徹子の部屋 大林宣彦&恭子夫妻[字] 2017.12.05

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ダイバーは手を振ったり、記念写真に応じたりとサービス精神も旺盛で来場者は、一足早いクリスマスムードを楽しんでいました。
サンタダイバーは、今月25日まで1日3回水槽で泳ぎを披露します。
巷で言うと…。
(黒柳)映画作家の大林宣彦さんと奥様で映画プロデューサーでいらっしゃいます恭子さんのご夫妻です。
60年間ずっとご一緒に歩いてきたお二人です。
昨年大林さんは肺がんで余命3カ月と宣告されたんですけどそのお話とか2人で1つの細胞といわれていらっしゃるお二人の色々なお話です。
よろしくお願いいたします。
今週はファミリーウィークということで本当に仲が良くていらっしゃるお二人で1つの細胞とまでいわれていらっしゃるご夫婦においでいただきました。
ようこそおいでくださいました。
はい。
よろしくお願いいたします。
大林宣彦さんはもう3回目のご出演なんですけど。
映画作家でいらっしゃいましてまあ随分たくさん有名なコマーシャルを撮ってらっしゃるんですね。
びっくりしました。
そうですね。
約2000本から3000本ぐらい。
すごい。
60年代ですね。
チャールズ・ブロンソンのマンダムって私たちすごくよく覚えておりますけど。
ありがとうございます。
それから三浦友和さんと百恵ちゃんのチョコレートのコマーシャル。
そのコマーシャルから2人が結婚をしたというね…。
そうなんですか?縁結びです。
縁結びのチョコレート。
それから高峰三枝子さんと上原謙さんの国鉄のフルムーン…お風呂に入ってる。
あれもお撮りになったんです。
そうそうそうそう。
胸のところまでねお湯がきてるっていうね。
ああいうものをお作りになったりしたんですけどその後多くの映画をたくさんお作りになりました。
『転校生』『時をかける少女』など尾道三部作でも有名でいらっしゃるんですけどその他色々撮っていらっしゃいます。
奥様は東京都のご出身で成城で…?はい。
成城で会いました。
そうですってね。
それであの…それからずっと大林さんのお作りになるものはほとんど全部…?そうですね。
個人映画からずっとですけど。
プロデューサーっていうのはお金の工面しなきゃならないから…。
うん。
でも私は…もう1つ1つの作品がなんか独り歩きして皆さんが一緒に監督とやりたいと仰ってくださるので私はもう本当に雑用係です。
そうですか。
でもご飯とかお弁当まで全部…?そうですね。
若い時はやりました。
そうですってね。
ちょっと余命3カ月のお話なんですけどそれは映画をこれから撮ろうという前日にがんが発覚したって。
それは…。
そうなんです。
ちょっとびっくりしましたけど。
どういうことからそれわかったんですか?あれですね。
ちょうどロケーションに出る前にいつもの健康診断をしていただきに…検査をしたんですね。
その検査でなんか骨に異常があるということで…。
それで唐津に一応でも行っちゃったんですね。
ロケ現場なんですね?ええ。
唐津の病院で検査していただいて前日に…クランクインの前日にわかりました。
ひと言で言うと「転移よありがとう」なんですね。
骨に転移をしていたのでこれは何かもとのがんがあるよと。
調べましたら胃はオーケー大腸はオーケー。
なんだろうといったら最後に肺にあったと。
あらー…そうなんですか。
その時にどの程度とかっていうのはお医者様仰ったんですか?はい。
これがねさりげなく「肺がん第4ステージで余命半年です」と。
えー…。
その時のお気持ちはいかがでした?これがね私たち表現する人間はね目の前にあることは全部プラスとして受け入れるという習慣があるんですよね。
お天気だと思ったら雨が降った。
よしこの雨の中では天気以上に幸せに生きる映画を作ってやろうっていうふうに思うのでおお肺がん…余命半年か。
でもその時になんだか体が温かくなりましてね嬉しくなったんです。
んっ?嬉しくなっちゃった。
嬉しくなった?えー。
なんで嬉しいかというと40年前にこの『花筐』という映画の原作者の檀一雄さんにお会いしてその時に檀さんが同じ肺がんでもう余命がなくて。
で口述筆記でね『火宅の人』という代表作をお書きになってた。
その方たちの戦争中の話を映画にする息子の世代ですよね。
『花筐』?はい。
おやじとの世代の…戦争に行って殺されることが…戦争の消耗品になることが青春であった人たちの断念や覚悟。
それを戦争を知らない世代の私たちが表現できるのかってことへの怯えがあって40年なんとなくうずうずしてたんですけどね。
お作りにならなかったんですね。
ええ。
それがおお肺がんになった。
おやじと一緒だ。
じゃあ撮る資格をもらったなというふうに思いましてねそれで嬉しかったんですよ。
そう。
それで踏ん切りついたっていうかお撮りになるっていうお気持ちになる…。
そうです。
これで撮れるぞと。
初め余命半年って言われてそれから3カ月って言われて今随分もうね…。
たったの2日でね余命3カ月になっちゃったんです。
半分になっちゃった?ええ。
「えー!2日で3カ月ったらあと2日で僕いなくなるね」って言ったらがんというのは増えていっちゃうんですって。
へえー。
でも撮影これからやるぞっていう前日にそういう肺がんだっていうことになってそれででも次の日奥様撮影現場にお連れになって?いえ1週間ぐらいはちょっとなんか第2オピニオンとか第3オピニオンってなんか意見を聞いてほしいと言われてそれで1週間ほどちょっとチーフ助監督が監督の補佐をして撮影は進んだんですけど1週間目に復帰しました。
すごい。
それからはもうずっと元気に。
そうなんですってね。
お仕事してらっしゃるとねやりたいっていうものをやってらっしゃるとっていうんですけど。
ちょっとその映画の…。
これ余命半年と言われてらっしゃる時のメイキングだと思うんですけどちょっとご覧ください。
「巷で言うとあと半年だと1年だという宣言でありますが…」「
(拍手)」「大丈夫?」「大丈夫」「今元気?」「今元気」「本番いきます!」「回してください!」「カット1トラック3尻ボールド!」「用意スタート!」「
(カチンコの音)」「テストやってる時間ない!本番!」「
(ピアノ)」「用意スタート!」「
(カチンコの音)」「よーし!どうだ?いけた?」「オーケー!」オーケーですね。
ここなんか抗がん剤の治療をなさりながらの撮影だったんですってね?こんな錠剤なんですけどもそのお薬1粒を毎朝祈りながらいただいて。
そう。
それが…。
えー。
そういう意味では薬との相性がとても良かった。
そういうことって随分あるようですねそういうお病気の時にね。
そうみたいですね。
それとね先生に伺いましたら何があっても楽観的で悩まない患者に薬がよく効くんですって。
ほう…。
「監督はその典型です」と。
ですからこれ皆さんねぜひね「おっがん君ここに宿ったか」。
「うん俺が宿主だからなおとなしくしてて」。
「俺をどうかしたら君が住むところがなくなるんだぞ。
お互いに元気でいよう」なんて言ってますとねお互いに元気でいるんです。
でもそういうふうに前向きでやるぞっていうふうだとそのお薬がとても効いてくれてその場合…大林さんの場合はね。
そうですね。
監督には…。
でもさっきピアノ弾いてらしたでしょ?ピアノはお上手なんですか?いや習ったこともなんにもないんですけどねピアノの積み弾きの名人だと思ってますけど。
上手ですよ。
耳に聞こえてくるものはね…。
楽譜は読めないんですけど耳に聞こえるとそれを再現しちゃうというね。
そういうまあ慣れてらっしゃるんですけど恭子さんにとってはそういう方とずっと一緒にいらっしゃって気苦労みたいな…。
気苦労っていうのは…うーん。
気苦労って感じたことはないですね。
うん。
気苦労っていうのは最近ですね。
お互いになんか…。
私自身が体が動かなくなってきてなんにもやってあげられないみたいなことはありますけど。
なんか奥様話違うんですけど骨折…骨折なさったって?そうなんです。
3年前に両大腿骨骨折しちゃって。
えっ両方?大変。
一時でないでしょ?でも。
えっ?一度に。
大変だったでしょ?生活なさるのに。
病院で転んだんです。
あらー。
本当に?それから半年ぐらい入院して左足がちょっと思うように良くなかったのでまたこの間再手術してやっと歩けるようになりました。
もう大丈夫におなりになった?大丈夫で。
大変ですね。
奥様そういうことをやってらっしゃるのにご主人映画撮ったりして。
非常に注意深い人が事もあろうに病院で転んで両大腿骨骨折っていうのはあり得ないことだけど今から考えるとそのおかげでここまでいますね。
なるほどね。
もっとひどい転び方をしていたかもしれない…。
そうですよね。
そういう時期だったんですね。
で今もがんの治療はしていらっしゃる?ええ。
相変わらずです。
ただがんはねありがたいことにほとんどもうないんです。
むしろ今はね老いとの闘いですね。
あっ「おい」って年を取る老いですか?そうですそうです。
はい。
老いだけは自分の力で跳ね返していかなきゃいけないんで。
だから転んだりなんかするのは本当にちょっと駄目ですよね。
そうなんですね。
私もこの間転んだんですけど本当にね気を付けていてもちょっとなんかの加減でね転んじゃったりするんですけど。
やっぱり転ぶ…。
そこで骨を折るなんていうのは本当にちょっとねがっかりなことですよね。
でもね…。
すべきじゃないと思っちゃう。
上のほうの人がね注意しろよと言ってくれてるサインだと思うとね。
そりゃそうですよね。
年を取ってくると初めて転ぶとか初めてどうこうするっていうことがいっぱいあって。
初めて歩けなくなるとかね。
そうですよね。
びっくりします。
でもそれは何かを上の人が指示してくださってるんだなと。
それはそうですよね。
でも上の人が作れって言った映画をお作りになって。
でも撮影に入っていれば大丈夫?いやあ撮影に入っている時は大変ですけど。
やっぱり大変ですか?そりゃそうでしょうね。
それから今拝見してると…風がビュービュー吹くところでもどこでも…。
はいはい。
ねえ。
あんなところで仕事をしなきゃならないって大変ですよね。
そうなんです。
雨が降ったり風が吹いたりすると逆に喜んじゃうほうですから。
人生一番好きなことをやってるのが一番薬になりますね。
そうなんですね。
いかにもねそんなふうにお見受けいたしますけれども。
まあでも随分転移して脳とかまで転移したんですって?はいはい。
すごいですね。
それでもそんなの消えるんですかね?それでね今のメイキングじゃふさふさしてましたけれど今はもう全くないんですけどね。
そうなの?やっぱり毛が抜けるんですか?放射線を…。
ああ…。
それをやりましてねもうがんはないんですよ。
見事なことに。
だけれども毛がなくなっちゃって。
そのがんをまあ…背負ってらっしゃるけど映画撮っててどんどん仕事をしてるというようなことをどんどん話してくださいってお医者様に言われてらっしゃる?はいそうなんです。
監督のように楽観的にがんと共存してる患者さんはむしろそれを一生懸命言って怯えてる人をね…。
これが徹子さん僕たちにとってはね戦争と平和の話にぴったりつながるんですよ。
ほう…。
戦争を恐れるだけでは駄目だと。
むしろ平和のほうを信じる力のほうが大事だということですよね。
『徹子の部屋』に25年前においでくださった時に奥様のことを話していらっしゃるのでちょっとご覧いただいていいですか?そうですか。
どうぞご覧ください。
「文学とか芸術とかお習いになりたいというので成城大学に?」「成城大学です」「ねえお入りになったんです」「結局ね5年間いたんです。
あんまり学校が楽しくて」「でもね取った単位が18単位。
というのが授業にならなかったんですよ当時は」「先生と一緒にもうね武蔵野の雑木林の中に散歩に行っては映画の話したり文学の話したり…」「結局単位取れず。
というか取らず」「でもね5年いたというのはちょうど1年下の今のうちの奥さんを待ちましてね彼女が卒論を書いて…。
これはちゃんと卒業したんですが」「一緒に付き合って出たんですけれども」「当時“横に出る”という言い方をしましたけどね。
つまり中退」「その時に“昔はね大林君中退をして学校の名前を上げたものです”」「“久々の中退者だから成城の名を上げてください”と学生部長の先生に言われて送り出されましてね」「そういう学校です」「いい学校ですね」本当いい学校。
トットちゃんの学校の小林先生も成城にいて幼稚園なんかお作りになったんですよ。
昔はねなんか雑木林があったりそれこそさっき仙川が…。
そうですよね。
ええ。
学園の中を通ってザリガニを捕ったりとか色々してましたよね。
そんなところでお会いになった?うん。
でもいつもお友達一緒でしたから…。
そう。
学生が少なかったですからね。
だからゼミからゼミの木造の教室を渡る時にクヌギの林がありましてねたまたまその途中の道が細くて2人並ぶと肩と肩とをくっつけてやっと歩けるぐらいの道があるんですよ。
たまたま偶然この人と一緒に並んでたんです。
あら。
その時にねとても今大切な時だから一番大切なことを言わなきゃと思ったんですね。
だからつい「僕と結婚しない?」と言ってですね…。
彼ロマンチストですから。
そうですね。
それでこれはもうなかったことと…。
で翌日私がいつものように講堂でピアノの上に8ミリのカメラを置いてシャンソンを弾きながら歌ってたらピョンピョン跳びながらやってまいりましてね「昨日のことですけど」って。
僕はとぼけて「おや?なんだっけ?」って。
「返事は“はい”です」。
すごい!「結婚のことは私18年間しっかり生きて考えてきましたからもう十分考えてますから返事は“はい”です」と。
きっと監督の願望ですね。
すごい。
すごい。
こうして話すと嘘みたいだけどそれなんだかね一緒にいるのが生きてるっていうことで一番平和なことだと僕も受け止めてそれでそのまま手をつないで私の下宿に一緒に行ってね…。
すごい。
で兄妹のように過ごしましたと。
近所の方兄妹だと思っていらしたぐらいなんですってね?仲の良さが。
そうなんですもう。
「さっきお兄さんが買っていきましたよ」なんて言われて。
そうですか。
それから60年ずっとご一緒にいらっしゃって1つの細胞…。
お嬢さんがそう仰ったんですってね。
はい。
2人で1つの細胞の中にいるみたいって。
ただ60年前に言われたひと言だけはよく覚えてますが「尊敬できなくなったら私いなくなるよ」と。
そう…。
生意気だったから。
そう。
でもそうですよね。
惚れたとか愛とかというよりもやっぱり一緒に生きるに値するかどうかというフィロソフィーをこの人がね大事にしてた。
いまだに怯えてます。
いまだに言ってます。
そう。
でもずっとそのお気持ちは変わらずに奥様のほうとしては大丈夫?そうですね。
作品が完成するたびにああ良かった。
まだ一緒にいられると思って。
良かったですよね。
でも結婚の証しというか指輪をなんか大林さんは…。
ああもう本当にこんなの恥ずかしいもう。
安物の。
なんですか?お誕生日にプレゼントした指輪がね…。
これですね。
なくしてもなくしても見つかるんですよ。
あら不思議。
瀬戸内海でね撮影中に俳優さんがポーンって石を投げてたら…。
指から抜けていっちゃって。
一緒に指輪が飛んで…。
瀬戸内海っていうのは干満の差が激しいでしょ。
だから長い砂浜がサーッと水で埋まってそしてまたスーッと引いていっちゃったんです。
もうそんなものどこにもありませんよね。
撮影が終わって帰りにみんなで砂浜を歩きながら…。
私は見つからなかったら別れようとかもうちょっと…。
お若いわね。
そうなんです。
そしたら…。
そしたら?監督が自分で見つけたんです。
桜貝かなんか…。
桜貝を見つけましてね。
昔桜貝が瀬戸内海いっぱい白い砂浜にあって。
その桜貝をじゃあ記念に持っていこうかと。
だけどこんなもん壊れちゃったらどうにもならないからこれはやっぱり海に返してやろうっていうんでその桜貝海に戻してそしてまた向こうまで歩いて戻ってきたら同じ桜貝がまたあったんです。
これはもうこの桜貝を運命だと思って大事に持って帰って壊れないように一生保存していようと思って覚悟して桜貝を拾ったらその下にこれがあったんです。
そう。
奇跡みたいな嘘みたいな本当の話。
本当ね。
桜貝が「ここですよ」って言ってるみたいですよねまるでね。
黒澤明監督の遺言で「映画には平和に導く力がある」と仰ったって。
はい。
それをよくかみ締めていらっしゃるとかって。
ええ。
「もし俺が400歳まで映画を作ることができればきっと俺の映画で世界を平和にしてみせるよ」と。
「映画にはそういう力があるんだ」と。
すごい。
そのことを私たち後輩は受け継いでね黒澤さんの仰る「だから僕の続きをやってよね」と。
なるほど。
それでお作りになった『花筐』…どういうお話なんですか?檀一雄さんが25の年にこの短編集を出版しようというその出版の予告日に赤紙をもらってねで満州の戦地に行っちゃったと。
自分の命ぐらいは自分の自由に生きさせてくれと。
戦争の消耗品になんかは決してならないというそういうことも言えなかった世代の無念と断念とがひそやかに丁寧に書かれてる本なのね。
じゃあこれは絶対撮らなくちゃとお思いになったわけですよね。
そうです。
だからせめてその…私たちは7歳まで戦争を知ってますからやっぱり戦争というものの空しさや恐ろしさや気配を肉体で知ってる私たちがねその戦争に対する怯え…。
反対というよりは戦争なんて嫌なんだよと。
二度と嫌だという怯え感をねぜひ未来を生きる人たちに残しておかなきゃということでね。
ちょっと拝見してみますね。
はい。
(江馬美那)「お姉様私きちんと生きていたいんです」「命を大切にするってどういうことなのでしょう」「あいつが美しいのは孤独だから」「理にかなわぬことをやらかすのが人間というものなのです」「殺されるのは真っ平だが自分で死ぬのは自由だからね」
(文士)「万歳」
(一条医師)「治安維持法が全面的に改正強化されました」
(娼家の女)「みんなみんな殺されてしまうんだわ!」
(榊山俊彦)「殺されやしないぞ決して。
戦争なんかに」
(鵜飼)「青春が戦争の消耗品だなんて真っ平だ」「
(カメラのシャッター音)」「完成した映画を見た時になんてやんちゃな監督なんだって思って」「こんなに自由にこう広げてくる監督って世界に今までいたのかなって思うぐらいに…」常盤貴子さんが「やんちゃな監督」と仰ってますけど。
そのとおりですね。
貴子ちゃんは現場で私が考えて考えて考え抜いて丁寧に演出をしてくれてると信じ込んでいたんですけどね私はいつも思い付きなんですよ。
そうなんですか?びっくりした。
私は思い付くだけで考えるのは上のほうの人が考えてくれてると。
でもあれですね。
余命3カ月って初めね言われたっていうことについて奥様それについて伝えたいことってなんかあります?やっぱり好きなことをあの…やっぱり死がどこまであれかわかりませんけどもやりたいことを最後までやってほしいなと思いますけど。
そうですね。
うん。
好きなことというのはきっと上の人が君はこれをやるべきだというので好きにさせてくれたんだと思うんだよね。
そうかもしれませんよね。
だから一番好きなことを一生懸命正直にやっていればいいんじゃないだろうかと思います。
そうですよね。
でもそうするとそういう恐ろしい病気もだんだんね良くなっていくように導かれるっていうのは…。
嫌々戦争に行くっていうのも気の毒だったと思いますよね。
本当にどうもありがとう…。
お大事になすってください。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
徹子さんもお大事に。
はい。
どうも。
向田さんが霞町のマンションに引っ越してから徹子は仕事の合間にしばしばこのマンションを訪れました
2017/12/05(火) 12:00〜12:30
ABCテレビ1
徹子の部屋 大林宣彦&恭子夫妻[字]

〜“余命3カ月”宣告…翌日から映画を作り〜映画監督・大林宣彦さん&映画プロデューサー・大林恭子さん夫妻が今日のゲストです。

詳細情報
◇ゲスト
映画『転校生』『時をかける少女』など尾道三部作で知られる映画監督・大林宣彦さんと、妻で映画プロデューサーの恭子さんが登場。
◇番組内容
大学時代に出会ってから60年以上、二人三脚で映画を作ってきた2人。昨年8月、映画撮影に入る前日に、大林監督は肺がんで“余命3カ月”と宣告された。だが、恭子さんが「撮影現場に連れて行ったほうが元気になる」と言いきり、抗がん剤治療をしながら撮影を敢行したという。監督は一度も後ろ向きになることはなく、現在も「“がん君”と仲良く共存している」と語る。がんになってから行き着いた、元気に生きるヒントとは…
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
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音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz

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