どうも、いっしーのブログに勝手に押しかけたガンダムのオッサンです。
ふとした時に思いだす東日本大震災、あの時のインパクトは今でも記憶に残る日本にとって重大すぎる出来事でしてたまに「今、同じクラスの地震が来たら...」なんて思ったりしちゃう午後、あの世紀末感は再び味わいたくないもんです。
そんな東日本大震災を思い出したので岩手に住むいっしーに記事を押し付けてみます。
地震発生の夜
東日本大震災には体験した人間分の強烈な記憶があるはず、とくにいっしーは岩手の人間なので言葉で表現できないほどの記憶があるでしょう。
当時のいっしーが岩手にいたのか東京にいたのか知らないけど、もし東京にいたのなら岩手に住む家族を心のそこから思ったでしょうし、岩手にいたならモロな地域、きっと身近な人が亡くなったりもしたと思います。
東京に住む私で言えば東日本大震災発生当日の夜が第一段階の覚悟を決めなきゃ....な夜でした。
テレビから映りだされる千葉のガスタンクが爆発して燃えている映像は「あ...ヤバいかも」でした。
東北地方がメインだと思っていた巨大地震、その影響が関東にもある、こいつはヤバい、寝れない、でも寝れる時に寝ておこう....なんて思いながらもテレビにくぎ付けでした。
ACのCMは今でもトラウマな人も多いと思います。
福島の原発
大地震発生から数日後、いよいよの時がきました。
福島の原発の建屋だか何だか分かりませんが、爆発する映像をリアルタイムでテレビで見た時には「終わったかも...」なんて思うと同時に色々な覚悟を決めなきゃならないなんて思いました。
その映像が放映された夜でしょうか、水とか何か買っておかなきゃ!なんて思いながらコンビニに行ってみると棚がガラガラ....こりゃ本格的にヤバいわと腹をくくったもんです。
それで実際に東京から沖縄に行ってしまった人もいるし、外国の方は自国に帰ったりもしました。
んで東京生まれ東京育ちの私は行く場所がない、でもあの時ばかりはせめて家族だけでもどこかに行かせて自分は東京に残る...なんて話もしたりしましたね。
あの放射性物質がどうのこうの言ってる時、いっしーが東京にいたのなら一刻も早く岩手に帰りたかったように思うけど岩手に住む家族、とくにご両親からすれば何とも言い難いものがあったのではないかとも思います。
きっと日本全国、とくに東日本の原発周辺地域では辛い決断を下さなければならない人が沢山いたはずであり、それを乗り越えた人間は強いと思っています。
続きはいっしーが書け
東京生まれの東京住いの私、東日本大震災についてマジで書け!と言われたらもっと沢山の文字数で書けるっちゃ書ける。
ただ私のような未来の無いオッサンが書くよりも岩手を故郷とし、今の岩手に住むはてなブロガーが書く記事のほうが価値は高いと思っています。
続きはいっしーが書け。
でわ!
私は帰って来た、いっしーです。
ツイキャスでいつもの変態無職達を相手にしながら作業していると、颯爽とガンダムのオッサン(id:gundamoon) がやってきました。
この人はツイキャスで優秀なコメンテーターを目指すという謎理論を展開したり、地獄の一歩手前みたいな熟女がやっている配信にいってセクハラをしたりする、ぼくと交流がある中でもトップクラスな変態です。
謎の宣言と共にツイキャスに遊びに来てくれました。
「ムーンさんどうも。今日は他にやる事あるので記事更新出来なそうですわ~」
「いえいえ、結構ですよ~ムーンさんも仕事忙しいでしょうに。そろそろツイキャス終わりますね!」
「マジでいらないです(ムーンさんの寄稿とか絶対ヤバい奴来るから怖いわ)」
「いや、だから誰もお願いしてませんって」
数十分後・・・
という経緯でガンダムーンさんから寄稿としてさっき渡されました。
テーマは東日本大震災ですね。
この話題についてはいくらでも重く深く話せますが、せっかくなので被災者であるぼくが”あの日何をしていたのか”を軸に軽めにお話ししたいと思います。
2011年3月11日、あの日は岩手県盛岡市にある美容学校に通っていました。
なんの授業か忘れましたけど、アロマ系の授業でみんなで優雅にハーブティーを飲んでいたと記憶しています。
突然、生徒全員の携帯電話から聞いた事の無いアラーム音が鳴り始めて、ナニコレ・・・?と思っていた直後に震度7弱が襲ってきました。
学校という事もあり、免震構造もしっかりしていた建物のお陰で震度6位かな??と思いましたが、実際には7弱だったようですね。揺れを感じやすい高い建物に居た人たちは死ぬかと思ったと言っていました。
ライフラインは全部死んでましたが、地震の後すぐはそこまで大事じゃないと思っていました。横に居た友達と夜飲みに行く話をそのまま続けていましたし。
電気ガス水道が停止していたので外の情報が一切入って来ない中、生徒一人がワンセグでTVを見み始めます。
すると、津波の映像がニュースで流れていました。この辺りでようやく今日飲みに行ってる場合では無いと理解します。
帰れる人は帰って良いとアナウンスがあったので、駅に行くと人だかりでパニック状態。盛岡でこんなに人間を見るのはさんさ祭りの時以外無いよなと思いつつ、徒歩で帰る事を決意。
あの日は積もるほどではありませんが雪が降っていましたね、見た事の無い光景の連続でした。無言の信号、食料を求めてコンビニに行列、1つも明かりの無い街。
3時間かけて家に帰ると、メチャクチャに物が散乱していました。60㎝水槽が倒れ割れて一面水浸し・・・電気も無いのでヒーターで水槽の温度を上げる事が出来ず熱帯魚は半分以上死にました。でも、被害と言えばそのくらい。
震災で壊滅的なダメージを受けたのは、沿岸で津波の被害を受けたごく一部の地域だけです。ぼくの住んでいる地域なんてライフラインが48時間位で復帰しましたし、節電政策も無かったのですぐに元通りになりました。
岩手=震災のイメージは強いと思うのですが、主に被害を受けたのは沿岸部だけです。実際にぼくが受けた被害なんて、雪が降ってる中3時間走ったのと、水槽が割れて部屋が水浸しになった位なので対したことありません。
宮城の仙台市や福島のいわき市の方が何百倍大変な思いをしたはずです。
あ、あとぼく育ちは岩手ですが、生まれと幼少期は気仙沼市に居ました。
まぁ実際にはもっと色々言えますが、ライトな感じだとこんなもんでしょう!
ムーンさん寄稿(押し付け)ありがとうございました!
またねbyいっしー