えー、どうせ誰も読むわけでもないので、大した論証もなく思いつくまま、好きに書きたいと思います。
リズムについての簡単な考察。
なので音楽的教養をお持ちの方には向かない記事が以下。
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アヒトイナザワ
まずリズムのお話。
この前、関ジャムでやっていたドラムの世界でも紹介されていてわかりやすかったのでナンバーガール「Num-Ami-Dabutz」
アヒトイナザワのドラムプレイを参考に。
30秒ほどのアヒトが跳んでるあたりのドラムプレイ。
アヒトは、向井がバカ太鼓と評するように、やたらドカドカ無軌道に叩いているようにも聞こえるが、リズムキープが恐ろしくいい。
リズムを外さずそのアタックは保ったまま、その枠の中でドカドカと叩きまくっている。
ドラムとベースは、リズム隊とも呼ばれるが、要はギターやボーカルなどメロディと違い、一定のリズムを刻むことで曲の時制を保つ役割を担う。
ZAZENBOYZ「IKASAMA LOVE」
ザゼンはインプロバイゼーション的なプレイが多く、頻繁にブレイクがあったり、突然演奏が止まったりする。
それでもリズムはひたすらキープし、いつでも向井の合図でプレイが再起動する踊れないダンスミュージック。
懐かしいTHE MUSICの「TAKE THE LONG ROAD AND WALK IT」
ギターの繰り返すリフにドラム&ベースがリズム隊となって支える。
このくらいの薄い感じのリズム隊が英ロックっぽさですが。
繰り返しによってビートとグルーヴ感が産まれている。
シッティングorダンス
※PRAISE YOU/FATBOYSLIM
音楽には、聞く音楽と踊る音楽とがある。
ベタな例えだと音頭は踊る音楽…ダンスミュージックでクラシックは聞く音楽…シッティングミュージックとして。
ロックはどっちなんだ?とかテクノはどっちだ?とかあるだろうが、もちろんどちらとも言えるものもある。
踊る音楽の場合、まずリズムがある程度、一律であることは重要になる。
変則的でつんのめるような音楽を鳴らしても、複雑な音を鳴らしても踊る(身体的)音楽としては成立しづらい。
音頭が、わかりやすく一定なのはそのためとも言えるかもしれない。
たとえば盆踊りは、盆にやってきた先祖を送るための舞踏であるという話もあり、だとすれば盆踊りはハレの儀式であり、とすればそれは享楽的に楽しむものではなく、送り出すため様式が必要に思える。
画一的な拍子によって皆で踊り先祖を送り出す。
盆踊りがわかりやすく踊りやすいのはそのためかも知れない。
誰にでもわかりやすく振り付けがあるからこそ老若男女誰でも参加できる。
イマドキのクラブで踊る人々のダンスがフリースタイルなのに対し、ひと昔の……それこそロカビリーやゴーゴー、ツイストあたりまでは形式も存在した。
パラパラなどにも言えるが同じ動作を集団で行うというのは一体感を増すことになる。
最近、BiSHの勢いが目立つが、それもアイナによるわかりやすく真似しやすいフリによる一体感の部分は大きい。
アイドルというのはある種、フリーで好きに踊り騒ぐバンドに対しての揺り戻しというか、応援の仕方に定形を持ち込むことによって敷居を下げている部分は大きい(だからこそオタ芸などは嫌われる)。
反対にクラシックのリズムは、必ずしも一定である必要はない。
ただ複数の楽器によって構成されるため、リズムは指揮者が一定のものに保つ必要はある。
だがこれは聴衆のためというよりも演奏者のためという意味性が強い。
いわゆるフリージャズのような個人技であればある程度の「呼吸」によって少数のメンバーがリズムを合わせ、変化を持たせることはできるが、ビッグバンドのような大所帯で一人が好き勝手やれば日野皓正にはたかれるかも知れない。
ハイコンテクスト
ご存知かと思うが、三味線にはギターのようなフレットがない。この曖昧さに加え、チューニングも感覚により二上り、三下りなど一本を基準にしてそれに合わせるという相対的なやり方。
さらに三味線は譜面通り弾いてもよろしくない。
譜面にはそう書いてあるが実際は……と言ったこともある。
だから三味線はお師匠さんに付いて、その演奏を眼の前で見て学ぶ。
これは落語にも言えるが台本をそのまま覚えても役に立たない。大事なのはセリフとセリフのに存在する「間」。
日本の音楽は「間」が重要だというが、音や拍子を打つ「拍」より何も打たない「間」の方がより感覚的(ハイコンテクスト)であり、その辺も日本的と言えるのかも知れない。
教えるのは演奏であるが、大事なのは、その間にある間だと考えれば。
猊鼻追分、船頭さんお上手。
無拍……追分などに見られるフリーリズムは、歌が基準となるため、間が先行し、拍子はそれに追従する。
無拍のメロディがリズムを誘導する、となれば裏打ちより表打ちになるのは自然にも思える。
あくまで思いつきだが。
日本の音楽のビートアプローチがそれほど深掘りされなかったのは、そういったメロディ先行の無拍によるところが強いように感じる。
日本はハイコンテクストな文化が発達しやすいからこそ無拍な音楽が発達し、常に侵略と異文化にまみれた欧米諸国でローコンテクストな音楽を共有するためにリズムが先行した。
根拠はない思いつきだが。
DTM
打ち込みの技術が生まれたことによってビートは精密に細かくなる。
「初音ミクの消失」なんてとてもわかり易いですが、もはやこれは歌ではなくメロディですよね。
歌詞は詰めこまれているけれど、リズム自体はその細い歌詞とは乖離してる。
ところがそういったMIDIから始まったデジタル化とDTMによるリズムの細分化はマーク・ジュリアナのような天才ドラマーによって「打ち込みで出来るならオレにもできる」という回帰を生み出すから面白い。
ある種、今だからこそといえるかも知れないが。
今では日本各地に飛び火してすっかり定着した感のある「阿波おどり」や「よさこい」あるいは「ソーラン節」といった日本ならではのビート感をベースにしているであろうダンスイベントもあったりするけど、それはジャズやリズム&ブルース、ファンクやヒップホップ、レゲエ、あるいはサンバやサルサといった、何らからの形で黒人のダンスがベースにある音楽のビート感と同じなのか違うのか? いや違うんだろうけど、どう違うのだろう?
引用部を考えてみると、そもそも踊る音楽と聞く音楽との差異、さらに踊りにテンプレートがあるかないか、などさまざま言える。
日本の踊りはアタック(拍)よりその間がより重要であることを考えれば、必然的にビート感は日本の音楽には薄い。
薄いからこそ日本の阿波踊りなどに対してビート感という言葉は使わない。
無拍の歌を考えれば、リズムの上をのたうつフロウが産まれないのも必然かもしれない。
近、現代の歌曲は別として。
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