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伝説のロック番組『ヤング・ミュージック・ショー』に残されたデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」

2017.12.08

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1978年12月12日、デヴィッド・ボウイの来日コンサートが東京の渋谷区神南にあるNHKホールで行われた。

その日は12月6日の大阪厚生年金会館から始まった日本ツアーにおける最終日であるだけでなく、その年の3月29日にアメリカのサンディエゴを皮切りに始まり、北米から欧州、豪州をまわって9か月にも及んだワールド・ツアーの最終公演でもあった。

70年代のなかばにアメリカに渡ってからコカイン中毒になったボウイは、自ら再起を図ってベルリンに移住すると、1977年にアルバム『ロウ “Low”』と、それに続く『英雄夢語り (ヒーローズ) “Heroes”』を発表して復活した。




そしてワールド・ツアー「 ロウ / ヒーローズ・ツアー(Low and Heroes Tour)」によって、ボウイは完全復活を印象づけるだけでなく、吹っ切れたようにシンプルで力強いライブを展開して観客を魅了した。

ボウイにとって片腕的な存在だったギタリストのカルロス・アロマーに加えて、後にキング・クリムゾンに加入する異才のエイドリアン・ブリューがギタリストとしてツアーに同行した。

キーボードにはトッド・ラングレンとユートピアを組んでいたロジャー・パウエルが参加し、当時としては最強ともいえるツアー・メンバーがそろっていた。

そうした記念すべきライブを映像収録する幸運に恵まれたのが、NHKの青少年部にいたディレクターの波田野紘一郎だった。



NHKは1960年代に巻き起こったグループ・サウンズのブームの際に、長髪のエレキバンドに対しては出演を許可しなかった。
保守的で”お硬い”イメージが強かったNHKはロック・カルチャーに関する理解など、全く持っていないと思われていた。

ところが1971年の秋から総合テレビでは突如として、『ヤング・ミュージック・ショー』というタイトルで、欧米のロックフィルムを流れ始めた。

その担当ディレクターとして1971年10月から1986年12月まで、15年間で81本の海外アーティストのライブをオンエアしたのが波田野である。

デヴィッド・ボウイのワールド・ツアー最終日のライブも、1979年3月26日に『ヤング・ミュージック・ショー』の枠でオンエアになった。

波田野はボウイのライブ収録を実現させるために、NHKホールの関係者を何度も何度も説得して、ついには了解を得たという。

ボウイは僕は個人的にものすごく尊敬していました。
非常にアーティスティックだったし。
この時はボウイ側がNHKホールでやりたがったんです。
でもNHKホールはクラシックの殿堂。
その前に1回ジェスロ・タルをクラシックって触れ込みでやったことがあって、ホールは「騙された」って(笑)。
もう強硬だったんです。
結局、番組を制作するために使うんだから、多少ロック風でもいいじゃないか、大目に見てよと。


波田野が前日の日本武道館ではなく、NHKホールにこだわったのは理由があった。
ボウイの良さを多くの人にわかってもらうためには、最初からカメラ用のスペースがあって、カメラのアングルや照明との関係をスタッフが熟知している必要があったからだ。
ほとんどぶっつけ本番に近い条件の収録に、最も適しているのがNHKホールだった。

ところが収録する直前になって、根本的かつ深刻な問題が発生した。
収録準備のために大阪公演を下見に行ったNHKの技術スタッフたちが、蛍光管を効果的に使ったコンサート用の照明では、暗すぎてまともな映像にはならないと伝えてきたのだ。

当時はいわゆるテレビ照明と呼ばれるだけの光量がないと、たとえ暗めの画面だとしても、きれいな映像にはならなかった。
ところがワールド・ツアーで全て統一してきた照明を、急にその日だけ、日本のテレビ番組のために変えてほしいと言われても、ツアーのスタッフが応じるわけはない。

彼らと現場で交渉しても、いっこうに埒が明かなかった

当時のレンズは感度が良くないんで、暗いとざらざらした汚い映像になっちゃう。
で、当日までこっちは「明るくしてくれ」、向こうは、「これはボウイの意向だ。全体のコンセプトだ」と。
そこへたまたまボウイが通りかかったんで、アシスタントが「今日の観客は二千人から三千人だけど、放送されれば例えば5% としても百何十万人が見るんだ。こっちを優先させてほしい」って。
そしたらボウイはあっさり「あ、そうだなぁ、そうしよう」と、スタッフに一言。
そしたら明るくなっちゃった(笑い)。


運も実力のうちだ、ということがわかるエピソードだ。
こうしてNHKのスタッフの希望はボウイへの直訴によって受け入れられて、無事に幕を開けることができたのである。

そして、貴重な映像が後世に残ることになった。

オープニングの「Warszawa」はボウイがキーボードを弾くなかで、カルロス・アロマーが指揮棒を振り、厳かな儀式のように始まる。
それに続いて続いて演奏されたのが代表曲「Heroes」で、レコードに比べるとかなりゆったりとしたテンポだった。

しかし、曲の後半になるにしたがってボウイの気持ちが高まり、聴き手の心を揺さぶるかのように、メッセージが熱量を増しながら伝わってきた。



画面の字幕には、岩谷宏の和訳が映し出される。

いまも忘れはしない ベルリンの壁ぎわに立ち
頭上に絶えぬ 銃声の中で 私達は抱き合っていた
でも一方では うしろめたくて 世界を彼等が支配する限り
私達の愛は無力なもの ヒーローにならねば
世界を掌握する愛でなければ いつの日か私とともに
私達みんなが 一人一人が ヒーローに
まだみんなバラバラな今 一人よがりを言うだけになる
いつの日にか きっとヒーローに


長かった世界ツアーの最後が日本公演だったということもあり、バンドのメンバーたちとは完ぺきといえるくらいに息が合った演奏だった。
バンドの全体がうねりながら、ヴォーカルとともに高まりへと昇りつめていく。

収録の当日まで波田野があきらめないで粘って交渉し続けたおかげで、この日のライブ映像は世界中のファンに、21世紀にまで語り継がれることになった。


 <参考文献および引用> 篠崎 弘 (著, 監修)「洋楽マン列伝 1」 (ミュージック・マガジン )

篠崎弘 (著, 監修)『洋楽マン列伝 1』(単行本)
ミュージック・マガジン

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