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企業・経営 週刊現代

「20代で借金作って夜逃げ…一寸先は闇だった」ダイソー社長が告白

100均の帝王「小心者」の兵法

借金を抱え広島から上京。トラックで移動販売を始めるも火事ですべてを失い、人生の怖さを知った。それでもお客様第一主義を貫き、一代で100均の頂点を極めた矢野社長に人生哲学を聞いた。

ずっとはうまくいかない

――昨年度の売り上げは年間4200億円。国内に3150店、海外の26の国と地域に1800店、合計4950店。販売する商品数は約7万点で、1ヵ月に700点もの新商品を開発している。

『ダイソー(大創産業)』は、まさに100均(100円ショップ)の雄となったわけですが、振り返ってみていかがですか。

「10年前までは、『100均なんて底の浅い商売だから、やがては潰れる』と確信を持っていました。ものごとは、ずっとはうまくいかないんですよ。店舗数が増えるのが怖くて『出すな。出すな』と周囲に言ってきた。

基本的に私は小心者なんです。ずっと、この性格はいやじゃなあと思っていた。なんでこんな心配性で、人の何倍も気を遣う性格なんじゃろと。でも臆病で悲観的だったからこそ、ここまでこられた。

『もっといいものを作らないとすぐお客さんに飽きられる』という恐れが、新しい商品開発にもつながった。ありがたいことですよ」

 

――矢野博丈社長(74歳)とは、同じ広島出身なので非常に親近感を感じていました。

以前から社長は「自分は大した人間じゃない」と謙遜されていましたが、とはいえ、ここまでダイソーを大きくしたわけですから、商売の才能があったんじゃないですか。

「そんなものないですよ。ただ、働くのは大好きでした。肉体労働が好きなんです。資金繰りが悪くなって、不安になると、自分で倉庫に行って商品出しをする。するとストレスもなくなるし、落ち着くんです」

――そもそも100均を始めたきっかけは何だったんですか。

「簡単に言うと計算がめんどくさかったから。最初はトラックに商品を積んで移動販売をやっていたんですが、お客さんが次々にやってきて、『これいくら?』『これは?』と聞くんです。手が回らなくて、『全部100円でいいや』と言ってしまった。

当時('70年代前半)は原価70円のフライパンが150円で飛ぶように売れた時代。それを100円で売れば利益は30円しかない。まずいなと思いましたが、結果的にはそれがよかった。人生には無駄がないと言いますが、自分に不利な選択をしたことが結果オーライでした。

儲けよう儲けようと思っているころは儲からんのですよ。かつてダイソーが倒産の危機をむかえたとき、あえてバイヤーに『倒産回避以外の価値観を求めるな』と言ったんです。

倒産さえせにゃええんじゃ、儲けようと思うな。利益より、売れりゃあええんじゃと、そう考えるようになってから、道が拓けました」

――「しょせんは100円均一だ」とバカにされたこともあったとか。

「スーパーなどで店頭販売をさせてもらうときに名刺を出すと、100均の文字を見て『安売りかあ』と言われるんです。

そんなときは『100万円の車なら安物ですが、100万円の家具なら高級品です。うちは100円の高級品を売っているんです』と言い返してきました。

それでも、お客さんから『安物買いの銭失い』と言われたときはショックでした。どうせこんな安物すぐ壊れるから買うだけおカネがもったいないと。100円で100円の価値のものしか買えなかったらお客さんは興味をもちません。100円でこれだけのものが買えるのかと思ってもらえないとダメなんです。

いま思えば、100円という上限があったのがよかった。そのなかで商品をどう工夫するか、流通コストをどう抑えるかに集中することができた」