「女は産む機械」発言より実はビートたけしのほうが怖い
10年前に「女性は産む機械」なんていう発言をしたどこぞの大臣がいたが、私たち、そんな発言を聞いても「脇が甘いぜ」と思うくらいで別に何か傷ついたり侮辱された気分になったりはしない。おそらくそこはかとない男根主義を嗅ぎ取ろうと思えば嗅ぎとれるのだけど、そういったものと対峙し、懐柔し、リモコンする術を、私たちはすでに持っている。
女としてもっと怖いのは、ビートたけしのようなものと向き合うことである。彼もまた芸人として、あるいは東大法学部から大蔵省に入省した大臣以上に、女を排除した世界に生きて頂点に立っている。大臣と決定的に違うのは、そこはかとなく嗅ぎとれるのが女性蔑視ではなく女性をあまりに綺麗なところに置いたままにする姿勢である点だ。そしてもちろん、女であるこちらとしては、「産む機械」なんてお茶目に名付けられることよりも、「君は神」と断ぜられることの方が厄介に決まっている。
私はヤンキー漫画もヤクザ映画も相撲も好きで、それはその圧倒的にマッチョな世界観がこちらとは無関係なファンタジーとして成立しており、よって私にとっては他人事であり、だからこそ思う存分消費できるからだ。そして世界の北野、あるいはビートたけしはそのような世界観を演出することに長けた作り手だ。そして男を完璧に悪く、あるいは愚かに描き、徹底的に貶め、いじめて汚し、簡単に殺してしまうことで、女を神格化してきた。
「アウトレイジ」の初期のコピーは「全員悪人」(最終章では「全員暴走」)であるが、これは正確には「男全員悪人」である。彼の作り上げる笑いの世界が徹底的に女性なしで成立していることと同じで、彼は、女を排除した世界で男の愚かさを演じ続け、作り続ける。登場する女の多くが記号的な脇役でしかないし、当然そこにはあまりに強い「母」のモチーフも見え隠れする。それはあえて私が特記するまでもなく、そうやって独自の世界観が人を惹きつけ、また存分に語られてきた。
で、女の私はそこで、では女を神格化する生身のおじさんとしてのビートたけしにどう対峙するか、というところに興味が湧く。女を神棚の上から降ろさず、ひたすら男の滑稽さを笑う男って、恋人として親として息子としてどうなのか、と。
『アナログ』はほんとうの愛じゃない
このほど、その世界の北野が芸名の「ビートたけし」名義で発表した恋愛小説が話題になっている、というので私も買ってみた。帯には「愛するって、こういうことじゃないか? 狂暴なまでにピュア、初の書き下ろし恋愛小説」とある。読み進める。読み終える。愛するってこういうことじゃないか? いや愛するってこういうことじゃないだろ!
細部は面白かった。サラリーマンである主人公が、喫茶店で見かけた女性に一目惚れして、仕事の都合でなかなか会えない中、思いを募らせていく。バカみたいな男同士の会話も、くだらない上司も、仕事場の空気も、とても軽快で、プロットと同じく奇を衒わない描写はとても読みやすい。喫茶店で落ち合えたときにだけデートをする、という「アナログ」な恋愛関係というのも、オヤジの妄想っぽいけどそれはそれで結構素敵な気もする。
ただ、本作を通じて相手の女性はただの一つも悪いところがなく、何一つ間違っておらず、何一つ矛盾せず、ただひたすら完璧に美しいのだ。弱さも愚かさももちろんない。だから恋愛の障壁や悩みは常に外的要因に頼らざるをえず、最終的には突然降りかかる不運によって、彼女を完璧から引きずり下ろす。そうでないと、愚かしく阿呆な男と、完璧な女神は釣り合わないからだ。私にはそれがいても立ってもいられないほどに居心地が悪い。
女だってダメなところも愛して欲しい
言うまでもなく、女なんて車に引かれなくても分裂しているし片手落ちだし平気で裏切るし気分屋で矛盾だらけなのだ。そしてそこが私たちの、最も可愛らしく愛らしいところでもある。
恋愛の障壁として仕事で多忙だとか家が遠いとかそんな事の100倍くらいのものが、実は私たちの内部に眠っている。その複雑さを丸ごと引き受けるのが愛なのだとしたら、ひたすら外部の障壁と向き合って愛するだけでは、100分の1しか愛してないじゃないか。
男の愚かしさやくだらなさをこれでもかと言わんばかりに描いてきたビートたけしが、女についてはほとんど穴の空いた完璧に綺麗な陶人形、あるいは常に大地のように全てを包み込む母のような認識でしかないのだとしたら、やはり、エンターテイナーとして最高でも、絶対彼氏にはしたくない。私たちは、たけし軍団の下品な振る舞いや殿の破天荒なくだらなさをきちんと眼差して、それでも好きだと言っているのに、向こうはこちらの愚かしさは愛してくれないのだろうか。私たちだって、世間には美しく聡明なところを褒めて欲しいが、彼氏には、くだらなく愚かしいところを愛して欲しい。
愚かな自分しか愛せないおじさんたち
マッチョ思想にもいろいろあって、単純に男の方が重要であるとする人なんて別に脅威でもなんでもない。それより、男の愚かしさに自覚的になりすぎて、女の愚かしさに盲目な男の方が100倍面倒臭い。私たちはいちいち彼らの妄想に付き合うか、絶望させて乗り越えてもらうか、諦めて虚像を見つめる彼らを受け入れるか、悩まなければならない。だって「男ってバカで悪いのばっかり」という彼らの主張は、「バカで悪い男、最高」とも言えるわけで、結局彼らは愚かしい自分たちにしか、全力の愛情を向けていないのだ。
それはおそらく、半分は元々彼自身のなかにあったもので、半分はいろいろ見すぎて大人になり達観しすぎたから芽生えたものなのだろう。彼の、これまでのオネェちゃん遍歴を見れば最初からオンナを神扱いする気などなかったのは明らかで、でもそれはどの時点で変換されたのか、あるいは超越してしまったのか、70代男性になったことのない私にはよくわからない。ただひたすら、今の彼の眼の前に立ちたくない、というのがオンナとしての私の正直な気持ちだ。
北野武映画では、「TAKESHIS’」のラストで浜辺に腰掛ける主人公とヒロインの姿が私は好きで、「HANA-BI」の重たいラストシーンと重なる構図でありながら、終始ふざけた映像を見せられた後に見る浜辺はなぜかとても清々しく思えた。同作のおふざけっぷりは群を抜いていて、生々しく、矛盾だらけで、くだらない。意味不明で、けばけばしく、奇妙。それこそが実際に男が生きることのリアルと滑稽さのように思えた。
当然、それは女の私には理解不能な代物だが、私たちが女版「TAKESHIS’」を作ったら、それは同じかちょっと上を行くくらいやべーやつになるはずで、そのやベーやつを愛してくれない男なんて、私たちに本気で向き合ってくれるわけないのだ。
今週の参考文献
- 栗原康『村に火をつけ、白痴になれ——伊藤野枝伝』(岩波書店、2016年)
- ビートたけし『アナログ』(新潮社、2017年)
- 『映画監督、北野武。』(フィルムアート社、2017年)
- 宇野常寛『母性のディストピア』(集英社、2017年)
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元キャバ嬢・AV嬢で元日経記者の著者が、夜のオンナたちの桁外れな、ときに地に足のついた「お金の稼ぎ方&使い方」を徹底リサーチ。 4年間で8000万稼ぎすべて使い切った女子大生風俗嬢、ホストクラブで一晩1600万使うキャバ嬢、 母乳風俗で月80万を稼ぐシングルマザー、高級ソープ嬢をしつつ空いた時間にデリヘル勤務するワーカーホリックの女——お金と幸せと若さを持て余して迷走しまくっている、愛すべきオンナたちの実態を描き出す。私たちの人生と切っても切り離せない「お金」について、今一度考えさせられる「オンナの現代資本主義論」!