依頼されて、何らかの思いのある方と面談することがあるのですが、そういう時に、特に若い人からしばしば言われるのが、
「そうです、そうなんです、それが言いたかったんです」とか、
「どうして私の気持ちがわかるんですか?」とか、
「あなたに言われて、やっと自分の気持ちがわかりました」などなど・・・。
実を言うと、私は相手の気持ちがわかっているのではありません。だって、他人ですから。想像しているだけです。想像して、相手の言いたいことはこんなことかな、と思うわけです。
こういう相手と話しているとわかってくるのは、自分の気持ちを他人に語る基本的な言葉の力が不足していることです。だから、こちらが想像して、こんなことを言いたいんだろうなと、必要そうな言葉を渡してやると、まさにその言葉が相手の気持ちの輪郭をはっきりさせるわけです。
すると、こちらは言葉の補助をしただけなのに、そういう言葉を提供できるのは、自分の気持ちがわかるからだろうと、相手は思うらしいのです。
現代の若い世代は、SNSなどで、膨大な言葉をやり取りしています。私などには、それが言葉の大量生産・大量消費の経済活動のように見えます。すると、その「市場」からは、厄介なもの、難しいもの、否定的なもの、苦しいものなど、「売れない」言葉は流通しにくく、排除されていくでしょう。
そうでなければ、そういう言葉は、単純なのに不明瞭な断片と化して、地下に潜って方向を失い、ただ渦巻くことになるように思います。
しかし、「自己」という実存には、まさにそういう「売れない」ことを、必要な時に確かに明らかに他人に語る言葉が必要なのです。その言葉が萎えるのは、深刻な危機と言えるだろうと、私は考えます。
ただ、最近思うのは、この状況が、どうやら若い世代に限らないらしい、もっと上、中高年といわれる世代にも言えるかもしれない、ということです。
彼らの場合、言葉の力の不足というより、自分の「切ない」状況にきちんと向き合い、考え、最後にそれを言葉にするだけの、時間と余裕がないのです。そんな「非生産的」なことをしていたら、「市場」の「競争」に負け、「レース」に後れるからです。
この状況は、若い世代同様、実存を蝕むでしょう。崩れるとき、言葉と実存は共に崩れるのです。
「そうです、そうなんです、それが言いたかったんです」とか、
「どうして私の気持ちがわかるんですか?」とか、
「あなたに言われて、やっと自分の気持ちがわかりました」などなど・・・。
実を言うと、私は相手の気持ちがわかっているのではありません。だって、他人ですから。想像しているだけです。想像して、相手の言いたいことはこんなことかな、と思うわけです。
こういう相手と話しているとわかってくるのは、自分の気持ちを他人に語る基本的な言葉の力が不足していることです。だから、こちらが想像して、こんなことを言いたいんだろうなと、必要そうな言葉を渡してやると、まさにその言葉が相手の気持ちの輪郭をはっきりさせるわけです。
すると、こちらは言葉の補助をしただけなのに、そういう言葉を提供できるのは、自分の気持ちがわかるからだろうと、相手は思うらしいのです。
現代の若い世代は、SNSなどで、膨大な言葉をやり取りしています。私などには、それが言葉の大量生産・大量消費の経済活動のように見えます。すると、その「市場」からは、厄介なもの、難しいもの、否定的なもの、苦しいものなど、「売れない」言葉は流通しにくく、排除されていくでしょう。
そうでなければ、そういう言葉は、単純なのに不明瞭な断片と化して、地下に潜って方向を失い、ただ渦巻くことになるように思います。
しかし、「自己」という実存には、まさにそういう「売れない」ことを、必要な時に確かに明らかに他人に語る言葉が必要なのです。その言葉が萎えるのは、深刻な危機と言えるだろうと、私は考えます。
ただ、最近思うのは、この状況が、どうやら若い世代に限らないらしい、もっと上、中高年といわれる世代にも言えるかもしれない、ということです。
彼らの場合、言葉の力の不足というより、自分の「切ない」状況にきちんと向き合い、考え、最後にそれを言葉にするだけの、時間と余裕がないのです。そんな「非生産的」なことをしていたら、「市場」の「競争」に負け、「レース」に後れるからです。
この状況は、若い世代同様、実存を蝕むでしょう。崩れるとき、言葉と実存は共に崩れるのです。
見栄や強がりが、それらを邪魔をしているようですね。
いずれにしても、それを愚痴るだけの言葉は、持ち合わせているようです。
友人の職場での悩み事で、こちらは知る由もないことでしたが、聞いているうちに、「それは、これこれしかじかではないか?」と返答してみると、友人から「なぜわかるのだ‼」などと驚かれました。
自分の数少ない経験値の中でも、情景を落とし込ませながら考えてみたことですが、たまたま共通項があっただけのことかもしれません。
また、相手から理解を示されるような反応をされると、誰しも安心感のようなものを得られるのではないでしょうか。
それらは、釈尊や龍樹にも通ずるところがあるかと。。
凡人には、言葉で現すことが難しい、ということもありますね。
https://m.youtube.com/watch?v=8EG935ca54U
観ました。
気のせいか、金光さんがにこやかでした。
(⌒▽⌒)
和算の絵馬奉納が数学が旦那芸としてあり様々な連に集い遊んでいた。
楽しみの質が、想像力豊な時が持てたのか、たぶん媒体が少ないほど深く遊べるのだろう。
できるだけたくさん言葉のボールを投げ合ってる、相手がどう話を展開していくのかと
他人への想像力のなかで「思いやり」が育まれる。
言葉を大切に
きちんと向き合いたいものです。
・・・ええっと(笑)
若者ってニュアンス語が好きですよね。
幅広く使えて遊びやすいから。
でも、それだと『正確に表現する』という点においては、どうなのか。
和尚と話していると、相手は「わが意を得たり」となるわけですね。
相手の感情を自分に投影すること、言葉を使うこと、まさに『心』という機能が成せる技ですね。
私も今まで以上に言葉を大事にしていく方向っぽい感じのニュアンスみたいなノリで生きたいと思います。
今は、感情を言葉にする技術は過去に比べ、だいぶましになってきてはいるのですが、もっか、自分はどういう状況で、何が必要で、何をしなければならないのか、過去を整理し、目的はなんなのか、そのような現状や課題を明確に察知し把握する力が、欠けている能力だと感じています。
著書「悟りは開けない」では、そのような現在が落ち着いていない人間、今が不在で未来を生きている人間は、何も好きになることができない、と書いていました(まさに図星でした)。
南さんみたいな精神分析?のように問題・課題を提議してくれるのは、貴重なヒントを与えて頂くので、有難く思っています。
しかし、南さんもそういう経験をしたからそう分析できるのかな、と思ったりしますが、分析の仕方が客観的過ぎて、すごいところを観ているな、と思います。
20代になって、南さんの本に赤線を引き、何度も読み返していました。
もっというと、サッカーだけ一生懸命やっていれば、とりあえずはよし、他の事柄は関わらない、と思っていた。
しかし、自分はなにかおかしい、苦しい、とは当時、明確に感じていたと思います。