「現代の神話」によせて その2 これから先、おそらくアナキンはごく若いうちに、シス卿ダース=ヴェイダー…「生ける死者」であり「機械」である存在と化してしまうのでしょうが、ある意味ではその事もまた、パドメという「女性」=「生命を生みだすもの」「生命(そのもの)」を通じて、理屈ではなく感覚として「感じた」のではないかと思われる愛という感情が、その後の長い歳月の中でも「すれる」事も「色あせる」事もなく心の奥底に封じられ、いわば「凍結」されたままの状態で保存される事にもつながったのではないだろうか…そう感じているのですね。 そして『ジェダイの復讐(帰還)』において、パドメの息子でもあるルークが、自ら父ヴェイダーとの戦いを放棄し、自分の命を含めたすべてを捨てる事によって、ヴェイダーを救おうとした時…その「(無償の)愛と許し」という「救いの手」そして「人間としての情」「ぬくもり」が、ヴェイダーの心の奥底に「凍結」され封じられてしまっていた、人としての感情…つまり愛を呼び戻したのではないだろうか、そうも感じているのですね。 ルークからさしのべられた「(無償の)愛と許し」という「救いの手」を、「自分の意志」で取ると決断した時、ヴェイダーはシス=「生ける死者」「機械」である状態から「自分の意志」で脱出を果たし…同時に「神(運命)の道具」として「フォースのバランスを取り戻す」ためだけに、仮に人の姿を取って世界に現れた存在に過ぎなかった「予言の子」「フォースの申し子」という状態からも脱出し、初めて「人間」アナキンとして「誕生」したのではないか…そう、私には感じられるのですね。 同時にまた、ルークの「手を取る」という選択をした事は、ヴェイダー=アナキンにとっては、ルーク(とレイア)に託された…つまり、「子供たちをこの世に産みだす」という形で示された、妻パドメの「(無償の)愛と許し」を受け取る事でもあったのではないか…自分は彼女をひどく傷つけてしまったというのに、パドメは二人の間の子供(たち)を葬りさる事なくこの世に産みだし、その子供(たち)は長い時と試練の果てに自分のもとへたどり着き、身を捨てて自分を救ってくれた…それこそがパドメの願い(自分の代わりに、いつの日にかアナキンを救ってほしい)、そして愛そのものだったのではないだろうか…そう思う事によってアナキンの心は救われたのではないだろうか、そうも感じているのですね…個人的にではありますが。 (とはいえおそらく、事実は違っているのでしょうが…「息絶えたパドメの身体から双子が取りだされた」などという可能性の方が、はるかに高いのではないかとも思われますから…ただし、人間である以上、真実つまり「心が感じた事」と事実が常に一致するとは思われないので、そのどちらを大切に思うかは結局本人の決める事だろう、そう思われるのですね…これまた、個人的にですが) また、かつての師…そして本来は愛する友でもあったオビ=ワンが、おそらくは「若さ」ゆえの自分の至らなさを償いたいという気持ちを込めて、その生涯をかけてアナキンに示してくれたと思われる「真実」…ルークを「真の人間性に目覚めた人間」つまり「(新たなる)真のジェダイ」となるよう、導き育てた事なのですが…もまた、ヴェイダーと化していたアナキンの心を溶かし、よみがえらせる事につながったのではないだろうか、そうも思われるのですね。 オビ=ワンがルークに託したと思われる「真実」つまり「友愛」「真心」を、ルークを介して受け取った事によっても、アナキンは「(本当の意味での)人間」となりえたのではないだろうか…そして同時に、「真のジェダイ」としての帰還を果たす事もまた、できたのではないだろうか…そうも感じているのですね。 とはいえ、我が子ルークの…そしてルークに託された、パドメとオビ=ワンの「(無償の)愛と許し」に惹かれたヴェイダーが、「自分の意志」でシスである状態から脱出し、「人間」アナキンとして生きる道を「選択」してしまったという事態は、おそらくシディアス(パルパティーン)にとっては最大の「誤算」「計算違い」であり、「思いもよらない」「まったく理解もできない」事だったのではないだろうか…そう私には思われるのですね。 なぜなら、 シスであるシディアス(パルパティーン)はおそらく、愛をはじめとする「人(の子)」としての生きる喜び、そして「(人間として)本来あるべき生き方」「自然な生き方」を最初からすべて拒否し、完全に背を向けてしまっていたのではないか…したがっておそらく、シディアス(パルパティーン)にとっては、愛というもの…さらにはそれがもたらす「人(の子)」としての生きる喜び(時には苦しみのもとにもなるわけですが)は、最初からすべて「無縁のもの」であり、まったく理解もおよばない事であり、それどころか理解する気さえなかったのではないだろうか…そうも思われるからなのですね。 この、シスとしての生涯における、おそらくはただ一度の「誤算」「計算違い」によって、シディアス(パルパティーン)はヴェイダーに殺されるという、無念の最期を迎える事になるのでしょうが…それはもしかしたら、シディアス(パルパティーン)がシスつまり「悪魔」となり「(人間として)本来あるべき生き方」「自然な生き方」に背いた生き方を選んだ時に、実はすでに決まってしまっていた事だったのかも知れない…そう、私には感じられるのですね。 なぜなら、たとえ本人がどう思っていようとも、人間はあくまでも人間であり、「人を超えた」存在には決してなれない…神にも悪魔にも絶対になれない、そう思われるからなのですね。 なのでおそらく、「(人間として)本来あるべき生き方」「自然な生き方」に背き、人としてのすべてを捨てる事によって、なれる存在があったとしても…それがどれほど絶対的な力を手にしているように「見える」存在であったとしても、その「本質」は「亡者」つまり「(生ける)死者」でしかないだろう…そうも感じているのですね、これも個人的にではありますが。 したがって、人として生まれながら…それだけでなく、天才的な頭脳とさまざまな才能にも恵まれ、それらを自在に生かすだけの実力も備えていながら、しかしついに「(人間として)本来あるべき生き方」「自然な生き方」を見いだす事なく、シス…つまり「亡者」「(生ける)死者」としてのみ存在しつづけたと思われるシディアスは、おそらくは最期まで「(本当の意味での)人間」にはなりえないまま、また生涯にわたって「人(の子)として生きる喜び」「ぬくもり」のすべてと「無縁のまま」、本当の意味での死者となる末路をたどったのではないか…そう、私には感じられるのですね。 なので、シスとなるいかなる理由があったにしろ、またトリロジーにおいては圧制によりすべてを手に入れていたように見えていたにしろ、絶対的な権力をふりかざして多くの人々を苦しめ傷つけ、時には命まで奪っていたにしろ、それでも実はシディアス(パルパティーン)は哀れな存在だったのではないだろうか、そうも思われるのですね。 なぜなら、人として生まれながらついに「(本当の意味での)人間」とはなりえず、おそらくはなろうとする事さえもせず、「亡者」「(生ける)死者」としてのみ存在しつづけ…生涯を終えるその時にさえ、救いの手をさしのべてくれる相手が現れる事もなく、本当の死者となる末路をたどった哀れでみじめな存在…それこそがシディアス(パルパティーン)の「(人としての)真の姿」だったのではないだろうか、そう感じられるからなのですね…これも個人的な印象ではありますが。 おそらくはついに、「(本当の意味での)人間とはなりえなかった」シディアス(パルパティーン)とは対照的に…つまりある意味では「対に」なるような形で、シス=「生ける死者」「機械」である状態から「自分の意志で」脱出する事を「選択した」アナキンは、その時初めて「予言の子」「神の道具」である事実からも脱出し、本当の意味での「人間として」誕生したのではないか…そう、私には思われるのですね。 なので個人的には、ルークに導かれてアナキンが行ったと思われる「選択」…自分の自由な意志によって、「予言の子(神の道具)」としてではなく「1人の人間として」生きる道を選択した事にこそ、『スター・ウォーズ・サガ』という作品が持っている「現代の神話」としての性格が、もっともはっきりと示されているのではないだろうか、そう感じているのですね。 なぜなら、いわゆる「神話(伝説・説話・etc.)」における「英雄」という存在…いわゆる「神の道具」は、多くの場合はそのまま…つまり本当の意味での人間には「なりえない」まま、その生涯を終える(または行方知れず=神隠しになる)事が多いのですが…それに対して、『スター・ウォーズ・サガ』においてルーカス監督に「古典的ヒーロー」と呼ばれ、おそらくは「神話(伝説・説話・etc.)」の「英雄」になぞらえられていると思われる存在であるアナキンは、 我が子ルーク…「真の人間性に目覚めた人間」であり、新たなる「真のジェダイ」でもある存在に導かれて、「自分の意志」で本当の意味での人間となる事を「選択」すると思われるからなのですね。 これはおそらく、これまで語り継がれてきた「神話(伝説・説話・etc.)」における「英雄」という存在が共通して持っていたパターンつまり限界を、アナキンという存在が「打ち破リ」「超えようと」している事を意味しているのではないだろうか…同時に、『スター・ウォーズ・サガ』という「現代の神話」が、これまでの神話が伝統的に守ってきたパターンを踏まえ、尊重しながらも、その限界を「打ち破リ」「超えようと」している事をも、意味しているのではないだろうか…そうも感じられるのですね。 なのでおそらく、ルーカス監督は『スター・ウォーズ・サガ』…「次なる世代(子供たち)への贈り物」と、監督ご本人が言われている…という作品全体を通じて、
を受け取ってほしいと思われているのではないか…また、おそらくはもう1つ、
これもまた、先のものと同様に「次なる世代」に引き継がれていってほしい、そうも願っておられるのではないだろうか…そう感じてもいるのですね。 ではまた ^^☆ (2003/01/21初稿、2005/05/28改稿)
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