悪意をもって科学を装うものや、不安につけこむ科学まがいものが平然とはびこるようになりました。一見、かんたんに滅ぼせそうなものばかりですが、そうはいかない世の中に……。

 それはなぜなのか、すこし考えてみたいと思います。

※”ublftbo”さんから「一切の根拠が提示されていない」とコメントがありましたが、ご指摘どおり「敗北」というのはただの「感想(印象)」です。あえて言えば、「ニセ科学」を無視できなくなってしまった状況を負けと定義することもできます。ご自由にお読みくださって構いません。私の感想がなにか「いまとは別の発想」を生み出すたたき台になることを願います! ご感想・ご意見ありがとうございます!

飛行機を信じる

 東京に住んでいると、東京駅までだいたい30分~1時間あれば行けます。そこからバスで成田空港まで1時間。そこから新千歳空港まで2時間。ぜんぶで4時間あれば北海道まで行けることになります。

 飛行機って便利ですよね。なんであんなものが飛ぶんだろうと思うし、やはりまれに墜落することもあります。でも安全性は保たれていて、だから私たちは飛行機に乗るのですが……なぜ飛行機は安全なのでしょうか。

 それを詳しく書くと10万字あってもまったく足りないのですが、肝心なところは「10万字あっても書ききれない」ほど、そこに人力・知恵・知識(実験)・意識・資金があるということがわかるからです。それさえめんどうくさいので「一等航空整備士の国家資格」という名詞でショートカットしたり、「万全で綿密な整備体制」という名詞で縮約したりします。

 べつに「C整備」とか「M整備」とか「アビオニクス」とか「ニューマティック機器」とか「無線航法システム」とか「ホリゾンタルメソッド」とか、それらを支えている工学とか数学とか、工学や数学の正しさを支えているロジックとか、そういうのは知らなくていいのです。集合論なんて知らなくても飛行機には乗れるし、その飛行機はたぶん墜落しません。「車輛」がわからなくてもよいのです。

聖書も飛行機も「突然あらわれた無関係のA4一枚」ではいけない

 さて、聖書には、たとえ話が多いです。「パラボレー」というのですが、すごく「有益そうな」たとえ話をちょくちょくはさみながら、ごちゃごちゃ説明してゆきます。『選択本願念仏集』で専修念仏を体系化した法然も、「念仏を唱えるだけで浄土に行ける」というコンセプトにごちゃごちゃ説明を加えております。オウム真理教も、原始仏教と独自のロジックでなんかのコンセプトをごちゃごちゃ語っていました。

 有益性を信じてもらうためには、「詳しい取り扱い説明書」が必要です。突然ペラい企画書があってもダメなんです。それは宗教(聖書)も科学(飛行機)もニセ科学(水素水)もおなじです。そして、それらの三つの説明書の分厚さが横並びになったとき、こんどはどんな基準で「信じる」のでしょう。

 それは 「過去からの合理性」です。合理性なんて科学の十八番だと思われるかもしれませんが、ニセ科学にお株を奪われている部分もあります。

 いわゆるニセ科学は、合理性がわかりやすく演出されるんですね。こういう経緯があって、いまのあなたに、こうなんですよ、というストーリーを仕立てます。なに言ってるかよくわからないけれど、パラボレーのおかげでわかった気になれちゃう聖書とおなじで、健康効果とかわからないけれど「それがじぶんみたいな人間のために開発されていて、ずっとじぶんのことを待っていた」ということがわかる、というのが大事です。

「なぜニセ科学を信じるのか」に興味をもたないニセ科学批判者

 そもそも、いちいち「ニセ科学(似非科学/疑似科学)」という極端な二分化で批判したがるのは、科学サイドのひとたちです。科学が部分的にせよ敗北していることを認められないため、敗因を分析することができておりません。

 いまは「ごちゃごちゃ説明する」時代ではありません。分厚い説明書だったら、宗教もニセ科学もすでにこしらえているのです。そこでは勝負できないのに、いまだに「ニセ科学をごちゃごちゃ反証する」ことにこだわっているひとたちがいます。その活動も大事ですが、そこだけでは逆転できないところにいると思います。

 科学サイドの敗因はみっつあると思います。かんたんに見てゆきましょう。

科学サイドの敗因1:理系教育の過剰なキャンペーン

 教育には、大人のコンプレックスが詰まっています。たとえばすこし前の「英語ゴリ押し」には、グローバル化に対応できなかった大人の憎悪が詰まっているし、その前はパソコンが使えない世代による「ITゴリ押し」でしたね。そしていまは合理性のない世代の「理系ゴリ押し」です。ディベートとプログラミングと読解力もオプションされました。

 教育をアップデートしてゆくことは大事ですが、ここまでゴリ押しすると、その教育を受けられなかった世代が「理系がわからない俺たち」という自己像や共同認識を形成してしまいます。

 「俺はパソコンとかわかんねえから」という愚痴を何度も聞いたことあるでしょう。「俺は英語とかわかんねえから」という言い訳を何度も聞いたことがあるでしょう。あれとおなじように、理系がわからない、数学がわからない、合理的じゃない、ということがコンプレックス化するのです。

 新書の巷間で「わかりやすい」が流行っていた(流行っている)のも、そこに私たちの心の穴があるからだと思います。

科学サイドの敗因2:「ニセ科学」という概念形成

 ニセ科学批判サイトをのぞくと、そのむずかしさとして「反発」がよくあがります。わかってもらうのがむずかしい、みたいな話です。それもそのはずで、いちいち「ニセ」だの「似非」だの価値判断を加えてぶつかりに行っているのですから、反発にあうのは当然です。

 じぶんのことを「正統」と位置づけ、他人のことを「ニセ」と決めつけてから話しはじめる人間の「合理的な話」なんて、だれも聞く気になれません。

 「ごちゃごちゃ言う」で勝負するのはもうダメなんです。マウントを取りに行ってもダメなんです。話せばわかってもらえるというのは、科学を「信じている」ひとの思い上がりで、信じているものも、その信じかたも、ぞれぞれちょっとちがっているものです。

科学サイドの敗因3:欺瞞的な態度

 科学のセンスとしては「ほんとうはないのにあるって言っているやつ」に厳しいです。STAP細胞のときは、そのマインドがよく見られました。

 逆に、「ほんとうはあるものをないと言っていた」ときはすぐにコロっとします。ないよないよ、え、あったの、あの偉い先生も確認した、なるほど、あったあった、というわけです。

 この欺瞞的な態度が一般人にバレています。「危険性があるのにないって言っていた」とき、科学サイドはいつものように「あったあった」で済ませるわけですが、一般人からしたら困るわけです。

 「役に立つ」ことが建て前としてある以上、それでは困るのですね。だれも「なんだよ~危険性あったのかよ~笑」では済ませてくれません。

 このセンスの食い違いが、ニセ科学のフィールドです。ニセ科学は「ほんとうはある」を丁寧に語りかけます。ニセ科学おなじみのフレーズは「いまは科学で認められていないけど、未来で認められる」です。このフレーズは試合巧者、ほんとうに絶妙です。

 なぜなら、科学サイドにも、実際にそういうことがあるからです。地動説や超伝導のような、「当時は認められなかったけれど、その未来で認められた」みたいな案件がいくつもあるからです。

まとめ

 最後にタイトルとおなじことを問いたいです。科学とニセ科学をわけて、どうしたいのでしょうか。科学者の飲みの席で「ポパーが~」とか「ガートナーが~」とやるのはよいとして、実際的な問題として、それが科学のためになっているのかどうか、やっぱり私にはよくわかりません。

 ひとによっては、相手をバカにするためであったり、知的レベルの自己満足的な格付けをするためだったり、不器用な啓蒙のためだったり、科学者としての矜持のためだったりするのでしょうけれど、見直すようなところってまだまだあるんじゃないかな、というサジェストでした。


画像:Tianshu Liu

Chihiro Aisaka – Novelist and Photographer.