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現代アートのゲーム・チェンジャーは生まれるか?「新しい泉のための錬金術ー作ることと作らないこと」三木学

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ULTRA GLOBAL AWARD 2017 Exhibition「新しい泉のための錬金術―作ることと作らないこと」
京都造形芸術大学ギャラリー・オーブ
会期:2017年12月5日(火)〜12月19日(火)
時間:10:00〜18:00
会期中無休
入場料:無料

 

今年は、マルセル・デュシャンが『泉』を制作してから100年になる。それに関連して、デュシャンをテーマにした展覧会が各地で開催されている。実質上、現代アートは、デュシャンが始めたといってよいだろう。デュシャンの本格的な評価が戦後とはいえ、デュシャンはそれ以前のアーティストの態度とはまったく異なる。デュシャンは、狭義の作ることを止め、観念的な操作でものの見え方を変えてしまうことに成功した。今日ではコンセプチュアルであることは、現代アートの前提条件になっている。デュシャンは、今風に言えば、アート界のゲーム・チェンジャーであり、パラダイム変換をもたらしたのだ。

 

京都造形芸術大学ウルトラファクトリーが、例年開催しているアート・コンペティション「ウルトラ・アワード」も、今年は「ウルトラ・グローバル・アワード」にバージョンアップして、森美術館チーフキュレーターの片岡真実氏が、キュレーション及び制作指導を行うという新体制の下、「新しい泉のための錬金術ー作ることと作らないこと」をテーマに、展覧会が開催されている。若手作家たちが、現代アートにおける作ることと作らないことの意味を改めて考え、デュシャンがパラダイム変換して以降、100年の現代アートの歴史を振り返りつつ、今日における『泉』やそれを生み出す錬金術(制作手法)を試みるという趣向になっている。

 

キュレーターは、アーティストをオーガナイズするという意味では展覧会の共犯者であり、同時にセレクトするという意味では評価者でもある。したがって、キュレーターが制作指導を行うというのは一見、合理的でもあるが、キュレーターの枠内でアーティストを判断し、抑えてしまうという面もあり難しい点もある。とはいえ、実質現在のアートワールドでは、キュレーターとの共同作業が必須であり、彼・彼女らにプロポーザルを出して、制作が始まることが多いことを考えれば、既存作品ではなく、テーマに応じた提案を行い、そこから制作指導をしながら作り上げる、ウルトラ・グローバル・アワードは、現在の美術大学の教育の中では、かなり今日的で実践的であるといってよい。

 

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左から片岡真実、後藤繁雄、浅田彰、やなぎみわ、遠藤水城、ヤノベケンジ

 

例年、浅田彰、遠藤水城、後藤繁雄、やなぎみわ、椿昇、名和晃平などの、第一線で活躍する批評家・編集者・キュレーター・アーティストといった違う役割を持つアートワールドのプレイヤーによって講評が行われ、最優秀賞が選ばれていたが、今年は、M+副館長兼チーフキュレーターのドリュン・チェン氏が、単独で最優秀賞を選ぶことになっている。遠藤水城を除いて、京都造形芸術大学で教えている教員であることを考えれば、出品作家の作風や背景を知っており文脈を補完してしまうので、最優秀賞を切り分けるというのはよいアイディアであるといえるだろう。

 

今年は、そういう経緯もあり、展覧会初日に、浅田彰、遠藤水城、後藤繁雄、やなぎみわの講評会が開催された。賞とは関係なくなったとはいえ、国内外で実践経験があり、幅広い視野を持つ彼らに講評されることは、出品作家にとって貴重な経験であることは変わりない。時に辛辣とも思える言葉が飛び交うが、授業料を払っている学生たちに忖度なし、ガチンコで取り組んでいることの証明でもあり、オーディエンスにとっても大いに役に立ち、一つのエンターテイメントのようになっていたのが印象的であった。また、昨年までとは違う展示の特徴は、片岡氏の制作指導によって、制作前にリサーチが行われており、作品の思考過程がわかるように、リサーチ・テーブルが置かれてることである。それが作品に厚みをもたらしていることもあるし、作品との関連が唐突で混乱をもたらしている展示もあり、サーベイのアウトプットに対するアーティストの自覚度を示す指標になっていた。

 

京都造形芸術大学の学生・院生・卒業生70名の応募の中で選ばれた10名がどのような作品であったのか少し説明していこう。

 

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小野 由理子
タイトル:《お供え》
制作年:2017
素材:綿布、糸

小野由里子は、もともとアパレル関係で勤めた後に、自分のブランドの展開とともに、現代アートの作品制作にも取り組んでおり、ファッション、衣服の形態を保持しつつ、そこにメッセージを込めるという作風になっている。

今回は、縫うことの根源を問い、そこにある原始的でシャーマニックな要素を調べた上で、戦前の千人針にいきついた。さらに、パンテオン神殿と女性の衣服の象徴であるスカートとの形状的共通点を見出し、ドーム型の天井となるような大きなスカートを作り、そこに様々な神獣などの意匠を、赤い糸で縫い付けて宗教的空間を作り出した。

しかしながら、千人針は戦意高揚に使われ、国家的な動員の要素にもなった過去があり、危うい宗教性・民俗性を無批判に展開していることへの懸念が、講評者から指摘された。そもそも千人針は、日露戦争では非科学的で忌避された行為であり、そこには弾に当たらない、あるいは徴兵されないという、非戦的な要素があったものが、無謀な太平洋戦争になって、むしろ積極的に動員の手段になったことは興味深いので、デュシャンとの関係を考えれば、そのような竹槍と並ぶ手仕事の持つ危うさや滑稽さこそを取り上げるべきだったのかもしれない。例えば、手縫いに見せて、すべて工業製品を貼り付けただけで、そこに感じる宗教性は錯覚であったというような…。

あるいは、スカートの中に入ることで、デュシャンの『遺作(『(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ』のような覗き見的な構造を作って、視線の問題を扱ってもよかったかもしれない。

白い布地に赤い糸の組み合わせは、千人針のように小さく凝縮していると見た目にも呪術性を感じるのかもしれないが、ギャラリーの大きさと比較すればスカートの大きさも中途半端で、図柄も小さく間が抜けているのでスケールメリットが感じられない。本来はスカートが大きくなっただけで、縮尺の違いで感覚がズレる効果があるはずである。

あるいは、色を反転させ、スカートを真っ赤にして、白い糸で縫い付けた方が、インパクトはあったかもしれない。単純なことであるが、衣装という身体性から離れた巨大さを、どのようにコントロールするかということから考えていみた方がいいだろう。

また、小野はスカートに人の動きを描き、ゾートロープに展開できそうな作品を作っていたので、まずは『泉』以前の錯視的なデュシャンの試みを学んでみたらどうだろうか?ジェンダーと宗教性を扱うのには、まだまだ手に余るという気がした。

 

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長尾 鴻平
タイトル:《untitled (monolith)》
制作年:2017
素材:顔料、岩絵具、砂、膠、綿布、パネル

長尾鴻平は、星座をモチーフに、巨大なキャンバスに日本画の光輝性のある白い顔料を全面的に塗った後、ある星座を点と線で描いた。

日本画の鉱物的な顔料の凹凸、時間がたちまだら模様になったため抑揚ができた平面、巨大なキャンバスは十分迫力があって面白いのだが、星座を看板のサインのように単純な丸と線を引いているため、そちらの方に知覚と認知が引っ張られて、地がペラペラの平面にように見えてしまっているのが残念であった。

天体と洞窟などの関係などリサーチしていたのだが、なぜ白なのか?星座を連想させるのに黒は単純すぎるにせよ、白の必然性はいまいちわからない。また、そもそも星と星を恣意的に結んで星座は作られているが、結ばれた星の距離は何光年も離れていて、その膨大な奥行きとは無関係に、認知が生み出す図形の平面性が面白いとは思うし、作家本人もそのように考えていると言っていただけに、上塗りして単純化した星座は蛇足に思えた。もう一枚レイヤーを重ねるにせよ、存在しない補助線を知覚的に見せるようなやり方があっただろう。

また、星が恒星の光であり、光源であることとは逆に、絵画が反射光で見えており、ザラザラとした表面をもっていることを考えれば、洞窟のように触覚的なアプローチへの言及があってもよかったかもしれない。

 

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石黒健一
タイトル:《TAUTOLOGY》
制作年:2017
素材:単結晶シリコン、黒曜石、ほか

 

石黒健一は、指を事故で切断しながら、創造的なアプローチで新たな演奏法を確立した、ブラック・サバスのギタリストのトニー・アイオミと、2000年代にアマチュアの考古学者として活躍し、「ゴットハンド」と呼ばれ、次々と歴史的な石器時代の遺跡を発掘するも、自分が埋めた偽物であることがスクープされ自ら指を切り落とした藤村新一に、欠損した指と、偽物の中に秘められた創造性を見出し、指が切断された手の像を黒曜石で作った。

黒曜石は矢じりやナイフなどに使われた代表的な石器の素材であり、日本でも後期旧石器時代から使われている。古代のナイフを見つけるために嘘をつき、最終的に自分の指を切ることになった藤村のことを思えば興味深い。捏造にも創造性があるのは確かであるし、彼が歴史に介入して偽史を作ったことを考えれば、作る歴史を転覆したデュシャンへの言及とも言えるかもかもしれない。

また、それと対比させて、タスマニアで発見された人類最初期の礫器(打製石器)オルドヴァイ石器をモチーフに、現在社会で広く使われているシリコンを使って、偽の石器を作り対比させた。

展示方法が、インスタレーションのようになっており、暗い部屋の中で発掘現場のような空間を構成し、割れたモニターを台座のようにして、2つの作品を左右両極に離して置いているのだが、少し過剰な演出であったかもしれない。講評者からも非常に興味深いが、要素が多すぎると指摘されていた。

もう少し博物館的な方法で、作品自体を巧妙な偽史の一環として展示するなど、マルセル・ブロータースのようなアプローチでもよかっただろう。とはいえ、真実と嘘の境界、偽物の創造性は非常に今日的であり、可能性を感じる作品であった。

 

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佐貫 絢郁
タイトル:《 35.0367416
135.79265140000007》
制作年:2017
素材:壁面、布

 

佐貫絢郁は、壊される予定の学舎の壁に描かれてあった、ドラゴンボールのキャラクターの落書きを下絵に彫り、巨大な版画に仕立て上げた。さらには、下絵である絵を、四角形に切り取り、壁ごと持ち出してインタレーションにしている(四角形といっても壁を抜く際に、切り取ることが難しくドリルのような円形になる器具を使ったため、パンチでくりぬいたようになっている)。

版画となった落書きは、転写が繰り返され、そこにドラゴンボールのキャラクーを見出すのが難しいくらいになっているのだが、落書きを版画にしたり、壁をぶち抜くプロセスを撮影したメイキングムービーは魅力的な映像になっており、講評者の大勢もそのように感じたようであった。

とはいえ、都市や建築への介入として、建築に穴や亀裂を入れたゴードン・マッタ=クラークやグラフティを使って、都市や美術館に介入しながら社会的・政治的風刺を行うバンクシーとは違い、そこに空間、政治、美術制度への介入という志向性は見られず、似て非なるものになっている。取り壊し予定の美術大学の壁以上の意味を見いだせないのが残念なところである。

今後、佐貫が手法以外にどのような社会的な関心を持つかによって、本作の意味合いも変わってくるだろう。

 

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桑原ひな乃
タイトル:《Anchor - 記憶の痕跡》
制作年:2017
素材:鉄、アクリルミラー

 

桑原ひな乃は、自分のルーツである漁村に打ち捨てられていた、巨大な錨(いかり)を吊り上げ、床面に鏡をはって、鏡の中を見るとあたかも水底に、錨が降りているようなインスタレーションに仕立て上げた。

デュシャンが使用した工業製品のレディ・メイドの規模の大きなもの、という趣であり、便器や自転車の車輪、ボトルラックのように、ギャラリーで展示台に置かれると彫刻的アウラを帯びてくる。さらに、天井に反転させてつり上げ、床に鏡を置くことで、再反転させて鏡像を正しい天地にしているわけで、手法も凝っているといえるし、スペクタキュラーな演出としては成功しているだろう。

とはいえ、リサーチの結果、水産業を営み繁栄していた桑原家のルーツを知り、家系的なアンカーのような位置づけにもなっていたこともあり、レディ・メイドというよりは、「私の家系・家業の思い出」というような意味合いが強くでていた。

デュシャンはレディ・メイドの私的記憶や美的価値も否定しているので、錨自体の美的価値や存在感、家系・家業の思い出の表出が、作品の動機であるならば、退行しているといえなくもない。

作家自体は、個人的な記憶や美的価値だけではなく、産業転換の末に無価値になった物の芸術的転用を考えているようだが、近代産業遺産は総じて、日常的な存在でなくなった結果、歴史的価値と芸術的価値に転換されるものなので、珍しい行為ではない。3Dスキャニングで記録し、発泡スチロールで再現して、まったく軽いものにしてしまうなど、記憶の重みを無化するくらいの工夫があってもよかっただろう。

 

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梶原 瑞生
タイトル:《メデュホドン高原から》
制作年:2017
素材:アニメーション、木材

 

梶原瑞生は、移動から定住の変化というテーマを、小さな木造の家と、内部に投影する映像によって表現していた。会期中には、観客に小さな家に入ってもらい、アニメーションの上映時間中、作家が引っ張って移動させるパフォーマンスが行われるという。絵心があり、ヘタウマなアニメーションもよくできているが、残念ながら、関心が私的な領域に留まっており、あまり社会性が感じられない。

講評者にも、道端で紙芝居のような形態で見せるのなら問題はないが、近代以降の展覧会という開かれた場で見せるのは難があると指摘されていた。

付け加えるなら、かつての紙芝居のように路上や公園で見せるならば、美術館やギャラリーのような鑑賞空間ではないためもっと公的であるし、さらに子供たちを惹きつける物語やエンターテインメントが必要であり、近代以前の見世物小屋としても成立させるのは難しいだろう。

このような私的な領域にとどまって表現を続けるタイプは、まずは展覧会という私的な発露がある程度許される場所ではなく、エンターテインメントの場で受けるかどうかやってみた方がよいと思う。そうすれば初めて、自分以外の他者の眼差しの厳しさに出会うはずである。

それができた上で、束芋のような、アートとして、社会批評をともなったアニメーションを作るか、エンターテイメントとして展開するか考えればよいだろう。

 

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山本 昂二朗
タイトル:《OLYMPUS21,230》
制作年:2017
素材:木材、巻尺

 

山本昂二朗は、太陽系で一番高い山である約2万メートルの火星のオリンポス山の長さを身体化するために、2万メートル巻尺を使い、約8mの木組みのタワーに巻きつけた。

スケールアウトした大きさを、生身の身体を使って、バカバカしく表現するというのがそもそも山本の関心のようだが、一見、無造作に作られた木組みに巻かれた巻尺は、黄色と白、文字がある種のリズムを形成しており、模様になっているところが面白い効果を出していた。

デュシャンのメートル原器をモチーフにした『3つの停止原理』を援用しているとも思えるし、それまでに身体の延長としての縮尺ではなく、「真空中で1秒の 299792458 分の1の時間に光が進む行程の長さ」という物理的な理念で作られたメートルや、到達不可能な火星のオリンポス山という半ば空想的な存在を、自身の身体で介入するというのは面白い試みだと思えた。

ただ、表現の方法について、あまり深く意識化できておらず、それぞれの素材にもう少し意味付けをもたせられるようになった方がいいだろう。また、2万メートルという長さも、垂直であれば高いが、水平では20キロ程度のもので、歩くこともできる。

最近ではGPSで絵を描くことできるので、リチャード・ロングのように歩いて、世界各地で2万メートル尺を作るということもできるだろう。考えていることが単純で一発芸的なものなので、現代アートではなくてもやってしまう人もいるだろうから、アートとしての文脈をいかにつけていくかということを考えた方がいいと思えた。

 

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橋本優香子
タイトル:《別の言葉で言い直す(うた)》
制作年:2017
素材:ビデオ(3面)、台湾の糸、布

 

橋本優香子は、台湾人が持っている日本語・日本に対する距離感を示すため、日本語を使うこのできる世代の異なる3人の台湾人のインタビューを行い、それぞれの意識の違いを明らかにした映像作品を制作した。また、彼らの違いを表す言葉を抽出し、刺繍に縫って展示した。刺繍に縫われた文字は、壁に写った影で読むことが意図されているが、判読するのは難しい。

ただ、3人の選び方は恣意的にすぎないし、最終的なアウトプットも、なんとなく自分がしてきた手わざに回収されており、調査を経た上での言語・圏の持つ、想像の共同体の強さやその綻びのような、断絶がクリアに見えないのがもどかしい。

インタビューを書き起こした取材記録や調査は非常に丁寧に行われており、生の素材の方が魅力的だと講評者には指摘されていた。そして、誠実に対象と取り組んでいることにはある程度の評価を受けていた。しかし、誠実さがつまらなさになってしまっては身もふたもないし、素材を活かした料理ができない状態では意味がない。

リサーチベースの作品の場合、対象が魅力的すぎると、あれもこれもと、からまった状態で、浮かんでこれないようなところがある。作家の資質が真面目だからこそ、もう一度、関心や明確に表したい亀裂は何か、対象から離れて考えてもよいように思った。その意味では、読めない刺繍は、作家の現状を表しているようにも思える。

アーティストは勉強せず、もっとめちゃくちゃでいい、というような講評者の発言もあったが、生真面目でユーモアがなくなるようなタイプにとってはその通りだろう。アーティストのサーベイに期待しているのは、普通の研究では取り上げられない、思わぬ角度による発見であり、学術的な精度ではない。リサーチベースで資料展示が氾濫する昨今のアートワールドであるが、学術論文としてもアートとしても成立しないような自由研究にならないように気を付けた方がいいだろう。

 

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内田 恵利
タイトル:《多分いつかおそらくしかしながら》
制作年:2017
素材:ビデオ

 

内田恵利は、4台のプロジェクターにそれぞれ、自分がパフォーマーとなって、動きはあるが進まない反復行為を映し出して、不条理な状況を映し出している。いかにも思わせぶりで、ベケット的な不条理劇や、ヴィト・アコンチのような、パフォーマンスを連想しないでもないが、作家自身はまったくそのような背景を持たない。

政治性、身体性の切実さが感じられない、安全圏の中で個人的な妄想を投影したくだらない行為、というようにしか読み取れず、しかもそれが外れてもいないところが悲しいところであった。

昨今YouTuberならもっと受けることは考えるし、不条理を見せるためには、それ以上に深い思索と、身体的訓練や冒険があって初めてユーモアになるし、アートにもなる。ネタのチップス的な方法はそろそろ卒業し、反復するのをやめて、前に進む機会にした方がいいだろう。

その上で少しフォローすると、先行のアーティストのパフォーマンスと似ているところはいろいろ見出せるのと、なんとなく映像のフレームに作家の志向性、美学がうかがえるところがあり、自身でもう少し調べて、通底するテーマを見出せば、次にやるべきことが見えてくるかもしれない。

 

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削り取られた安藤正楽の碑文

 

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石碑と隣に置かれた復刻された碑文
 

 

坪本 知恵
タイトル:《種》
制作年:2017
素材:油彩、木材

 

坪本恵理は、愛媛県四国中央市(旧宇摩郡)土居町の出身で、近所に建てられている日露戦争記念碑の文字がごっそり削り取られ、文字部分だけが隣に復刻された奇妙な石碑を見て育った。それは土居町出身の明治の人類学者、安藤正楽の碑文を元にしており、日露戦争後に出征した町民に請われて書いた碑文である。反戦・非戦の人権主義者であった正楽は、「愛国忠君」の思想こそが誰もがよくないと考える戦争に向かわせるものとして批判する内容を込めために削り取られた上に、本人も投獄されるきっかけとなった。復刻されたのは、平成5年のことであり、ほんの20数年前までは何が刻まれているかわからなかった。

作品は、安藤正楽の碑文の一連の経緯をヒントにしつつ、デュシャンとも交流のあった、日本のシュルレアリスト、詩人の瀧口修造が夢について書いた文章を、プリントしてステンシルにし、塗りこめている。灰色に黒字で刻印されおり、石碑のような重厚さが感じられるし、奇麗な仕上げになっている。ただ、文章はところどころ黒でつぶれ、ギリギリ読めるという程度であるが、内容にほとんど意味を求めていないため、まさに意味をなさないものになっている。

安藤正楽の石碑の持つ政治性・社会性・歴史性、あるいは滝口修造の持つ政治性・社会性・歴史性が骨抜きにされ、言葉遊びのように使われているのが残念であった。ダダのような言葉遊びすら、戦争というもっとも不条理な出来事を反映したものだということを考えた方がいいかもしれない。ステンシルにするくらいなら、もっと素直に石碑を版にして、再掲示した方が面白いと思ったが、政治的問題に関心があるわけではないようで、坪本に限らず日本の若いアーティストに見られる、政治回避の志向は安藤正楽が生きた時代への回帰を思わせられる根の深い問題に感じた。

 

さて、全体の感想を言えば、キュレーターの指導によって、関心やサーベイのレベルが引き上げられ、ウルトラファクトリーのサポートによって見せ方の完成度が飛躍的に上がっているがゆえに、作家のコアな関心や技術の強度が逆説的に明らかになっていたといえる。表現技術もさることながら、昨今のアートワールドでは、アートヒストリーのみならず、社会や政治、地域の問題を避けて通ることはできないため、それぞれがもっと向き合わなければこの上には脱皮できないと思えた。

本展のように、背伸びし、宙づりになった状態で、さらに根をはっていけるか、あるいは崩れてしまうかは、作家次第といったところだろう。結局のところ自力のある作家は残るということだが、一度このようなフレームアップされた展覧会を体験すると、自ずと自分のやらなければならないことが見えてくるだろう。自分探しを卒業し、グローバルなアートワールドを見据えるのには絶好の機会であり、この中から「新しい泉」を生み出すゲーム・チェンジャーが輩出されることを期待したい。