一体どうなってるんだ、ここの天候は。
朝もやというには濃すぎる霧の中で車を走らせながら、レオンは毒づいた。
レンタカーで空港から目的地を目指して出発した時には空はきれいに晴れ渡っ
ていたし、天気予報でも霧が出るなどとはひとことも言っていなかった。
なのに、30分ほど走って幹線道路から山地に向かう支線に入ったとたん、お
そろしく濃い霧に包まれてしまった。フォグランプを点けても、5メートル先
も見通せない。霧の中に入るのと前後してザーザーと耳障りな音をたてはじめ
たラジオは、今や完全に沈黙していた。携帯電話も圏外ではないはずなのに、
まったく繋がらない。辛うじてカーナビは生きているが、周りが見えない状態
ではそれが正常に作動しているのか心もとない。つまり、レオンは濃霧の中で
孤立してしまっているようなものだった。幸い目的地まではこの先一本道だか
ら他の場所に迷い込むことはないだろうが、到着は予定より大幅に遅れてしま
う。せめて先方にそれを伝えたかったが、携帯電話が使えなくてはどうしよう
もない。「遅刻」にまつわる苦い思い出がよみがえり、レオンは小さく舌打ちを
した。
三日前、カナダ国境に近い山の中の廃坑で、ミイラ化した爬虫類らしきもの
の死骸が発見された。単なる爬虫類の死骸なら珍しくもないが、問題はその大
きさと形状だった。成人男性とほぼ同じくらいのそれは、カエルに似た外見を
持ってはいたが、地上のどの生き物にも該当しなかったのだ。
死骸を見つけたのは、州外から廃坑探検にやって来ていた大学生のグループ
だった。当初彼らはこの発見をマスコミに売り込むつもりでいたらしいが、メ
ンバーの一人が現場で倒れ、レスキューを呼んだために警察の知るところとな
った。正体不明のミイラの写真はFBI経由で国土安全保障省にもたらされ、
B.O.W.の「専門家」であるレオンが確認のために派遣されることになったのだ
った。
それにしても、この霧の濃さはどうだ。ミルクのような濃霧という言い回し
があるが、窓を開ければ本当に液体になって流れ込んで来そうな気がする。
息苦しさのようなものを感じて、レオンはジャケットの下に着込んだコンバッ
トスーツのネックを指で寛げた。カーナビの情報が正しければ、5キロほど先
に小さな町があるはずだった。そこから現地の警察に連絡し、ついでに熱いコ
ーヒーでも飲もう。
センターラインを見失わないように慎重に車を走らせるレオンの視界の隅に、
緑色の看板が飛び込んできた。
「えっ?」
彼は思わず急ブレーキを踏みそうになった。霧の中から突然現れたその看板
に描かれていたのは、忘れようの無いあのマーク-赤と白に塗り分けられた正
八角形-と「Raccoon City」の文字だった。Uターンして確かめたい衝動を、レ
オンは辛うじて堪えた。全く視界が利かないこの状況で道路上に車を止めたり
すれば、大きな事故を招きかねない。第一、ラクーンシティ、いやラクーンシ
ティだった場所はここから数百キロも離れているはずだ。きっと見間違いだ。
そうに決まっている。レオンは、記憶の底から這い出してくる忌まわしい悪夢
を必死に振り払った。
やがて、2キロも進まないうちに霧が晴れ始めたと思ったら、いきなり視界
が開けた。澄み切った空に続くまっすぐな道の向こうに、町のシルエットが見
える。どこかで見たようなそのたたずまいが、不安を煽り立てた。やがて道路
の両側にぽつりぽつりと建物が現れるようになった。レオンはその中の一軒の
前で車を止めた。地方都市の郊外によくある、何の変哲もないドライブインだ。
ダイナーに入ってみると、数人の客が朝食を摂ったり、コーヒーを飲みなが
ら新聞を読んだりしていた。テーブルに就くと、濃紺のワンピースに白いエプ
ロンといった典型的スタイルのウェイトレスが注文をとりに来た。コーヒーを
頼んで携帯電話を取り出す。表示はまだ圏外のままだった。仕方なくレジの向
かいにある公衆電話を使おうとしたが、見かけない形のその電話機は、クレジ
ットカードを入れても全く反応しなかった。小さく舌打ちをして、彼はレジに
いる店員の方に振り向いた。
「この電話機、おかしいんだけど。」
言われた男は面倒くさそうにカウンターの向こうから出てくると、受話器を
受け取った。いくつかのダイヤルボタンを操作した後、男はうんざりした様子
で彼に受話器を返した。
「ちゃんと使えますよ。おたくのカードの期限が切れてるんじゃないです
か?」
「そんなはずは……じゃあ、コインにするから、両替えしてもらえないか?」
「いいですよ。」
レオンの差し出した5ドル札を受け取ったとたん、いかにも面倒くさそうだ
った男の表情が変わった。
「ちょっと待ってて下さい。」
そう言って店の奥に消えた男はなかなか戻って来なかった。手持ち無沙汰の
レオンが何気なく店内を見渡すと、壁に貼られたポスターカレンダーが眼に入
った。南の島らしい風景と花の写真をあしらったカレンダーは、2002年つ
まり3年も前のものだった。だが、貼り替え忘れてそのままにされていたにし
ては紙が新しい感じがする。今気付いたが、店内に流れている音楽も、ちょう
どその頃大ヒットしていた曲だ。
奇妙な濃霧、Raccoon Cityの看板、使えない携帯電話やクレジットカード、そ
して3年前のカレンダー。何かがおかしい。レオンはレジ近くのカウンターで
新聞を読みながらドーナツを齧っている初老の男に声をかけた。
「あの、すいません。今は何年ですか?」
白髪頭に野球帽を被ったその男は驚いたように新聞から顔を上げた。
「何年って、そりゃ、あそこにあるように2002年だよ。」
「ええっ!?あ、いや、ここは……どこですか?」
「ラクーンシティさ。街の中心部まではあと10キロほどあるがね。」
「ラクーンシティって、あの、アンブレラの…」
「そうさ。アンブレラのお膝元のね。」
レオンはそのまま声を失った。ラクーンシティは1998年に合衆国政府の
実行した「滅菌作戦」によって地上から消滅したはずだ。呆然としたままの彼
を、男は訝しげに見上げた。
「なんだ、あんた見ればまだ若いのにボケちまってるのか?まさか、やばいク
スリでもやってるんじゃないだろうな?」
男はもう関わりたくないとでも言うように、また新聞に視線を落とした。ち
らりと盗み見た紙面には大統領が陸軍基地を視察した記事が写真入りで掲載さ
れていたが、その大統領もまた、レオンの記憶にある人物とは違っていた。
いったい、どういうことなんだ。
めまいに似た感覚がレオンを襲う。コーヒーの代金を無人のレジに置き、急
いで車に戻ろうとした時、先ほどの店員が何故かダイナーの入り口に姿を現し
た。傍らに、信じられない人物を伴って。
驚愕に眼を見開いたレオンの唇から、掠れた声が切れ切れに漏れた。
「……マービン…ブラナー……?」
レオンにかけられた嫌疑は偽札の行使とクレジットカードの偽造だった。パ
トカーの後部座席に座り、レオンは運転席で電話をかけている警官を見た。確
かに彼だ。マービン・ブラナー。あの日、ゾンビの巣窟と化した警察署で初め
て出会った人物だった。瀕死の重傷を負いながらも仲間を気遣っていた彼を、
最後には手にかけなければならなかった苦い記憶が甦った。そのマービンが、
2002年のラクーンシティで、こうして警官として働いている。レオンは混
乱しそうになる思考を整理しようと務めた。
「じゃあ、署まで来てもらうぞ。」
マービンは後ろのレオンを振り返ってそう言うと、パトカーを発進させた。
その表情は心なしか固い。彼もまた、店に入ってきてレオンを見た時にはひど
く驚いた様子だった。
15分ほどでレオンを乗せたパトカーは警察署に着いた。もとは美術館だっ
たという建物の重厚な外観や少し入り組んだ廊下も、彼の記憶にあるものと同
じだった。あの夜は不気味に静まりかえり、ゾンビの呻きだけが聞こえていた
署内は、今は明るく活気に満ちている。それが本来の姿のはずなのに、何故か
奇妙に感じられた。
全ての持ち物を取り上げられたレオンは、手錠をかけられたまま取調室の簡
素な椅子に座らされた。正面には二人の私服捜査官が座っている。
「それで、お前はあくまで自分は特務エージェントのレオン・S・ケネディだ
と言うんだな?」
取調べに当たる刑事が、机の上に並べられた所持品の中からIDカードを取
り上げた。
「そうだ。嘘は言ってない。」
「だがね、ケネディ。お前が所属していると主張する国土安全保障省とかいう
組織は存在しないんだよ。」
「国土安全保障省は9.11の後、2002年11月に設立された政府組織だ。」
「ふん。じゃあお前は未来からやって来たという訳か。それに、9.11って何
のことだ?」
刑事は真顔だった。あの同時多発テロも無かったというのか。ことここに至
っては、似てはいるが全く別の世界に迷い込んでしまったと思わざるを得ない。
ゾンビと寄生体の次はトワイライト・ゾーンか。あまりにも多くの異常事態に
遭遇しすぎてメーターが振りきれてしまったのか、もうこの位では驚く気にも
ならなかった。
その時取調室のドアが勢い良く開き、制服姿の男が飛び込んできた。警察官
というよりは軍隊の戦闘服に近いその服の袖には、S.T.A.R.S.と縫い取られ
た青いワッペンが付いている。
「おれのニセ者がいるんだって!?」
「ケネディ巡査!入室を許可してはおらんぞ!」
「しかしですね、自分のニセ者が犯罪をやらかしたとなったら、黙ってられま
せんよ!」
男はそうまくし立てて、レオンの方に向いた。その顔がたちまち強張る。
確かにそれは自分、正確には3年前の自分だった。25歳になっているはずだ
が、それよりも若い(幼い?)印象がある。気味悪そうにレオンをねめつけて
いたもう一人のレオンがやおら口を開いた。
「兄貴がいたなんて話聞いてないぞ。もしかして、あんた親父の隠し子か?」
言うに事欠いて何を言いやがると半ば呆れたが、もし自分だったら同じよう
な事を言いそうな気もする。レオンが黙っていると、S.T.A.R.S.のレオンは
驚いて二人の顔を見比べていた刑事に、バインダーに挟んだ書類を差し出した。
「この件はこっちで対応します。テロ絡みかもしれませんので。これ、本部長
からの指令書です。」
刑事は無言で指令書を繰っていたが、最後のページにサインを書き込むと、
「好きにすればいい。」
と言ってそれをS.T.A.R.S.のレオンに返した。その顔にははっきりと安堵
の表情が浮かんでいた。これでもう、得体の知れない頭のイカれた男と向かい
合わなくて済むとでも言うように。
もう一人の自分に連れられ、レオンは取調室を出た。
「これを被ってくれ。事情を知らない奴に見られたらややこしい。」
S.T.A.R.S.レオンはひさしの長いキャップを彼に渡しながら言った。
「それと、逃げようとか考えないでくれよ。俺だって自分そっくりな奴を撃ち
たくないからな。」
レオンはおとなしくそれに従った。今はそうするしかない。7年前、ゾンビ
やリッカーに追われてさまよった長い廊下を、彼はS.T.A.R.S.オフィスに向
かって歩き出した。
『許可ナク入室ヲ禁ズ』のドアプレートが掲げられたS.T.A.R.S.オフィス
のミーティング・ルームでは、クリス・レッドフィールド以下アルファチーム
の面々が、固唾を飲んで彼らの隊長と二人のレオンのやり取りを見守っていた。
「ふむ。」
アルバート・ウェスカーは組んでいた腕をほどき、黒いサングラスを外して
デスクの上に置いた。自分の部下と、それにそっくりな男に向けられた瞳は、
レオンが聞いていた真紅ではなく、綺麗なブルーだった。『この』ウェスカーは
『あの』ウェスカーと違って普通の人間らしい。
「君の話が本当だとすると…。」
ウェスカーはペンの先でメモ用紙をつつきながら言った。そのメモには二人
から聞き取った経歴が書きとめてあったが、それらは1998年のある日まで
完全に一致していた。
「君はパラレル・ワールドから来たことになるな。奇妙な霧は時空の歪みが生
み出した通路だろう。」
「なに、それ!?」
「嘘だろ?」
「パラレル・ワールドって、SF映画とかに出てくるやつ?」
チームのメンバーが口々に言う。クリスが彼らを制するようにして前に出た。
「それって、どこか別の宇宙に地球と同じような星があって、俺らとそっくり
な人間がちょっと違う人生を送っているっていう。ほら、スター・トレックと
かでネタに詰まったらやる話みたいな。」
「まあ、簡単に言えばそうだな。」
ウェスカーが答えた。クリスはレオンを指差し、なおも隊長に質問を浴びせ
た。
「じゃあ、こっちのレオンがいた世界には、俺らもいたってことか?」
「そういう事になるかな。」
隊員たちの視線が、レオンに集中する。口火を切ったのはやはりクリスだっ
た。
「おれって、そっちの世界でどんな人間なんだ?何をやってる?」
「お、おれは!?」
「あたしは?ねえ?ねえ?」
隊員たちが一気に押し寄せ、さしものレオンも面食らって後ずさった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。おれが面識があるのはクリスだけで、他はあま
り知らないんだ。」
洋館事件やラクーンシティのバイオハザードで無残な死を遂げた隊員にその
事を告げるのはさすがにはばかられた。
「クリスは国連管下の対テロ組織で活動している。ミズ・バレンタインとミス
ター・バートンも同じだ。ミスター・ウェスカーは…。」
レオンはそこで言葉に詰まった。どうやら好人物らしいこっちのウェスカー
に、おたくは洋館事件の黒幕で、今現在も怪しげな組織を作って何やら画策し
ていますとは言えない。
「よくわからないが、警察にはいないようだ。申し訳ないが、おれが知ってい
るのはそれだけだ。」
隊員たちの間から、溜息のような声が漏れた。もっとドラマチックな展開を
期待していたらしい。
「でもさ、隊長。」
それまで黙っていたS.T.A.R.S.レオンがぽつりと言った。
「こいつはアンブレラが開発したウィルスのせいでバイオハザードが起こった
って言うけど、あそこでそんな物騒なもん作ってるんですか?」
「まさか。おれの知る限り、研究所に保管されている伝染性病原菌なんて、せ
いぜい白癬菌くらいのものだ。」
「白癬菌って、あの水虫の原因の?」
と、嫌そうな表情のジル・バレンタイン。
「ああ。おれの友人のウィリアム・バーキンが水虫治療薬の研究をやっててな。
何種類かの株が培養されてたんだが…。」
「そういえば、隊長の本を真に受けた自称テロリストが、細菌目当てに研究所
に侵入したことがあったわね。」
「隊長の本?」
こんどはレオンが尋ねる番だった。
「ああ、ウェスカー隊長はSF作家でもあるんだよ。もう何冊も本を出してる。
『カシオペア病原体』はベストセラーになったんだぜ。」
そう説明してくれたのは、レオンの知らない隊員だった。ウェスカーはちょ
っと照れたように微笑んでいる。
「思えばあれが今までで唯一の、S.T.A.R.S.の対テロ出動だったな。」
しみじみと振り返るようにクリスが言う。
「それで、盗み出された細菌はおれらが消毒薬ぶっかけたんで全部ダメになっ
ちまったんだっけ?」
「ウィリアムの奴、虎の子の細菌株を台無しにされて怒り心頭だったな。あい
つもなあ、自分を実験台にしてまで究極の水虫治療薬『G』を開発したのはい
いが、仕事にのめり込むあまり家庭をおろそかにしてたから、そのバチが当た
ったんだよ。」
「そんなことがあったなんて、知らなかった。」
話に加われないS.T.A.R.S.レオンは少し不満げだ。
「そりゃ、あなたが着任する前のことだもの。」
楽しげに思い出話に花を咲かせる隊員たち様子からは、対テロ精鋭部隊の緊
張感など微塵も感じられない。こちらのラクーンシティはそれだけ平和な田舎
町なのだ。
「そんな調子だから、娘が家出しちまうんだ。たしか、アークレイ山地に迷い
込んだシェリーを探し出して保護したのが、お前の初仕事だったな。」
バリーがS.T.A.R.S.レオンに言った。
「お手柄だったわよね。」
「いや、あれはボランティアで参加してたクレアが見つけてくれて…。おれは
別に大したことは…。」
褒められたS.T.A.R.S.レオンは照れくさそうに頭をかいた。
「そうだ、クレアだ。」
いきなりクリスがレオンに向き直った。
「あっちにはクレアもいるんだろ?あいつ何やってる?やっぱりはねっ返りな
のか?」
「え、クレア?この前会った時は、NGO職員になってバイオテロや薬害の被
害者を救済するために働いていると言っていたが。」
レオンはつい先日、偶然にもハーバドヴィル空港で再会したクレア・レッド
フィールドの颯爽とした姿を思い浮かべた。こちらの世界のクレアもまた、正
義感と行動力に溢れる女性なのだろうかと思った。
「ふうん。あいつらしいや。で、どうなの、あいつ彼氏とかいるのか?」
「いや、プライベートなことまでは……。時々メールをやり取りするだけで。」
「そうか…。」
クリスは落胆したようだった。この、たった一人の妹が可愛くて仕方のない
兄は別世界のクレアのことまでが気になるようだ。
「まーた始まったよ、クリスの過保護が。」
「だってよ、あいつ女だてらに大型バイク乗り回して、アフリカ行ったり中国
奥地いったり、危ないことばっかり…。おれとしちゃ、早く落ち着いて欲しい
んだよ。」
仲間にからかわれてむきになるクリスに、やはりいつも妹を気にかけている
向こうのクリスが重なった。彼ら兄弟の絆を微笑ましく思うのと同時に、肉親
のいない自分の境遇が寂しく感じられた。
「あら、あたしだって女だてらにS.T.A.R.S.隊員なんてやってるわよ。」
「うっ。」
「あの子なら大丈夫。あなたよりよっぽどしっかりしてるもの。装備落っこと
したりしないし。」
「なんだとー。」
「とにかく。」
放っておくとどこまでも脱線しそうになる隊員たちを制するように、ウェス
カーが咳払いをした。
「とにかく、彼がテロリストでも犯罪者でもないことは分かった。あとはどう
やって彼を向こうの世界に帰すか、だ。」
そんなにあっさりと結論を出してしまっていいものかとも思うが、解放され
るのは有り難い。
「そうだな。レオンが二人もいたら紛らわしいしな。」
と、クリス。そういう問題じゃないだろう、とレオンは喉元まで出かかった言
葉を飲み下した。
「で、隊長。どうやったらこいつを送り返せるの?」
S.T.A.R.S.レオンが顎で彼の方を指して言った。自分にこいつ呼ばわりわ
れるというのは複雑な気分だ。
「取り敢えず、今朝霧が出た時の気象条件を調べてみよう。」
言うが早いかウェスかはノートパソコンのキーを操作し始めた。
「ふん。今夜の10時頃に朝と同じ気温、湿度、風向きになりそうだな。その
時刻に霧が出た場所に行ってみるか。」
そう簡単に事が運べば世話はないという気もするが、では他に方法があるか
と言われたら答えられない。その案に乗るしかないだろう。
「よし、決まったな。じゃあその前にちょっと早いけど夕飯食いにいこうぜ。」
とブチあげたのはクリスでなくて誰であろう。
「さんせー!!」
隊員たちが一斉に答えた。どこまでも能天気なラクーン市警S.T.A.R.S.ア
ルファ・チームの面々であった。
暮れ始めた空に小さく星が瞬いている。空気の澄んだ山間部では、ワシント
ンD.C.やニューヨークよりもずっと沢山の星が見える。クラシックなデザイン
の街灯が通りを照らし、映画館やレストランへ向かう車のライトが流れていく。
色とりどりのネオンサインや看板が街に華やぎを添え、行き交う人々の表情を
明るく彩っている。あの夜の惨状からは想像もできないが、これが街本来の姿
なのだ。レオンは、今さらながらこの美しい街を地獄に変えたアンブレラの所
業に怒りが込み上げてくるのを感じた。
通りを歩くS.T.A.R.S.メンバーの横に、紺色のワゴン車が止まった。ウィ
ンドウが下がり、顔を出したのは先ほど話題に上っていたウィリアム・バーキ
ンだった。後部座席にはアネットとシェリーの姿も見える。仕事にかまけるあ
まり家庭をないがしろにして愛娘のシェリーに家出されたウィリアムはいたく
反省し、週末には家族サービスに努めるマイホームパパに変身したのだと、S.
T.A.R.S.レオンが教えてくれた。
「やあ、アル、久しぶり。S.T.A.R.S.のみんなと食事かい?」
「金曜日だからね。そちらも皆元気そうで何よりだ。」
「おかげ様で。再来週の日曜日うちでバーベキューをやるから、良かったら来
ないか?エクセラ嬢だったっけ?あの美人の出版エージェントもぜひ一緒
に。」
「ああ、再来週なら空いてるから行かせてもらうよ。」
「楽しみにしてるよ。じゃ、また。」
去っていくワゴン車の後部座席の窓から手を振るシェリーを見送りながら、
レオンは複雑な心境だった。彼女は髪が伸び、随分と大人びた雰囲気になって
いた。あと3、4年もすればすこぶる付きの美人になって父親をやきもきさせ
るだろう。その一点の曇りもない笑顔に、怯えてうずくまっていた『向こうの』
シェリーの姿が重なった。両親から関心を向けられず、いつもたった一人で孤
独を友としていたシェリーと、両親の愛情を一身に受けて屈託のない笑顔を振
りまくシェリー。あまりの落差に胸が痛む。一介のエージェントの身では、政
府の最高機密事項である彼女の現況を知る術も無いが、せめて元気でいてくれ
ることを願わずにはいられなかった。
一行が向かった先は警察署にほど近いビルの一角にあるチャイニーズ・レス
トランだった。紅いランタンや壁にかかった水墨画がエキゾチックな雰囲気を
醸し出している。
「今夜はS.T.A.R.S.の皆さん、お揃いなのね。」
メニューを読んでいたレオンの耳朶を、低く柔らかな声がうった。もう少々
の事では驚かないと思っていたレオンだったが、ベルベットの声の主を見て思
わず息を呑んだ。象牙色の肌に艶やかな黒い髪の東洋系のそのウェイトレスを、
彼は知っていた。彼女はクリスと並んで座るレオンを見て、驚いたように切れ
長の眼をしばたいた。
「あら、こちらひょっとしてレオンのお兄さん?そっくりなのね。驚いたわ。
初めまして、エイダ・ウォンです。レオンには色々と助けてもらってます。」
と、にこやかに挨拶され、曖昧に笑って誤魔化す。
オーダーを聞いた彼女が厨房に消えると、クリスがそっと教えてくれた。エ
イダがこの街へやって来たとき、置き引きに遭って査証から何から一切合切盗
られてしまった。その際担当になって親身に対応したのが、当時新人巡査だっ
たS.T.A.R.S.レオンで、以来この二人はいい感じなのだと。
彼女とはどこまでいってるんだとか、早くプロポーズしちまえとか、周りの
連中からはやし立てられたS.T.A.R.S.レオンは真っ赤になってあれこれ釈明
しているが、言葉の端々にエイダとの仲が深まりつつあることが察せられた。
頼りになる上司や気のいい仲間に囲まれ、恋人と愛を育んでいるもう一人の
自分。妬ましさが無いといえば嘘になるが、良かったと思う気持ちのほうが勝
っていた。自分にはもう望むべくもないが、彼女と幸せになって欲しい。そう
考えて、レオンはふと可笑しくなった。-まるで、本当の兄貴みたいだ。
美味い中華料理をたらふく食べ、店から出た時には辺りはすっかり暗くなっ
ていた。レオンは澄んだ空気をデザート替わりに胸いっぱいに吸い込んだ。湿
った緑の匂いに、名も知らない花の香りが微かに混じっている。これから車を
回収して山地へ向かう。まずいな、とレオンは内心で思った。心の片隅に、霧
の向こう、つまり元の世界に戻りたくないという気持ちが頭をもたげてきてい
る。ここには自分が望んで得られなかった全てがある。だが、同時にここに自
分の居場所はないのだということも十分わかっていた。
信号が変わるのを待つ間、電気店の店頭に並んだテレビ画面を見るともなし
に見ていたレオンの眼に、ニュース映像が飛び込んできた。大統領が居並ぶ兵
士を前に演説をしている。今朝ダイナーでちらりと見た新聞記事にあった、基
地視察の映像らしかった。整然と並んだ兵士たちの最前列で敬礼を返すひとき
わ立派な体格の男に、彼の目は吸い寄せられた。きっちりと撫で付けられた金
髪に猛禽類を思わせる鋭い瞳、がっしりと張った顎。それは、ジャック・クラ
ウザーに間違いなかった。レオンの手に、孤島の遺跡でかつての戦友を屠った
時の感覚が甦る。バイオハザードが起こらず、B.O.W.も存在しないこの世界で
は、クラウザーは順当に軍人としての道を歩んでいるようだった。そして、こ
ちらのレオンとは一生出会うこともないだろう。
レオンは目を閉じ、空を振り仰いだ。それで、いい。
眼を開けると、途中まで横断歩道を渡っていたクリスが、早く来いよという
ように手を降っていた。レオンは頷き、彼を追って歩き出した。
腕時計の針は9時47分を指していた。昼間とは打って変わって冷え込んで
きた山道にはうっすらと靄が立ち込めている。見る間にそれは密度を増し、濃
い霧となって辺りをすっかり覆い尽くした。それが只の自然現象ではない証拠
に、その霧の向こう側は投光器で照らしたように青白く輝いていた。UFOが
出てきそうだぜ、と誰かが言った。
「下の道は封鎖しておいたから、他の車が来る心配はない。君に関する件は適
当に処理しておく。」
パトカーの前に立ったウェスカーが言った。夜なのでサングラスはかけてい
ない。
「いろいろとありがとう。」
レオンは素直に礼を述べた。
「いや、こちらこそ、興味深い話が聞けてよかったよ。次回作のヒントも貰っ
たしね。」
「あなたの作品が読めなくて残念だ。」
レオンはそう言って右手を差し出した。まさかウェスカーと握手を交わす日
が来ようとは想像もしなかった。
「おれが言うのもなんだけど、元気で。」
と、S.T.A.R.S.レオン。
「ああ、おまえも頑張れよ。」
レオンも笑顔で返す。
「気をつけて行けよ。」
「元気でな。」
隊員たちが口々に言う。
「あっちのおれと、クレアによろしくな。」
「ばっかねぇ。向こうはあなた達のこと知らないんだから、よろしく言われて
も困るでしょ。」
クリスとジルのやり取りに、思わず吹き出してしまう。一人ひとりと握手や
ハグを交わし、レオンは車に乗り込んだ。ライトを点け、エンジンを吹かす。
振り返りたい衝動を堪えながら、彼は霧の壁に向かって車を発進させた。
ミルク色の靄が、たちまちバックミラーに映った隊員たちの姿を覆い隠した。
正面の光がどんどん強くなり、遂には眼を開けていることも難しくなった。
車の中も外も眩しい光に満たされ、体がふっと浮き上がるような感覚がレオン
を襲った。そして次の瞬間。
目の前にすっきり晴れた青空と、見覚えのある標識と道路が現れた。ラジオ
からは軽快な音楽とトークが流れている。カーナビ画面の時刻は8:55A.M。
最初に霧の中に迷い込んでから、ものの10分と経っていない。これならば、
約束の時間にじゅうぶん間に合う。向こうの世界で過ごした十数時間は、こち
らではカウントされていなかったようだった。
携帯電話を取り出してみると、何事も無かったかのように作動している。
試しにこれから訪ねる郡保安官にかけてみると、ちゃんと繋がった。
「国土安全保障省のケネディです。予定どおり、9時半頃到着します。はい、
では現地で。」
自分は本当に元の世界に帰ってきたのだ。あまりにも呆気無く。
レオンはバックミラーに眼をやった。すでに霧は影も形もない。つい先刻まで
いたはずの世界のことが、ひどく頼りなくあやふやに思える。
あれは現実に起きた事だったのだろうか、それとも単調な道と景色が見せた
白昼夢だったのか。
どちらでもいい。どれほど過酷であろうと、ここが自分の生きる世界であり、
現実なのだ。
自らの未来に向かって、レオンはアクセルを力強く踏み込んだ。
Thanks, please back to the labo.