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shi3zの長文日記 RSSフィード Twitter

2017-12-05

Think globally, Act locally もっと人類のことを意識しよう 08:23 Add Star

 高校生の頃、誰が行ってたか覚えてないが、「Think Globally、 Act Locally」という言葉を何度も聞いた。


 流行ってたのかな。


 僕の高校は新幹線が停まること以外にとりたてて特徴のない浦佐という場所にあった。


 基本的になにもないところに駅を作るのが、田中角栄のクセというかやり方だった。まあこれは阪急の小林一三も同じ。


 なにもないところに駅を作って、ついでにそこに何かを作る。


 浦佐の場合、その「なにか」とは国際大学だった。


 浦佐には、やたら国際という言葉が多い。

 いやいや待て待て。地下鉄はおろか空港すらない場所で国際というのはどういうことか。


 たとえばスキー場は浦佐国際スキー場という。


 なんで国際なんだ?どこが国際なんだ?という疑問を抱いたまま、ずっとどうでもいいやと思って放置していたのだが、地元に会社を作るにあたり、「なんか知らないけど国際大学って名前の大学があるんだよね、この何もない液に」という話を東京生まれ東京育ちの友達にしていたら、「なんで?」と聞かれ、調べてみると、驚いた。


国際大学(IUJ)(こくさいだいがく、英語: International University of Japan)は、新潟県南魚沼市国際町777番地に本部を置く日本の私立大学である。1982年に設置された。大学の略称はIUJ。 日本初の大学院大学(後述)。学内の公用語を英語にした日本初の高等教育機関でもある。




(中略)




国際関係学研究科は、世界の名門校の集まりである「国際関係大学院協会(APSIA)」に準会員として加盟している[5]。また、東京大学一橋大学政策研究大学院大学とともに、国際通貨基金IMF)奨学金プログラムに基づき、アジア各国の財務省・中央銀行職員の学生の受け入れる指定校の一つである[6]。


国際経営学研究科(ビジネススクール)は例年、日本から唯一、有力な経済週刊誌の英国エコノミスト誌で、世界のトップスクールの100校中の1校にランクインしている[7]。各種調査において「アジアNO.1のビジネススクール」になることを目指している。


文部科学省は2014年9月、国際競争力の強化に取り組む大学を支援する「スーパーグローバル大学創成支援事業」の「グローバル牽引型大学(全国24校)」に指定した[8]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/国際大学

 な、なんだってーーー!!ΩΩΩΩ


 国際町という地名があるのか。というか明らかに学校を作るときに命名された地名くさいけど。

 そ、そんなすごい大学だったとは・・・


全寮制。学生が寮生活を通じて、異なる宗教や文化的な背景を持つ人と深くかかわることにより、多文化状況に対応できる人格形成、ネットワーク構築を目指している。

新潟県南魚沼市のキャンパスは、欧米の単科大学院をモデルにしている。東京都港区六本木には東京事務所、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)がある。


 つうかGLOCOMかよ!!!

 東浩紀がいたところじゃん。



 びっくりした。

 本当にびっくりした。


 というか今Wikipediaを読み返して知った。

 


 Think Globally、 Act Locallyっていう言葉は60-70年代の環境保護運動のときの標語らしい。


 地球的な視点で考えて、まずできることから行動しよう、ということだな。

 まあペットボトルのキャップを集める、みたいなトンチンカンなものもあるが。


 そういう意味では、僕はあらゆる仕事に携わる人がもっと人類のことを意識したほうがいいのではないかと思う。いやしなくてもいいんだけど。意識したほうが楽しいんじゃないかと思う。


 バタフライ効果じゃないけど、複雑系である人類社会は、インターネットによって昔よりもずっとレバレッジが効いたバタフライ効果を起こすことが出来るようになった。新潟のスーパーの店員だったHIKAKINが子どもたちのスーパースターになったり、PPAPが一夜にして世界コンテンツになる時代である。


 インターネット以前の時代、普通の人々はそれほどおおきな発信力を持たなかった。


 僕が自分で書いた本の読者の総数よりも、ブログやネット上の連載などで僕の文章を読んだ人の総数の方が十倍以上多いはずだ。


 ちょっとしたアイデアが、人類の未来にちょっとした影響を及ぼす。そのちょっとした影響が重なって、人類の未来の方向性が決定される。


 「人類にとって価値のある仕事」というのは、誰もやってないことをやってみること、だと思う。それは既存のネタの組合せでもいいし、それが料理であろうがヒューマンビートボックスであろうがレビューであろうが罵詈雑言であろうが構わないんだけど、とにかく「人と違うことをやろうとする力」がどうも軽視されてる気がする。


 学校で浮いてる人というのがいる。たとえば僕だが、浮いてる人が、なぜ浮いているかといえば、「人と違う」からだ。「あいつと僕達は違う」という一点のみにおいて、浮いているのである。


 「あいつと僕達は違う」という本能は、蟻でも持ってる。みんなで集まったほうがいい、という本能は蟻にもある。だから蟻は群をつくり協力して巣を作り、協力して餌を確保する。


 小さな集団のなかで「あいつと僕達は違う」と変わった個性の人を排除するのは、要するに昆虫並の本能なのである。


 確かに、人類が野蛮な時代は、それはそれなりに有効な生存戦略だった。


 「僕達とは違うあいつ」を群れから追い出し、自分たちの権益を守ろうとすることで、群れがバラバラになることを防いだり、食料が足りなくなったときに分け前を減らす口実に使ったりした。


 「僕達とは違うあいつ」として排除された人間は、本人自身に生存能力があれば、「自分とは違った連中」を無視しても十分生き残ることができた。


 そうして人類は「多様な群れ」を作り、群れの多様性を確保することで、種全体を守っていったのだ。


 しかしそれは原始時代から少し前くらいまでの時代の話である。


 都市が出現すると、人類は群れを作る必要性を喪失した。

 いま、都会に住んでいて、同じマンションに住む他の住人と「群れ」をなしてるという意識を持つ人はほとんどいないだろう。


 むしろ「群れ」を構成しているのは職場である。

 職場のチーム、班、課、ビジネスパートナー、仕事仲間、そういったものが現代の「群れ」である。現代の「群れ」では、「僕達とは違うあいつ」という概念は喪失する。なぜなら、違った個性を持った人間を集めるのが、クリエイティブな群れ(チーム)を作るために不可欠というのが、もはや共通認識になりつつあるからだ。



 もし、「僕達とは違うあいつ」を排除しようといった、原始時代のような発想がある職場が存在するとしたら、それはクリエイティブな職場ではない。



 インターネットが登場すると、その傾向はますます高まった。インターネットにおいては、とにかく人と違った個性の持ち主に価値があるのだ。


 誰かの個性を真似しようとすれば、「二番煎じ」と呼ばれ飽きられる。もし真似してもいいものがあるとすれば、もう現役でない人の真似だけだ。


 たとえば、「どこにでもあるような内容のブログ」に価値を見出すのは難しい。「ここにしかないことが書いてある」ということがとても重要なのだ。



 僕が長文のブログを書くときにできるだけ気をつけているのはそういうことだ。

 短いエントリの場合はどうでもいいことを書くことも多いが、長文の場合はここにしかないと少なくともその時点の自分が信じることを必ず盛り込むようにしている。



 なぜか?


 実際のところ、僕は自分のブログが読まれようが読まれまいが基本的にどうでもいいと思っている。

 PVを確認したりするのもとっくにやめてしまったし、本の執筆依頼が来て、引き受けてもぜんぜん書けてない。それなりに現業が忙しいからであり、いいことではあるのだが、もはや自分の本が誰かに読まれる必要すらないと思っている。


 自分がなぜアウトプットをするかといえば、自分のためである。

 僕にとって一番の読者は僕自身だ。昔は迷いもあって、僕ではない人に向けて書いた本もあるんだけど、そういう本は読み返したくならないし、実際にセールスも振るわない。やはり僕には、僕が読みたいものを僕のために書いて、ついでにそれが読みたい人が読む、というスタイルがあってるらしい。


 僕は自分で書いた本を読み返すことが多い。

 面白いからだ。少なくとも僕にとって。


 東京トイボックスという漫画に、主人公の天川太陽というゲームデザイナーが、「やはり俺の作ったゲームは俺のツボを突く」というセリフを言うシーンがある。自分が面白いと思う方向に修正するのだから当たり前なのだが、実際にはそんなに思い通りにいくことはない。


 ゲームは総合芸術なので、「もっとヒロインを俺好みに寄せろ!」と言える人は少ない。それこそ様々な個性を持った人たちが集まって「あーでもない、こーでもない」と言いながらモノを作るのがゲームなので、「もっとスカートを短くしろ!」と言っても「嫌だ!」と言われたらおしまいである。


 映画もたぶん似たようなものだろうが、映画の場合、監督は最後の最後で「このカットは撮影したが使わない」という強硬手段で突破できるが、ゲームの場合はボツるのが難しい場面もある。あと、そもそもプログラム的にバグってて原因がわからないから諦めなければならないという制約もある。


 映画に出てくるヒーローは、まさに独特の個性を持った人たちの集合である。これは映画製作という作業そのものが、監督、俳優、カメラマン、衣装、照明、メイク、美術といった、様々な個性と才能を持った人たちの集まりであるため、映画製作の現場において、ヒーローとは多様性を持った人々の集まりである、と考えるのがむしろ自然なんだろう。アベンジャーズジャスティスリーグも、巨災対も特車二課もそうだ。アイアンマン単体で見ても、アイアンマン一人だけで闘うことはほとんどない。秘書のペッパーやJARVIS、米軍のローズといった仲間が力をあわせてアイアンマンが成り立つようになっている。


 しかし実際の会社では、多様性を持った人たちを集めるのは至難の業である。


 職業柄、いろんな企業と接しているが、企業によってそこにいる人のカラーというのはほとんど同じになる。

 この傾向は、大企業であればあるほど強まる。


 早稲田の人には早稲田っぽさ、慶應の人には慶應っぽさがあるのと同じ以上に、同じ会社のプロパーの人は、同じようなカラーの人間になる。


 実はこれこそがイノベーションのジレンマなのではないかと思う。


 会社が小さいときは、会社は人を選り好みできないので、必然的に個性を持った人たちが集まる。もしくは、創業者が個性を持った人たちを集める。


 たとえばIT企業なら、経営、経理、総務、財務、人事、広報、営業、開発、企画、広告、といった具合だ。もちろん最初はこの全てに人を割り当てることができないので、少人数で兼務することになる。


 経営者としての能力は、この段階でどんな人を集めることが出来るか、ということである程度ベンチマークできる。僕は必ず、誰かから会社を作る相談をされるときに言うのは、「決して友達や幼馴染と会社を作るな」ということである。


 若い頃からの友達や幼馴染というのは、要するに自分と同じ傾向の人間である。

 最初の人事にそういうことをすると、人材選択に多様性がなくなる。多様性がない場合、その組織の意思決定はかなり怪しくなる。たとえ下っ端のアルバイトであっても、小さな会社の意思決定に影響を及ぼすことがある。



 社長の見える範囲にいるものは、全て会社の経営に影響を及ぼす可能性があることを社長はもっと意識しなければならない。


 話を戻そう。


 多様性を持った組織が強い、という概念を人類にまで広げてみよう。

 人類はどうしてこれほどにも急速な発展を遂げることができたのか。


 ひとつの鍵は、やはり多様性である。


 たとえばあるものが、芸術であるかどうか、どのように定義すればいいのだろうか。



 僕は河口洋一郎先生の「宇宙のカニ」を始めとする一連の作品がずっと理解できなかったのだが、河口先生に誘われて、東京ドームで開かれた先生の展覧会に行って「なるほど」と思った。


 この「なるほど」と思った理由を説明するのはほとんど不可能なんだけれども、とにかく突き抜けていて、それを繰り返していると、それは芸術と呼ばざるをえないものになるのだと感じた。


 草間彌生もそうで、六本木の草間彌生展に行くと、草間彌生の狂気的なまでに繰り返され、繰り返されるがそれぞれが違う作品群に圧倒された。


 「繰り返されるが、違う」というものを作ることを繰り返すのが、おそらく芸術なのだろう。


 数年前に書いた僕の本の大半は、東十条にあるやきとん屋、「埼玉屋」の土曜日に行列している時間に書き上げたものである。

 

 あるとき、気心の知れた友人を埼玉屋に連れて行ったとき、彼女が深く感動して、「すごい美味しいし安いし!なんてコスパがいいの!?」と言ったとき、僕は自分の中の大切にしていたものを傷つけられたようでカチンと来て喧嘩になった。


 「埼玉屋のコースは価格も含めて芸術だ。それをコスパなんていう概念でくくらないで欲しい」


 そのとき確かに僕は埼玉屋を芸術だと思ったし、それを大事にしている自分を傷つけられたと思った。今でも芸術だと思っているが、なぜ埼玉屋が芸術で、鳥貴族は芸術ではないのかという定義は見つけられていない。


 鳥貴族はマスプロダクションだが、マスプロダクションは芸術ではないのか、という問題はある。


 だが初代プレイステーションは芸術だと思う。Xboxは違う。


 このあたりの定義や感覚は、もはや変人にしかわからないだろうから、どうでもいいんだけど、ケイのDynabookは芸術で、Macintoshは違うのか(とかいうとにわかジョブズ信奉者にdisられそうだが)


 一つ言えるのは、芸術に失敗作はないが、マスプロダクションに失敗作はあり得るということだ。

 少なくとも初代Macintoshは失敗作だった。Windows1.0もそうだ。NeXT Cubeも。


 AppleIIは芸術と言えるかもしれない。


 しかし失敗作に価値が無いのかといえば、そんなことはない。MacintoshがなければWindowsはバージョンアップされなかっただろう。


 初代Macintoshがなければ、次も、その次も、当然、今のiPhonemacOSもない。


 話を整理するために、製品の芸術性と、製品としての成功/失敗で分けて考えよう。


 製品の芸術性は、やはりどれだけ個性的かで決まると思う。PSIONHP200LXOlivetti Quaderno33は芸術的である。他にない、という意味で。どれだけ尖っているか、という意味で芸術的だ。その意味ではロボホンも含めていいかもしれない。このくくりだと、Macintosh、LISA、NeXT Cubeは全て芸術的製品だと呼ぶことが出来る。もちろんiPhoneもiMacも含まれる。


 芸術は消費される。


 今でも、古代ローマの彫刻を見ると感動するが、そのレプリカを自室に飾りたいと思う人は少数派だろう。

 MacBookProのデザインは、タッチバーがついたくらいしか変わってない。変化に乏しいバージョンアップは、やはり芸術性が下がる。


 ヒカキンに話を戻すと、ヒカキンは芸術的である。他に同じことをやる人がいなかったという意味で。その意味ではPPAPも芸術的だ。


 スティーブ・ジョブズのThink Differentキャンペーンに、エジソンやアインシュタインといった、文字通り人類的な発見を行った科学者・発明家や、ガンジーマーチン・ルーサー・キングといった政治的指導者に混じってボクサーのカシアス・クレイ(モハメド・アリ)や、ジョン・レノンが含まれていたことに最初は違和感を感じた。ジョブズは「彼らが人類を前進させた(They push the human race forward)」と語った。



 どういうことだろう。

 世界的ヒット歌手とボクサーが人類を前進させるとはどういうことなのか。


 しかし芸術こそ人類を前進させるのだという解釈に立てば、誰だって人類を前進させていることになる。

 人と違うこと、変わったことをひたすら続ける、ただそれだけでいい。「違うこと」が芸術性の基準だとすれば、「違うこと」にこそ価値があるはずだ。もちろんその「違うこと」が人に迷惑をかけたり、不快にするようなことであるべきではない。人が求めている芸術とは、「今までとは違う、楽しいこと」なのである。Youtubeの評価システムはまさしく人類を前進させるという方向性では一致している。「楽しいこと」「驚くこと」「違うこと」をすればするほど評価されるようになっている。


 もちろんこの評価システムは、TwitterFacebookなどのSNSを含めた全体として有機的な系を成立させている。


 誰だって、人と違うことをしようと試みれば、人類を前進させることに貢献できるのだ。失敗しても構わない。その失敗を見て、誰かがもっとうまい方法を考えるかもしれない。それはそれで、十分な人類への貢献である。