単なる「人為ミス」で片付けない、JAXAの危機意識
2016年6月15日、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の奥村直樹理事長は定例記者会見で、X線天文衛星「ひとみ」の喪失事故について陳謝し、理事長、副理事長、宇宙科学研究所(ISAS)所長の3名の厳重注意と給与の一部自主返納を発表した。
チャレンジと失敗がつきものの科学研究で、失敗を理由に関係者が処分されることは極めて異例だ。しかし筆者は、これは今回の「ひとみ」喪失事故の本質を的確に表していると考える。というのも、処分対象は管理責任者であるJAXA役員であって、「ひとみ」開発チームではないからだ。
調査報告書を読んでも、科学的な研究の失敗を問題視するような点は見受けられない。むしろ宇宙開発に限らず「仕事の進め方」において陥りがちな、様々な問題点が赤裸々に書き出されている。このため、個々の研究者の「人為ミス」として片付けるのではなく、組織全体の運営の問題であるとJAXA上層部は考えたのだろうと、筆者は理解した。
そこで「ひとみ」喪失事故から見えてきたJAXA、ISASの組織的問題を複数回の連載で明らかにしていきたい。1回目となる今回は、「ひとみ」がゆっくりとした異常回転を始めた理由を見ていく。
異常回転を起こした「ひとみ」の設計
筆者は[X線天文衛星「ひとみ」、2重のトラブルで「自分で回った」と推定][X線天文衛星「ひとみ」、浮かび上がった3つの問題点]という2回の記事で、「ひとみ」が回転を始めた理由について解説し、その問題点と疑問点を指摘した。その後JAXAが公表した調査報告書で、筆者が指摘した疑問点は全て説明された。個々のトラブルの詳しい内容はこれまでの記事を参照していただくとして、筆者が示した疑問点とその回答を見ていこう。
観測時間確保のため、急いだ姿勢修正
第1の疑問点は、衛星の姿勢を実測するスタートラッカ(STT)が不意にリセットしてしまい、衛星の姿勢を推定する慣性基準装置(IRU)が通常より大きな誤差のあるデータを出したにも関わらず、その値をそのまま採用して姿勢の修正をしてしまったことだ。自動車の運転を想像してみるといいだろう。「自分はズレているのではないか」と思ったとき、あわてて急ハンドルを切ると必要以上の操作になってしまうことがある。「ひとみ」は実際には大きくズレていなかったのに、必要以上の姿勢変更をしてしまった。
そのような設計をした理由は、「早く姿勢修正を終えたかったから」だった。「ひとみ」は天文観測衛星だから、望遠鏡を正しく天体に向けなければならない。姿勢修正に時間が掛かって観測時間が減らないよう、素早い姿勢変更をするよう設定したのだった。
揺れを防ぐため、故障判定に予備センサーを使用せず
第2の疑問点は、過大な姿勢修正でズレてしまった姿勢推定値とSTTの実測データが整合しなかった結果を、「ひとみ」のソフトウェアはSTTの故障だと判断してしまったことだ。STTには予備があるので、そちらを使ってみればSTTの故障ではないとわかったはずだ。
これは、予備のSTTに切り替えた瞬間に衛星が揺れてしまい、天文観測に支障が出ることを避けたためだった。また予備のSTTはまだ調整が終わっておらず、使用不能でもあった。
待機時間を減らすため、監視時間外の姿勢変更
第3の疑問点は、姿勢変更後20時間もの間、地上から「ひとみ」の状態を確認していなかったことだ。この間に動作状態のデータを受信して確認していれば、地上からの操作で回復できた可能性が高い。
この理由も、観測時間を長く確保するためだった。「ひとみ」の軌道は地上575kmと、人工衛星としては低い。このため地上のアンテナ近くを通過する時しか通信ができない。ある天体の観測を終えたあと、地上のアンテナ近くを通るタイミングまで待機していたのでは時間がもったいない。「ひとみ」打ち上げ後しばらくは地上アンテナの通過タイミングを狙って姿勢変更を行っていたのだが、うまくいっていたので通過を待たずに姿勢変更することにした。その矢先に今回のトラブルが起きてしまったのだった。
高性能と引き換えの「余裕のない設計」
ここまでの原因を見ていくと、個々の問題はそれだけでは致命的ミスとは言えないし、決して手抜きをしたわけでもないことがわかる。むしろ、天文観測衛星としてより多くの観測をしようとして、意欲的に努力を重ねた結果と言うべきだろう。しかし結果としてこれらの努力は、「ひとみ」から余裕を失わせてしまった。
最初の引き金を引いたSTTのリセット自体は珍しいことではなく、「ひとみ」打ち上げ後1か月あまりの間に20回も起きている。その都度「ひとみ」のソフトウェアは適切に処理して対応していた。しかし、ある特定のタイミングでSTTに異常が起きると、次々と余裕のなさが連鎖して、解決不可能になってしまった。
「要求以上の要望」に応え続けた果てに
「ひとみ」の目的は天文観測であり、天文学者はより多くの、より高度な観測ができることを望んでいる。つまり天文学者は「ひとみ」のユーザー、いわば「お客様」にあたる。一方、衛星を開発し製造する研究者は一般的な仕事で言えば「サービスする側」だ。
JAXAは報告の中で「要求以上の要望」という言葉を使った。「お客様」と「サービスする側」の間で、提供するべきサービスを定義するのが「要求」だが、実際にはお客様は「もっとこうだったらいいな」という「要望」を出すことも多い。「ひとみ」は本来の要求書に定義された目標以外にも多くの「要望」に応じ続けた結果、設計段階でのリスク管理が不充分になってしまったと言える。
「120点を目指して0点」にしない組織
こういったことは宇宙開発以外でもよく起きるのではないか。意欲的で有能な人ほど、できるだけ高度な成果を出そうとチャレンジする。しかし、時間と予算は有限だ。要求通りの100点満点を超えて120点を狙おうとした結果、余裕のない仕事になり、結果として大きなトラブルで0点になっては無意味になってしまう。困難なチャレンジをするときこそ、その準備は丁寧に確実にしなければならないものだ。
より高いレベルを目指そうという研究者のマインドは、科学研究の分野では絶対に必要だ。そして、その仕事を適切に管理し、助言し、確実に成果を挙げていくための組織的運営の重要性を、JAXAは「ひとみ」喪失という大きな代償と引き換えに再確認したようだ。
次回は、さらに衛星を高速回転させてしまったパラメータ設定ミスを含む、「ひとみ」の運用体制について考える。
Image Credit: 池下章裕、JAXA