職業倫理――は、しばしば硬直して、その本来の内容(法と正義)を忘れる(これが疎外)。そうなると、それは容易に反対物に転化してしまう。軍内部でのいじめやドレフュス事件など、枚挙にいとまがない。しかし、法と正義という内容に、死を賭ける職業倫理という形式を付け加えることによって、ハートの自己犠牲は、形式と内容それぞれの疎外と硬直性を流動化する。

初めから、マクナマラはハートを疑いの目で見ていた。建前にすぎない理屈を述べ立てながら、それを可能にしている実定的暴力(軍)を疎外して、自らの建前(憲法的価値)の直接性しか見ないハートの職業に、無責任な口説の徒という一面しか見ないからである。

実際ハートは、上院議員の父を使って、危険任務を避けようとして、自身、憲法的理念(平等)に反した生き方に甘んじている。彼の建前(正義)と本音(出世欲)は、実際にはアンチノミーを形成するはずだが、エリートとしての意識の直接性に甘んじている限り、それは表面化しない。自分のような、社会にとって「有用な人材」を保護・温存することは、社会全体にとって合理的だ、などと考えることができるからである。

ここに、真の理解が成立するのは、互いにそれぞれの否定性への滞留を通してである。果たして、ハートの自己犠牲に真のインテグリティを見たマクナマラは、全ては自分の命令でやったことだとして、集団脱走とそれに続く米軍による破壊工作の一切の責任を取るために、ひとり収容所に戻ってくるのである。それによって彼は、スコットとハートの命と人権を守るのであり、彼の大義に正義という内容を与えるのである。

軍にせよ教会にせよ企業にせよ、組織にはそれ独自の掟や慣習があり、それがそれぞれの制度の「論理」を形作っている。それらは、自然の本能で一糸乱れずに動く蟻や蜂の大軍のようには、完璧に組織化されているわけではない。それぞれの部局や組織の論理は齟齬をきたしたり、機能不全を起こしたりしながらも、様々の問題をその都度少なくとも暫定的に乗り越えていくのである。その解決は、それ自体がまた新たな問題や機能不全のもとにもなりつつ、概念の運動を続けるのであり、単純に自然淘汰や市場淘汰に委ねられるわけではない。実際、社会の中である組織が、淘汰されたり、興隆したり衰微したりするといった推移をすることがあるとしても、それ自体は何ら概念の運動ではない。

概念の運動は、係争の議論を通じて動くのであり、その際、自然的事実や市場のメカニズムが議論の理由の中に登場することがあるとしても、なまの事実として因果的に結果を生み出すわけではない。

たとえば、企業が不良品を出すことは、経費節減のためには許容されるという立場と、それは市場での信用を失うから許されないという立場の間にアンチノミーが成立する。経済的要因や市場メカニズムは、いずれの立論の理由づけの中にも登場し得るが、いずれかの結論を自動的に(理由ぬきに)生み出すわけではない。あくまでも、係争の法廷(実定的法廷であれ、歴史の法廷であれ)においてのみ、概念の運動が生じるのである。それゆえ、ここで「歴史の法廷」と言っても、それは「事実上の決着」とか、「適者生存」とか、勝者が常に正しいとする「勝利者史観」を意味するわけではない。あくまでも法廷である以上、それは腕力の闘技場ではなく、理性の法廷であらねばならない。歴史の法廷は、淘汰による「進化」ではないのだ。

それが、概念的合理性の全体として、自然の法則の全体とも、機械の設計図とも全く違った在り方をしていることは、明白である。あくまでも議論を続けながら概念を使って争う規範的運動であるからである。



Posted by easter1916 at 23:00│Comments(0)