フォースのバランスとは


 『エピソードI 見えざる脅威』で登場した、「フォースにバランスをもたらす(取り戻す)」という予言は、どのような意味を持つのか…また、「予言の子」「フォースの申し子」としてのアナキン(ヴェイダー)という存在は、『スター・ウォーズ』世界において、どのような役割を果たしたのか…個人的には、以下にまとめた事につきるのではないか、そう感じているのですね。


  「フォースの申し子」としてのアナキン(ヴェイダー)は、
  • プリークエルにおいては、「ライトサイドに偏りすぎていたために」結果的にフォースのバランスを崩していたジェダイ(騎士団)を滅ぼし、
  • トリロジーにおいては、「ダークサイドに偏りすぎていたために」結果的にフォースのバランスを崩していたパルパティーン(皇帝)を滅ぼし、
 「フォースにバランスをもたらす」という予言を成就させた。

 その結果、『スター・ウォーズ』世界そのものも本来あるべきバランスを取り戻し、世界そのものが滅びるという最悪の事態も回避された。


 個人的には、フォースといういわば「自然のエネルギー」ともいうべきものには、善も悪もないだろうと感じています。
 なので問題は、それを使う人間の側にあるのではないか…「善悪は人のもの、神のものにあらず」という格言があるのですが、まさにその通りなのではないか、そうも感じているのですね。
 ちなみに、この格言で言われている「神」という存在は、キリスト教に代表される一神教の「神」とはイコールではないだろうと思っています…むしろ、「自然」そのものに近い存在ではないかと思われるので、フォースという概念を考えるためにこの格言を引いても、それほどズレはないだろうとも思って
いるのですね。

 話を戻しますと、要するに「何を」起点・起爆剤・きっかけとして、フォースというエネルギーを使うのか…それによって、ライトサイド・ダークサイドといった状態が生じるのではないか、そう感じているのですね。

 なのでたとえば、フォースを使う人間が、「友愛」「思いやり」「許し」などといった感情…こういったものは、普通は「善」とみなされる事が多いだろうと思います…に基づいてフォースを使った場合、フォースの力は使った本人、また周囲の人々の誰をも傷つける事はないでしょう。これがいわゆる「ライトサイド」と呼ばれる状態ではないか、そう私には思われるのですね。

 それに対して、「怒り」「憎しみ」「貪欲」「執着」などといった感情…こういったものは、普通は「悪」とみなされる事が多いと思われるわけで…それに人の身の悲しさ、たいがいは暴走してしまってコントロールできない感情でもあるでしょうね…に基づいてフォースを使った場合、フォースの力は使った本人、また周囲の人々の誰にとっても、破滅的な脅威となるでしょう。これがいわゆる「ダークサイド」と呼ばれる状態ではないか、そうも思われるのですね。

 しかし、これはあくまでも「人の世」のレベルでの話であり、使った本人や周囲の人々にとっての話に限定できると思います。言い換えるなら、「人の視点」からフォースというものを見たり扱ったりした場合の話、という事になるでしょう。
(ついでながら、以上の話はあくまでも「たとえ」に過ぎません…現実がこんなに単純だったら、誰も苦労などしなくてすむでしょうから)

 なのでおそらく、使う人間の在り方が善であろうと悪であろうと、「自然のエネルギー」そのものと思われるフォースの本質には、いかなる影響を与える事もないでしょう。
 またおそらく、人間が使おうと使わなかろうと、フォースが本来持っているエネルギーの全体量が、増える事も減る事もないでしょう…要するに、「神(自然)の視点」からフォースというものを見るならば、「その本質はどのような場合においても、決して変化する事はない」そういう事になるだろうと思います。
(個人的には、理科の時間で習った「エネルギー保存の法則」が、このイメージに近いような印象があるのですが…自然というものは、一見しただけでは変化し続けているように見えるが、実はその「根本」つまり「本質」が変化する事は決してない、とでもいった感じなのですが)


 ただし、フォースのバランスが崩れるといった状態が、現に『スター・ウォーズ』世界では起きていると思われるわけで…おそらくはそのために「フォースにバランスをもたらす(取り戻す)」という予言が必要となり、さらにその予言を成就させる、つまり世界そのもののバランスを取り戻すための存在も必要となるのではないか、そう感じているのですね。

 もっとも、「どのような形で」予言を成就させるかという事までは、本当は決まっていなかったのではないか…当事者アナキンを含む、『スター・ウォーズ(サガ)』の登場人物すべての「選択」に任されていたのではないか…そうも感じているのですね。
 そして登場人物たちが、それぞれの思惑や感情で動き回った結果が、私たちが目にする事になると思われる『スター・ウォーズ(サガ)』…おそらくは最悪の形での、予言の「成就へといたる道」ではないか、そうも思っているのですね。

 なので当然ながら、「別の(成就へといたる)道」は、本来いくつもあったのではないかとも思われるわけで…人の世で起こる事である以上、予言を成就させるためにどの道を「選択する」のかという事は、実は人間たちの「選択」に託されていたのではないか…なので、もしかしたらもっと犠牲の少ない道、そして誰も苦しまなくてすむ道を「選択」する事も可能だったのではないか? そうも思われるのですね…「もし」という言葉に意味がないという事も、良く分かってはいるのですが。
 そして、最悪の? 「選択」をしている登場人物たちを「眺める」方…つまり観客には、実はその方がおもしろくて楽しいわけですが、「眺められる」方…つまり『スター・ウォーズ』世界の登場人物たちおよび一般の人々(エイリアンたちを含む)には、まことに災難な話のわけで…つまり、私たち観客は、他人の災難を見て喜んでいるという事になってしまうのでしょうね…まったく、人間というものは仕方のないものですね、だからこそ興味のつきない存在とも言えるのでしょうが。


 さて、フォースのバランスが崩れるという事態の原因についてですが…。

 個人的には、この状態が起きる原因はおそらく、あまりにもフォースを使う人間(ジェダイ騎士団のような「集団」を含む)の「フォースを引き寄せる力」が強すぎた時に、実体を持たないエネルギーであるフォースという存在が、その「力」に引きずられて一方に偏ってしまい、結果としてバランスを失ってしまう事にあるのではないか、そう感じています。

 なので、ライトサイドだろうとダークサイドだろうと、フォース「そのものが」その一方のみに引きずり寄せられ、偏らされてしまう事は、フォースの本来保たれるべきバランスそのものが崩されてしまう事を意味するのではないか…それはいわゆる「極限状態」であり、フォースというエネルギーの存在そのものをおびやかす事態、言い換えれば世界の存続にかかわる事態なのではないだろうか …そうも感じているのですね。
 そして、このバランスを失った状態が長く続いた場合、最終的には世界そのものが滅びるという最悪の事態につながるのだろう、そう私には思われるのですね。


 ここで、また1つ「たとえ話」をしたいと思います…フォースを「水」にたとえ、入っているコップを
「世界」とします。

 そして現在、コップが極端に右に傾いているとします…当然、中の水は今にもこぼれそうになっています。非常にバランスの悪い状態なので、一刻も早く「バランスを取り戻す」必要がある、そういう事になるでしょうね。
 なので、見ている者(これが運命? 自然? 神? 世界? いわゆる「超越した存在」の事です)は、「手」を伸ばし…この「手」が実は、アナキン(ヴェイダー)なのですね、いわゆる「神の道具」また「予言の子」「運命の申し子」などと呼ばれる存在とは、そういったものではないかと思われます …コップの傾きを直そうとします。

 ところが、勢いあまってコップが、今度は極端に左に傾いてしまいました。中の水はまたも、こぼれそうになっています。これまた非常にバランスの悪い状態なので、一刻も早く「バランスを取り戻す」必要がある、そういう事になるでしょうね。
 なので、見ている者はまたも「手」を伸ばし、コップの傾きを直そうとします…今度はうまく行きました。コップは右でも左でもないまっすぐの状態に戻り、バランスが取り戻され…もう、水がこぼれる心配も、コップが倒れて壊れてしまう心配もなくなりました

 「フォースにバランスをもたらす(取り戻す)」という予言も、本質的にはこの「たとえ話」と同じような事を意味しているのではないだろうか、そう思われるのですが…いかがなものでしょうか?


 とはいえ、この「たとえ話」はあくまでも「神の視点」からのみ、「フォースにバランスをもたらす(取り戻す)」事を考えた話なので、当然ながら「人の視点」のレベルでも、「フォースにバランスをもたらす(取り戻す)」ためになしとげるべき事、またなしとげられるはずの事があるのではないか、 そうも思われるわけですね。

 それはおそらく、人(エイリアンを含む)として生きる事、そのものではないか…人として生まれた以上、どのような存在であっても(仮に人の姿を取ったに過ぎないと思われる「神の道具」「予言の子」であったとしても)人として生きるべきであり、またそう生きる道を「自分の意志で選択する」事が、すなわち「人の視点」のレベルでも「フォースにバランスをもたらす(取り戻す)」事に直結するのではないだろうか、そう私には感じられるのですね。

 なのでまた、先にあげた「善悪は人のもの、神のものにあらず」という格言の通りという事になるのではないか…(また、運命・自然・世界などとも言い換えられるだろう、「超越した存在」)に「善悪はない」、それはあくまでも「人のもの」であり、そうである以上「善悪ともに」心の中に持ちあわせ、その間を行ったり来たりしながら生きている「清濁あわせ飲む」状態こそが、実は人という存在にとってもっとも「自然な状態」「人間らしい状態」となるのではないか、そうも思われるのですね。

 そして実は、こういった真の意味での「人間性」に目覚め、「自己の中で善悪のバランスを取る」生き方…「ライトサイドに偏りすぎず、ダークサイドを見ても溺れない」という、人として本来あるべき「自然な」生き方をなしとげた「人間そのもの」こそ、本当の意味での「ジェダイ」…「真のジェダイ」とも呼ぶべき存在でもあるのではないだろうか…そうも感じているのですね、個人的にではありますが。


 したがって、プリークエルとトリロジーにおいて、それぞれ「結果的にフォースのバランスを崩していた」と思われる、
  • ライトサイドの存在である事にこだわり過ぎるあまりに、「善でしかない」存在となってしまっていたジェダイ(騎士団)
  • ダークサイドの存在である事にこだわり過ぎるあまりに、「悪でしかない」存在となってしまっていたパルパティーン(皇帝)
は、一見すると「正反対」「両極端」の存在でありながら、実はどちらも「人でありながら人らしく生きる事をやめてしまっていた」不自然な存在だったのではないか…その結果、自然のエネルギーであるフォースのバランスを、ライトサイドまたはダークサイドの一方のみに引きずりよせて崩してしまう、世界にとっては「滅びの呼び水」ともいうべき存在にも、なってしまっていたのではないか…そう感じているのですね。

 なので、この両者が最終的にはどちらも「予言の子」「フォースの申し子」として出現した、アナキン(ヴェイダー)という「神の道具」によって滅ぼされ、「フォースにバランスがもたらされる(取り戻される)」結果となったのは、まことに「自然な」成り行きだったのではないだろうか…そうも感じているのですね、これも個人的な印象ではあるのですが。


ではまた ^^☆

(2002/08/21初稿、2004/08/21改稿、2004/09/21決定稿)



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