今年の「新語・流行語大賞」候補に、こんな言葉がノミネートされた。
「藤井フィーバー」
これを持ち出すまでもなく、これほどまでに将棋が注目された1年はあっただろうか。
そして、そのムーブメントの中心にいたのは藤井聡太四段だった。
説明も不要かと思うが、藤井は2016年10月に四段昇格を果たし、史上最年少かつ史上5人目の中学生プロ棋士となった。
そして2016年12月24日、加藤一二三九段とのプロ初戦から着実に勝利を積み上げ、公式戦連勝記録は「29」を数えた。連勝記録更新が近づくたびにその戦いぶりはテレビで中継され、対局結果がトップニュースで報じられる。普段から将棋に親しんでいる人々にとって、にわかには信じられないような日々だった。
それに呼応するかのように、7月19日に15歳となった藤井だけでなく、加藤をはじめとした棋士のパーソナリティー、時には「勝負めし」など、様々な観点で将棋は脚光を浴びた。加藤の愛称である「ひふみん」だって、先の新語・流行語大賞候補になりトップテン入りを果たした。なお、「藤井フィーバー」はトップテン入りを逃したものの、藤井が樹立した記録「29連勝」は選考委員特別賞を受賞している。
将棋界への注目度が明らかに上がった。2017年とはそんな1年だった。
「私自身も信じられなかったですよ。人に会う機会が3、4倍と増えましたからね(笑)。将棋界全体の認知度も上がりましたし、プロ棋士という存在に興味を持っていただける機会となりました」
杉本昌隆七段は、こう語り出した。
将棋ファンならもちろん、ブームを契機に将棋のテレビないしウェブ中継を見始めた人もなじみがある名前だろう。杉本七段が登場する際には、枕詞のようにこんな説明を聞いたのではないか。
「藤井聡太四段の師匠である……」
才能の原石をプロに導くことになったのが、杉本昌隆という人物だ。
今連載の1回目として、将棋に再びスポットライトを当てた藤井をよく知る、師匠の杉本に話を聞きたい。その思いから取材が実現する運びとなった。
聞きたいことは山ほどある。藤井聡太という才能、人柄についてはもちろんだ。その一方で長年にわたって勝負の世界に身を置いてきた、杉本という棋士としての人となり、歩んできた道のりも知りたい。「コーヒーでも飲みながらお話ししましょう」と、杉本は物腰の柔らかな口調で話し始めてくれた。
大人びている一方で「負けん気の強い少年」でもある
藤井に注目が集まるのは本分の将棋とともに、語彙力である。
「望外(ぼうがい)」、「僥倖(ぎょうこう)」、「節目(せつもく)」。
彼は中学生、いやそれより上の年代でも使わない表現を用いることがある。それ以外にも記者からの質問に対して「そうですね……」と少々思案してから紡ぎ出す言葉は、10代中盤とは思えない貫禄さえ感じさせる。
ただ小学1年生の頃から藤井を知る杉本にとって、それは彼のすべてではないことを教えてくれた。
「(当時から)言ってることはずいぶん大人びてるな、という印象でした。ただその一方で、かなり気持ちも熱いです。皆さんには冷静沈着なイメージがあるのかもしれませんが、“静か動”で言えば動のタイプで、負けん気が強い少年ですから。あと、普段は結構『やばい、やばい』と言っていたりしますしね(笑)」
思い当たる節はある。
デビューからの連勝記録をひた走っていた2017年6月7日の第2回上州YAMADAチャレンジ杯2回戦、阪口悟五段との対局でのこと。自らのミスに気づいた藤井は、自らを戒めるかのように自身の太ももを叩いた。冷静沈着な彼が一瞬見せた“闘争心”だった。
師匠という立場もあり、杉本は藤井の解説を務める機会も多い/Abema TV「魂の七番勝負」より
「天才 藤井聡太(文藝春秋・刊)」にも小学校時代の藤井が敗戦したときのことについて、こんな描写があった。
『「負けました」――そういって敗北を認めた直後、対戦相手がいる前にもかかわらず盤にむしゃぶりつく様に顔を埋めて泣くこともあった。シクシクと涙をこぼすのではなく、号泣するのである』
言うまでもないことだが、プロ棋士は一局一局の勝敗がすべての世界である。それだけに勝利を希求する気持ちは強い。杉本が藤井のことを「負けん気が強い」と称するのも自然なことなのだろう。
杉本は、弟子の1人として藤井に接している。だからこそ見える別の素顔もある。
「私といるときは師匠と弟子の関係なので、普段の素を出しにくいでしょうね(笑)。ただ私が見ている感じだと、2、3歳くらい年上の他の弟子と仲良くしていて、彼らと将棋を指しているときは非常にリラックスしていますね。普段はのびのびと、思ったことを言いながら指している感じですよ」
ちなみに師弟は、ともに食事へ出かけることがあるという。行きつけの店を聞いてみると「名古屋だと陣屋ラーメンとかですね。よく食べるのはメンマラーメンなど……」と、食事でも素顔がチラリと覗いた。
杉本と藤井は愛知県在住である(杉本は名古屋市出身、藤井は瀬戸市出身)。日本将棋連盟は、関東は東京・千駄ヶ谷、関西は大阪・梅田にほど近い場所にあり、棋士はいずれかで対局に臨む。それもあって首都圏や関西圏に居住する棋士が多いが、2人は愛知県から通ってプロ生活を送っている。
杉本は奨励会時代の18歳からプロ入り後の21歳まで大阪に在住した経験を持つ。「プロとしての環境を考えると、大阪や東京に比べて愛知が勝ることは1つもないです」と笑みをこぼしながら話した杉本だが、このように続ける。
「『便利さ=強さ』ではないです。自分は18歳の奨励会三段になるまで、
杉本の将棋観を変えた二局とは
杉本の棋士としての実績についても触れておきたい。
11月13日に49歳となった杉本が将棋に出会ったのは小学2年生の頃。テレビゲームもない時代、家の中で遊ぶゲームといえばトランプなど。そんななかで出会ったのが将棋だった。杉本少年が面白味を感じたのは「桂馬の動き」だった。
「他の駒を飛び越えてくれるというのが、すごく面白かったんですね。今は桂馬というよりも角行の方が好きなんですが(笑)」と冗談めかしたが、楽しかったからこそ将棋に打ち込めたのだった。
小学6年生でプロ棋士を目指す養成所である奨励会に入ると、21歳でプロ入り。棋士の戦法は「居飛車」と「振り飛車」の2つに大きく分かれるが、杉本は後者で、体系化されていなかった「相振り飛車」という戦法の発展に寄与した人物である。
公式戦ではテレビ対局として知られるNHK杯でベスト4(1998年度)、スポーツにおける年間のリーグ戦にあたる順位戦でも、上から2番目のグループに当たる「B級1組」、高額の優勝賞金が出ることで注目される竜王戦でも最上位クラスとなる「1組」に在籍した経験を持つ、れっきとしたトップ棋士の1人である。
杉本は自らの持ち味を「持久力があること」と語る。将棋は対局時間が12時間を超えることも珍しくない。“考えながら座り続ける”のは、想像以上に体力が要求される。杉本はその辛抱強さに長けているのだ。
そんな杉本にとって、ターニングポイントは2つの敗戦にあったそうだ。それは1997年7月、深浦康市九段、そして羽生善治棋聖という名棋士相手の対局だった。
「深浦(康市九段)さんが五段か六段の頃、対局した時のことでした。夜の23時に千日手で指し直しになって、終局したのは朝5時でした(笑)。最後は負けたので自分の中では悔しい思い出なんですけど、その将棋を指していた時に、今までの将棋観が少しずつ、先入観とか固定観念が壊れていくような感覚を味わいました。それは雪が解けるような感じで、『将棋って、なかなか終わらないものだな』とか『勝ちそうでもなかなか勝てないものだな』と実感しましたね。
その1週間後にも羽生(善治棋聖)さんと指す機会があって、結果としては200手を超える長期戦の末に敗戦しました。ただ、これらの対局を経て、考え方がすごく柔軟になれたというか。それまでは技術で勝ちに行っていたのですが、将棋というのは内容で勝つのではなく、勝負で勝たなければいけないということを感じました。技術を覚えることも大事ですけど、突き詰めると思考能力、頭がよくなることが将棋に勝つことなんですね。柔軟な思考を持つことも大事ですし、それは将棋を勉強していなくても身に付くものですから」
見逃せない藤井の「6敗」の中身
敗戦から得ることは数多い――。師匠の言葉は、弟子にも同様のことが言えるのではないか。
藤井は2017年11月21日に行われた王座戦1次予選で勝利し、通算50勝を達成した。未放映のテレビ対局を除けば、50勝6敗。その勝率は.892という圧倒的な数字だ。中原誠十六世名人の.855(1967年度)、中村太地王座の.851(2011年度)、羽生善治棋聖の.836(1995年度)を上回る可能性もある。
ただ勝利数とともに、「6敗」も、実は見逃せないものである。
特に、対局した棋士の面々だ。
連勝記録を止めた佐々木勇気六段を筆頭に、三枚堂達也五段(当時)、井出隼平四段、佐々木大地四段。彼らは、藤井とともに今後の将棋界を背負って立つホープとして期待されている。
また、8月に藤井との対局に勝利した菅井竜也七段はその後、王位戦で羽生から同タイトルを奪取。同じく藤井との対局に勝利した豊島将之八段も、11月22日時点で第76期順位戦、最上位のA級で5連勝中。いわば、藤井は“トップ・オブ・トップ”の洗礼を浴びる形となった。
藤井はトップクラスの棋士との対局も経験してきている/Abema TV「魂の七番勝負」より
筆者はAbemaTVで放映された「魂の七番勝負」(23歳以下の若手棋士がトップ棋士と対戦した企画)で、藤井と行方尚史八段の対局を取材した。40代のトップ棋士の1人である行方との見ごたえある終盤戦のねじり合いの結果、藤井が132手で勝利。
対局後の囲み取材にて、前述した菅井戦、豊島戦の敗戦について藤井本人に聞いてみた。トップ棋士との戦いで何を感じ取ったのかを聞きたかったのだ。
質問に対しての答えは、こうだった。
「そうですね……。公式戦でもトップの先生方と当たることができて、皆さんは視野を広く読まれているな、というのを肌で感じてきました」
この話を杉本にしてみたところ、「自分で何が教えられるか、というのは思い上がりですけど」と師匠は前置きしたうえで、普段から弟子に伝えているという自身の経験則を教えてくれた。
「よく言ったことは一喜一憂しないことです。もともと本人も切り替えが早く、素養があったとは思いますが、棋士人生は長いので、負けて落ち込んでたらキリがないですからね」
敗戦と向き合いつつ新たな勝負に挑むことで、棋士として、人として成長していくのだろう。
杉本の師匠である故・板谷進九段は第1回将棋大賞・殊勲賞を受賞した実力者だったが、1988年に47歳の若さで逝去した。当時、杉本の年齢は19歳。奨励会で最も過酷といわれる三段リーグ戦に臨んでいる頃だった。
師匠という存在の重みを知る杉本は、藤井に集まる世間の注目、そして師匠としての役割を冷静にこう話していた。
「連勝新記録こそ作りましたけど、タイトルを計98期獲得されている羽生さんと比べるのはおこがましい話ですし、(藤井は)まだまだ新人です。本人の意思に関係なく、時間を削って、取材を受けたり、イベントに出たり、というのは違うと思うんです。これをやってしまうと、彼自身の目的、プロ棋士として強くなることから遠回りになるでしょうから」
「NHK将棋講座」2017年12月号に杉本が寄せた文章には、このような一節がある。
『藤井は棋士ではあるが、まだ中学3年生の15歳。数年先が本当の師弟関係だと思っている』
プロ1年目は、たしかに華々しかった。ただ、藤井の棋士としての生活はこれから何年、何十年も続いていく。杉本はその歩みをしっかりと見つめようとしている。
(敬称略、段位などは2017年11月時点のもの)
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取材・文:茂野聡士
1982年11月4日、東京・板橋生まれ、実家は豆腐屋の編集者兼ライター。学生時代に大学スポーツを取材していた縁から、スポーツ紙勤務の後に「NumberWeb」などで各種スポーツの執筆・編集に携わる。「月刊少年チャンピオン」に掲載された「ナリキン!」という漫画でのインタビュー企画を契機に、将棋の奥深さに見出されている。構成担当に「サッカー選手の言葉から学ぶ成功の思考法2014」などがある。