非大都市圏での生活は、大都市圏しか知らない人たちが想像するよりもはるかに豊かなものです。たとえ収入が少なくても、その分だけ支出が少なければ、生活の水準は変わらない。だから地域ごとに収入が違っているとしても、それだけでは問題にならない。
問題は全国一律の現金経済に巻き込まれるときに起こります。大学進学はその典型です。国立大学でも私立大学でも、出身地によって授業料が異なることはない。支出する金額が同じであれば、収入の低いほうが厳しい状況に追い込まれます。加えて、非大都市圏から東京圏の大学に子どもを送り出す場合、生活費等のコストが飛躍的に高まります。
必要なのはそこに政策の手立てを講じることです。もちろん、かつての開発国家型「国土の均衡ある発展」論のように、地域の経済格差を縮めようと言っているのではありません。それは企業活動、市民活動、地域金融機関の仕事です。
政策によって均衡させるべきなのは、どの地域に住んでいても文化的な生活が保障され、生命と安全を確保できることにほかならない。地域によって大学進学率に差があるという状態は、国民国家として明らかな失政なのです。
では政治・行政のしくみをどのように変えたらいいのか。それは、市町村や都道府県といった自治体が、そこに暮らす住民と向き合うことから始まります。これまでも長いこと「地方分権」と言われてきたし、主要政党でこの考え方を否定するところはありません。しかしその中身に問題があった。
9月8日、内閣府に置かれている地方分権改革有識者会議で、兵庫県多可町の戸田善規町長(当時)が発言し、国から日々求められる調査・照会事項や、法律などで半ば義務化される計画の策定が、市町村の行政執行を阻害している現実を訴えました。これが「地方分権」の実態です。
たとえば、2016年4月に施行された改正自殺対策基本法では、市町村が「自殺対策計画」を策定することになりました。同法の法文は「(自殺対策計画を)定めるものとする」としているので、これは市町村の義務になっている。
もちろん自殺対策は重要だし、このことに異を唱えるつもりはありません。しかし、どんな市町村にも一律に計画策定を義務づけるやり方で、自殺防止にどれだけの効果があるのか。邪推すれば、国の責任を市町村に転嫁しているのではないかとも見えます。
実はこういう計画策定が最近、目立って増えているのです。これらが市町村の行政能力を超えてしまうと、計画策定を外部のコンサルタントに丸投げしたり、定型的な計画を作文して国への「おつき合い」を果たし、それで済ますことになります。
もちろん、そんなのはおかしい、と批判することはできますが、現実に国から「地方分権」の名のもとに新しい計画づくりが次から次へと降りかかってくれば、市町村としてはそのように対応するしかないでしょう。
第一回の記事で書いたように、自治体の財政破たんは、「地域活性化」と称する国からの事業誘導を真に受けて始めてしまうことから起こるケースが多いのです。むしろ国の言うがままにならず、地域やその住民の実状に向き合って真摯に対応してきた自治体こそ、まちづくりの結果を出しています。
安倍晋三首相が国会で「地方創生」の成功事例としてあげた市町村は、国策に反して市町村合併をしなかったところばかりです。逆に、国に誘導されて合併したせいで議会や役場がなくなり、周縁部化した地域が寂れていく事例は全国に数多く存在します。
もちろん「地域活性化」は重要です。でもそれは、他所から何かをもってくれば成功するというものではない。むしろ、余分なことに投資をすれば、地域社会を崩壊させてしまうリスクが高まるだけなのです。
サッカーにたとえれば、自治体はあくまでも地域社会や市民生活のディフェンダーです。今日の生活を明日も同じようにくり返すことができるようにするのが最大の使命なのです。現代サッカーではディフェンダーも攻撃の起点であることが求められますから、試合の流れのなかで、フォワードである企業活動、市民活動、地域金融機関などにパスをくり出すことはあるでしょう。
しかしそうであっても、サッカーと同じように、守備を崩壊させては元も子もありません。失敗しても何度もチャレンジするフォワードであるより、器用なミッドフィルダーであるより、まずは堅固なディフェンダーであれ――市民は自治体に対してそういう期待を持つべきではないでしょうか。
<第四回「国から『落ちてくる』業務に苦しむ自治体の現実(仮)」に続く>