2017年12月05日

「議論」「討論」に対する妙な偏見は、一体どこから来ているのだろう

単純な疑問であって、特に結論出してどうこうという話ではないんですが。

昨日、こんなツイートを見かけました。

討論と対話の違い、ということなんですが、これ、パッと見で違和感を感じませんか?

「声の大きい人有利」とか、「考え方が変わらない」とか、それ、明らかに討論じゃないだろ、と。それは討論もどきというか、「討論のやり方を知らない人が考える間違った討論のイメージ」でしかないだろ、と。

議論や討論というものは、根本的には「違う考え同士をすり合わせることで、新しい知見や妥当な結論を導き出す」為にやることだ、と思います。ディベートって言葉も、だいぶ一般的になりましたよね。


ゴールとして「新しい知見や妥当な結論を導きだす」ということが共有されていれば、「声の大きい人有利」だとか「気まずい雰囲気になる」とかいう話はすいません何語ですか?という程度に意味不明ワードになります。相手の話を大きな声でかき消して、一体どんなすり合わせが出来るんですかという話だし、勝つとか負けるとかいう問題ではないのだから気まずくなりようがないですよね。

ただ、この「新しい知見や妥当な結論を導きだす」というゴールが、案外共有されていないというか、もしかすると常識ですらないのではあるまいか、と。

以前、似たようなことを書きました。


手前味噌ですが、少し引用してみます。
「新しいものを見つける」という議論の目的の為には、積み上げが必要だ。Aという知見に対して、Bという知見を加えることによって新しいCという視点を見つける。前の言葉、前の論点に色んなものを少しずつ積み上げていく。それが議論だ。というか、「積み上げ」が存在しないと議論にはならない。

ところが、どうも「積み上げる議論」ではなく、その場その場で言葉を投げつけあって、その言葉の勢いのあるなしで「勝ち負け」を判断する、言ってみれば「言葉のぶつけっこ」を議論と考える人が、たまーにいる様な気がする。そういう人にとっては、何か新しい知見を導き出すことではなく、相手の弱点を探り出して、とにかく相手をへこませることが「勝ち」だったりする。

つまり、この「言葉のぶつけっこ」がまさに討論であり、議論である、という勘違いは想像以上に広かったりしねえかと思ったのです。

冒頭のツイートを見て、一つ思い出した増田がありました。これです。

はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない
あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
これはもちろんおそるべき低知性・低学歴の表出と取っていいと思うけど
ディベートやディスカッションの訓練をしない日本の公教育カリキュラムの悪影響も合流してると思う。
意見をぶつけ合うことは異常事態であって悪いこと。

これ、都議会議員選挙に先立つ、今井絵里子氏の「批判なき選挙、批判なき政治」という言葉に反応してた人達を評して書かれた記事なんですけど、実は私、これ見て結構「あ、妥当かも」と思ったんですよ。

ある考えに対する新しい知見っていうものは、そもそも批判とワンセットで導出されるものの筈であって、そこから考えると議論や討論に「批判」は必要不可欠なものである筈なんですけれど、確かに「批判」を「悪いもの、和を乱すもの」と捉える人は、いる。存在する。

一点この増田と私の意見が異なるところは、これは別に「低知性・低学歴」の表出ではなく、ちゃんと教育を受けて、大学を出て、うっかりすると大学でディベートの授業を受けた人の中にすら普通に存在するんじゃないか、と思っているところなんですけど。

で、この二つの、つまり「批判を悪いものと考える」向きと「討論を言葉のぶつけっこと勘違いする向き」って、もしかすると地続きなんじゃないか、と思ったんですよ。

批判というものは相手を傷つけることであって、するべきではないこと。
討論というものは相手の考えを否定すること。
議論というものは相手をやりこめること。
相手をやりこめるから、嫌な気分になる。考えが変わらない。

だから「討論ではなく対話をしましょう」などという、よく意味が分からない謎の結論に着地してるんじゃねえか、と。

当たり前のことなんですけど、批判と人格否定はイコールではないですよね?いくら相手の意見を批判したところで、その人自体を否定したことにはなりません。私はその意見に与しないけれど、あなたがその意見を言うことを否定するものではない。それは、ディベートにおける基礎のキ、レベル1の魔法使いでもメラくらい覚えてるよね、というレベルの必須事項です。


けれど、「人格否定と批判を、実施レベルで分離出来ない人」というのは、実は想像以上に多いんじゃねえか、と。


ちょっとまだちゃんと確認出来ていないんですが、冒頭ツイートの画像も、れっきとした大学教授が書かれたものである、という話も観測しております。つまりこれは、必ずしも教育や知性の問題ではない。むしろ、考え方や認識の方向性に、割と根本的なところで断絶がある層があったりするんじゃねえか、と。そんな風に思うのです。


ここで、単純な日本人論にするのはあまり妥当な結論に結びつかないような気がします。「日本人の性質」とか「和を以て貴しとなす」とかいうのは、主語をでかくし過ぎて話をぼやっとさせるワードです。個人的には、断絶があるとしたら、むしろ小中学校くらいの割と早い内に受けた教育に何か淵源があるんじゃないか、と考えています。すいませんまだあんまり根拠ないんですけど。

ただ、幾つか確実なこととして、

・批判と人格否定はワンセットではないんですよ
・だから、討論と批判が不可分だったとしても、それは「相手を否定すること」「相手をやりこめること、傷つけること」ではないんですよ
・逆に、批判という体で人格否定をしている人は、根本的に議論や討論が出来ていない人なのでそう考えて対応すれば(あるいは対応しなければ)いいと思います

ということについては、当たり前のようなんですが、ちょこちょこ確認しておいても損はなさそうだなーと考えたのです。


今日書きたいことはそれくらいです。

posted by しんざき at 07:09 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

検索する
投稿する