「宇野もこのくらいの演技では、もはや物足りないですね」
そんな声を知り合いの記者から聞いたのは、今季のスケートカナダ後。初戦のロンバルディア杯で、4種類5本のうち4本の4回転ジャンプを成功している宇野昌磨が、2戦目のカナダでの成功は,、2種類2本。宇野を応援する立場での言葉だろうが、もっと派手な成功を見たい、というのだ。
「『2種類目の4回転を確実にしたい』って、この選手はやる気があるのか? 3種類も4種類も決めている選手がいるのに」
これは、羽生、宇野に続いて日本男子3人目の五輪代表を目指す選手のコメントを聞いたスポーツ紙デスクの言。4回転は本来、1種類でも跳べれば国際レベルで戦える技だったはずなのだが。
「4回転にも、もう目が慣れちゃったね。トウループ1本や2本の選手を見ると、もっと跳ばないかな、ルッツやフリップが見たいな、と思ってしまう」
とは、4回転ジャンパーが揃ったある試合後に、日本のコーチが発した言葉。4回転時代が始まったころ、ルッツ、フリップなど幻のような4回転を見られることに一番興奮していたのは、おそらくジャンプを教える技術にかけては世界一の、日本のコーチたちだった。彼らをしても、そんなことを言い始めてしまう――大変な時代になったものである。
関係者や近くで取材している人々でさえこうなのだから、たぶんお茶の間では、試合のたびにこんな言葉が飛び交っているのではないか。
「期待してたのに、4回転ルッツ、跳ばなかったねえ」
「なんだ、4回転、たったの2本か」
メディアが4回転、4回転と煽れば煽るほど、不発に終われば「期待外れ」という声は大きくなってしまう。
大技への挑戦をもてはやすムードが上がれば上がるほど、4回転の価値はどんどん軽くなっていく――そんな理不尽な空気が、4回転ブームの裏に流れているような気がしてならない。
ケガの危険が増す、芸術面がおろそかになってしまう、など、4回転偏重の弊害は多い。加えてもうひとつ怖いものに、「見ている人が技術の高さに慣れてしまう」という点がある。いいプログラムは、何度でも見たいと思うものだ。素晴らしいパフォーマンスが売りの選手の演技は、シーズンを通して何度見ても飽きない。しかし「凄いジャンプ」は、いとも簡単に見慣れてしまう。
たとえば2シーズン前、羽生結弦がNHK杯、グランプリファイナルと2戦連続で4回転3本を完璧に決め、世界歴代最高得点を2戦連続で更新した時。ファイナルを取材した記者たちの間で、こんな会話があった。
「今回のほうが得点は高かったけれど、NHK杯の演技の方が良くなかったかな?」
「いや、4回転3本を含めてパーフェクトの衝撃は、凄かったからね。でも2回目ともなると、インパクトは薄れるんだろう」
こうなってしまうと、人々から「凄かった」の声を引き出し続けるために、選手たちはどんどんジャンプの難度を上げていくしかない。どんなに果敢な挑戦をしても、成功しなければ「がっかり」と言われてしまう。もはや無間地獄のような4回転競争が、少しでも早く終わればいい、早く技術と芸術のバランスがとれた男子シングルに戻ってほしい、と思ってしまうのだが。