
今から6年前、日本にあるお墓を訪ねるため、1人のロシア人が来日した。
オルガ・モルキナさん。
その目的は、恩人だという ある日本人に感謝を伝えるためだった。
1世紀もの間、脚光を浴びることなく、歴史に埋もれ続けた壮大な救出作戦。
そこには、栄誉も賞賛も求めず、危険を冒して子供達を守った勇敢な男たちが存在した。

勝田 銀次郎、1920年当時 需要が集まっていた海運業で名を馳せた実業家だった。
ある日、彼の元へアメリカ赤十字の職員が訪ねて来た。
これが、全ての始まりだった。

実はこの頃、それまで皇帝が支配していたロシアで、社会主義革命が起こり、国内のあちこちで内戦状態となっていた。
アメリカ赤十字の職員によると、その革命の混乱で800人もの子供たちが命の危険にさらされているという。
革命当時、ロシアの首都だったペトログラードでは、混乱により深刻な食糧難に陥っていた。
そこで人々は、子供達を食糧事情がずっど良好で安全だった、農村地帯のウラル地方にしばらくの間 疎開させた。
5歳から15歳の子供たちで、その数はおよそ800人。

ところが、瞬く間に内戦が拡大。
戦火は疎開先のウラル地方にまで襲いかかった。
事態を見かね、現地に派遣されていたアメリカ赤十字の救護隊が子供達を保護。
まだ安全だったウラジオストクまで移動させたのだ。
だが…ついにウラジオストクにまで、内戦の危機が迫っているという。

アメリカ赤十字の職員は、勝田の船で子供達を親元に運んでもらいたいという。
この時、アメリカ赤十字は、親たちがフランスに脱出した可能性があるという情報を得ていた。
そこで、800人の子供を船に乗せて、ウラジオストクを離れ、大西洋と太平洋を渡って、フランスへ移送。
そこを拠点にして子供達を親元に返そうと考えたのだ。
ところが、アメリカやヨーロッパの船会社全てに断られたというのだ。
そのため、勝田に助けを求めてやって来たのだ。

実は、子供達を助けることには大きなリスクがあったのだ。
当時、アメリカ、イギリス、日本など資本主義を掲げる国は、社会主義国家となったロシアとは対立関係にあった。
そのため、ロシアの為に協力しようという企業はほとんどなかったと思われる。
さらに、子供達に罪はないと人道支援の名目で救出に向かったとしても、万が一、長い航海の途中で子供たちに何かがあれば、ロシア政府から激しい非難を浴びることは明らかであり、それがきっかけで、世界中を巻き込む国際問題に発展する可能性もあったため、誰も引き受けようとはしなかったのだ。

海運業で成功し、大きな財産を築いていた勝田だったが、もし国際問題の火種を作れば、国内からも多くの批判を浴び、最悪、破産するリスクさえある。
逆に、得することは何もなかった。
なぜなら…もし引き受けたなら、船会社として子供達を送り届けることは、当然とみなされる。
もし、何か問題が起きたなら、全ての責任を負わされることになるのだ。
それでも、勝田は赤十字の依頼を引き受けることを決意。
勝田の会社には800人もの子供達を乗せることができる客船がなかったため、貨物船の陽明丸を改造することにした。

こうして勝田は誰も引き受けなかった救出作戦に立ち上がった。
彼は短期間で陽明丸を改造。
そして、船長として白羽の矢を立てたのは、茅原基治。
若手ながら、苦学して船長になった叩き上げの船乗りだった。

そして この日、ウラジオストクで800人の子供たちと、教師や赤十字のスタッフなど およそ160人を乗せた陽明丸は、フランスを目指し、地球をほぼ半周する大航海に乗り出した。
ウラジオストクを出発して間もなく、陽明丸は食糧などの積み込みを行うために北海道の室蘭に入港した。
すると、赤十字の職員から、子供達を室蘭に上陸させることはできないかという相談があった。
茅原は、それを快諾。
実は、当時、日本とロシアは国同士いがみ合う犬猿の仲。
だが、未来を担う子供達には、日本という国を知ってもらうことで、そんな争いを乗り越えて欲しいと茅原は思っていたのだ。

この時の様子を写した貴重な写真が残っている。
奥にいるのがロシアの子供たち。
そして、手前にいるのは日本の小学生たち。
そう、室蘭の人々は、ロシアの子供達を歓迎したのだ。
言葉は通じなくても、仲良くなるのはあっという間だった。
交流はたった1日だけ、翌日、陽明丸は再び大海原に乗り出しだが、この時、室蘭の小学生たちは船が見えなくなるまで、手を振って見送ったという。

陽明丸の目的地はフランスのブレストだった。
到着後、そこを拠点にフランスに脱出していると思われる親達に連絡を取り、子供達を引き渡す計画だった。
しかし、この計画がロシア人達にきちんと伝わっていなかったのだ。
そのため、途中で目的地を知ったロシアの大人達は、フランスに到着しても船から降りないと言い張った。
実は当時、革命直後のロシアとポーランドとの間で戦争が勃発。
フランスはポーランドに軍事支援を行っていたのだ。

ロシア人達の望みは、ペトログラードまで直接送ってもらうことだったが、それは無理だった。
なぜなら、ロシア政府は資本主義国側の陽明丸がロシア領内に入ってくるのを認めなかったからだ。
そこでアメリカ赤十字は、もし フランスでの安全が確認できない場合、ロシアの隣国、フィンランドのコイビストまで送るという案を検討した。
しかし…フィンランドに行くことになれば、バルト海を通る必要がある。
バルト海には機雷があるため非常に危険だった。

機雷とは、艦船を攻撃するため、水中に仕込まれた爆弾のこと。
当時、バルト海からフィンランド湾一帯には、第一次大戦中に仕掛けられた、おびただしい数の機雷がまだ取り残されていたのだ。
茅原は、もしフィンランドに行くことになっても、最後まで任務を遂行することを約束。
アメリカ赤十字は、フランスで様子を見ることにした。
そして…陽明丸はフランスに到着後、親達との接触を試みたのだが、彼らがフランスに逃げ出しているという情報は誤りだった。
結局、フィンランドに向かうしかなかった。

陽明丸はウラジオストクを出港して以来、最大の難所、バルト海に向かうことになった。
機雷の海を目前に控え、茅原は立ち寄った港町で、バルト海に詳しい水先案内人を探していた。
水先案内人とは、その海域の地形、天候に精通し、船長を補佐しながら船を安全なルートに導くスペシャリストのこと。
たくさんの機雷が取り残されているバルト海を安全に通過するには、機雷の位置を熟知している地元の水先案内人の力が必要だった。
協力してくれる水先案内人を見つけた茅原は、綿密な準備をして、いよいよ機雷の海に挑むことになった。

実は、バルト海の機雷は、もともと重りにケーブルで繋がれていたのだが、戦争から何年も経っているため、ケーブルが劣化して切れて機雷が漂っていることがあるという。
さらに、もし機雷を発見しても船は自動車などとは違い、急に方向を変えたり、止まったりすることはできない。
そのため、茅原たちは全員で24時間体制の監視を続けながら、さらに遅い速度で進まねばならないという極限状態での消耗戦を強いられたのだ。
果たして陽明丸は、無事、機雷の海を抜けることは出来るのか?

勝田の元に、陽明丸が無事にバルト海を抜けたという知らせが届いた。
茅原は通常の2倍、1週間ほどかけて、機雷の海を無事通過!
ついに最終目的地であるフィンランドに到着した。
そして、子供達は茅原との別れを惜しんでくれた。
子供達はその後、故郷のペトログラードに帰還し、両親達と再会を果たした。

そして、茅原も無事に帰国。
こうして、成功して当然の任務は終わった。
もちろん、誰からも賞賛されることはなかった。
そして、彼らもそれを誇り、語ることもなかったため、陽明丸が800人もの子供達を助けた事実は、100年間 全く注目されないまま、歴史の中に埋もれていった。

しかしその後、陽明丸に助けられた男の子と女の子が結婚。
そのお孫さんこそが、6年前に来日したオルガ・モルキナさんだったのだ。
オルガさんはこう話してくれた。
「私がこうして生きていられるのは、茅原船長や勝田さんが危険や非難をかえりみず、祖父母を助けてくれたおかげなのです。」

祖父母の話を聞き、恩人の子孫に感謝の気持ちを伝えたいと思ったオルガさん。
しかし手がかりは、「カヤハラ」という苗字と「ヨウメイマル」という船の名前、それに立ち寄った「ムロラン」という地名のみ。
どうすれば良いか分からずにいた。
そんな時、運命的な出会いがあった。
8年前、オルガさんはロシアで展覧会を開いている日本人女性の北室南苑(きたむろ なんえん)さんという、書道家と知り合った。
そして、その名前に惹きつけられ、陽明丸の関係者について調べて欲しいと依頼した。

実際のところ、北室さんは室蘭とは縁もゆかりもなかったが、何か運命的なものを感じ、帰国後、調査を開始。
そして、なんと2年もの歳月をかけて、オルガさんの願いを叶えたのだ!
茅原船長には子孫はいなかったが、親戚の方がお墓を守っていた。
そして、オルガさんは茅原船長のお墓に感謝の気持ちを伝えることができた。
さらに北室さんは、勝田銀次郎や茅原船長の偉業を本にして出版。
こうして、歴史に埋もれていた彼らの勇気ある行動は、ついに日の目をみることになったのである。

念願叶って、陽明丸の恩人達に感謝の気持ちを伝えることができたオルガさんは、最後にこう話してくれた。
「そもそも彼らとは縁もゆかりもなかった北室さんが、行動を起こしてくれなれば何も始まりませんでした。彼女には感謝してもしきれません。」

一方、北室さんにとっても、陽明丸の調査はかけがえのないものになった。
今ではすっかり、陽明丸の男達に魅了されているという。
北室さんはこう話してくれた。
「私は勝田銀次郎や茅原基治が生きていた時代に生まれていたかった。こんな人物がいるのなら、どうやって知り合いになろうかと一生懸命になるだろうな。」