[書評] テストが導く英語教育改革(根岸雅史)
英語教育については各種の議論があり、その混乱は宗教やイデオロギーの対立のような様相のようにも感じられる。しかし、根幹にあるのは単純な疑問である。「なぜ日本の英語教育は失敗しているのか?」ということだ。もちろん、「失敗などしていない」といった議論もあることは知っているが、それは別枠として置いておきたい。
単純な切り口で疑問を投げかけてみよう。学校教育の英語科目に定期テストは必要なのだろうか? 修辞的に問いたいわけではないが、不要なのではないか。なぜなら、英語教育というのは、社会科目や理科科目のように所定の知識を分類して記憶し理解していくという知識の学科ではなく、所定の技能(スキル)を習得する学科である。そうであれば、現行しばしば実施されているように、授業で学んだことという知識を測る定期テストは不要であり、年末または半期に一度、中学や高校で英検など外部のテストを導入して評価とすればよいのではないか。
この時点で反論は思いつく。そんなことをすれば英語の学習は学校外で効果的に行ったほうがよいことになり、そもそも学校英語を否定することになる、と。それはおそらく正しいだろう。と、同時にその正しさは学校英語を肯定はしない。学校英語は、例えば高校であれば卒業時に英検二級といった達成を提示し、仮にすでに高校一年で達成するなら、授業を免除すればよいだろう。それによって学力格差が広がるといった批判もあるだろうが、現行の英語教育よりましだろう。
さて、こうした私の思いつきを現場の教師はどう考えているのだろうか。あるいは、現場の教師が拠り所とする教育理論はどのようになっているだろうか。そうした関心で出会ったのが、『テストが導く英語教育改革(根岸雅史)』(参照)である。一読して驚いたのだが、基本的な部分で上述したような私の意見と同じだった。なんのことはない、自分の独自な見解だと思っていたことは、学校教育の現場ではすでに問題視されていたのであった。
本書では、定期テストで教科書の内容そのものを出さないことをまず勧めている。
テストで教科書の内容そのものを出さないことには、多くの教師は抵抗感があるだろう。生徒が自分の授業を聞く意味を見いだせなくなってしまうと考えるからだ。しかし、本質的には、英語の授業は英語力をつけるためのものである。教師の日本語訳を忠実に再生させるだけのテストは、もはや「英語力を測るテスト」ではない。
テストが生徒をコントロールするためのツールではなく、本来のツールとして機能するためには、「本来つけようとしていた力」が本当についているのか見なければならないそして、そのためには、ある意味、未習の文章をテストに出さなければならないだろう。(後略)
本書はそうした、従来の定期テストを超えていくための実践的な指針として描かれている。対象はどちらかといえば中学校の英語のようにも思えるが、現状の高校の英語教育も含まれていると見てよいだろう。
各論は、英語教育の技術論として面白い。英語教師だけではなく、英語教育全般に関心のある人にとっても面白いし、知的な高校生なら教師の裏面を知る面白さもあるだろう。特に、面白いという点だけに絞るなら、本書で特に糾弾されている「総合問題」のありかたへの批判は笑いを伴いながらもある深刻な、日本の英語教育の病理とでもいうものをえぐりだしている。
本書が面白かったので、本書の前作である、『無責任なテストが「落ちこぼれ」を作る(若林俊輔・根岸雅史)』(参照)も読んでみた。内容は書名に表されているとおりだが、なるほどこれが無責任なテストかという例題集になっている。これが、失敬な言い方だが実に笑える。そして、ここでもぞっとせざるをえない。こちらの書籍が出版されたのは、1993年であった。四半世紀も前なのである。この間、学校の英語教育は「総合問題」に代表されるナンセンスな問題で、生徒をコントロールするために延々と継続され、前書のいう「落ちこぼれ」を作り出してきたのだろう。
なんということだろうと思う。ふと先日、NHKで見た72時間の、英語学校のドキュメンタリーを思い出した。主に初級の英語を熱心に学ぶ社会人が多数いた。学校英語がもう少しましなら、そうした外部の英語学校は不要だったのではないか。
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