自分を好きになってくれない人や身勝手な人ばかり好きになり、不安定な恋愛関係に陥ってしまう女性たちへ。
「私は最初から私を好きじゃなかった」――自己肯定感の低い著者が、永遠なるもの(なくしてしまったもの、なくなってしまったもの、はなから自分が持っていなかったもの)に思いを馳せることで、自分を好きになれない理由を探っていくエッセイ。
永遠なるものたち010
「転校生」
by Pixabay
目を覚ましても、もう、今日も私が私であることや、昨日と同じ私の生活が続いていることに絶望したりしません。もしかしたら私は、本当は違う誰かで、今日は偶然この人生を生きることになったのかも、とか、いつかまったく違う人間になるかも、とか、そういうことも考えません。
小さい頃は死んじゃうみたいで眠るのが怖かったけれど、学校に通い始めると次第に、眠りから覚めても生活が変わっていないことに苛立つようになって、大人になれば睡眠はただの睡眠で、それで生まれ変わったりするわけではないことがわかります。
毎日、ただ目を覚まして、一瞬、窓の外の天気に気を取られて、今日の予定を思い出しながら枕元に置いてある本を読み、きりのいいところでベッドから抜け出して、お湯を沸かしながら、ストレートアイロンの電源を入れて、歯を磨いて、お湯をティーポットに入れて、お茶を飲みながら寝癖を伸ばして、今日は移動が長いからヒールの低い靴を履こうと思い、靴に合う服を思い返しながら、洗面所を離れて自室に向かっている途中で、その日は、なんとなく流しっぱなしになっているテレビに目が止まりました。
画面にずらりと並ぶのは、アパートで殺害された9人の写真と名前。
私はチャンネルを変えようとしたのか、音量を上げようとしたのか、自然とリモコンに手をかけていました。
もう私は、私が私でいることや、この人生が続いていることに絶望していない。
その気持ちが、手を伝ってくるリモコンの生活感の先にある「リアル」に揺さぶられます。誰かがこの人生から救ってくれるかもしれない。いつもの歯ブラシや、ストレートアイロンがない世界に連れて行ってくれるかもしれない。
被害者の写真はほとんどが学生時代のもので、地味な制服が並んでいるせいで画面全体がグレーに映ります。私もこういう制服を着ていました。そして人生がグレーに見えていました。近くにいる人には絶望していて、遠くにいる知らない人が私を助けてくれるような気がしていました。その気持ちは誰にも共感されなくて、危ないと言われても、わかってもらえなくても、危なくてもいいから、この生活から抜け出したい。そんな切実な願いが、たしかに私にもあったのです。
私を救ってくれるかもしれないという期待
転校生はいつも突然、私たちの日々にやってきます。
転校生が学校に来る日、私はほかの子と同じように彼らの机を囲むことができませんでした。恥ずかしかったのです。人見知りのせいではなく、食事をしているところを見られるような恥ずかしさがありました。知らないところから来た知らない人が、私を救ってくれるかもしれない。その本能にも似た欲求を、誰かに悟られたくなかったのです。
転校生を囲む子供達の熱気には、異様なものがあります。まだ、学校と、家と、塾などの習い事くらいしか世界を知らないので、どこか遠くからやって来た子に好奇心を抱くのは当然かもしれません。しかし、たいていの場合、しばらくすると転校生の方がクラスの一員に馴染んで、元の学校生活が続いていくのです。
だからと言って、転校生は少しでも目立つとクラスの輪に入れません。私が机を囲めなかったのは、周囲に群がっておきながら、転校生が本当に目立つ存在であることがわかると、同級生たちが途端に離れていくのを知っていたせいでもあります。その一員になりたくなかったのです。
たとえば、アメリカからやって来た帰国子女の女の子。派手な服装と、はっきりした物言いを気にくわない子たちがいて、度々衝突していたのですが、いつからか学校に来なくなってしまいました。
「アメリカでは積極的に発言しないと潰されちゃうから。でも日本では目立っちゃうんだよね」
かしましい女の子が言っていたのを覚えています。きっと誰かからの受け売りでしょう。だって彼女はアメリカに行ったことがありませんでした。もちろん私も行ったことがありませんでした。でもそれが転校生を傷つけてよい理由にならないことは、話した本人も気づいているようでした。
どういうわけか私たちには、変化を望みながら、変化を感じると排除しようとしてしまう習性もあるようでした。
ひとり、いつもとは違う転校生がいました。
小学校中学年くらいの頃、クラスの何人かが先にその子と近所の公園で遊んだとかで、「これから転校生が来るらしい」と話題になっていました。
その男の子は引っ越してきたばかりで、まだこっちの学校には通っていないと、遊んだ子が得意げに話しています。噂は本当で、私も彼が転校して来る前に公園で会いました。腕がすごく細くて長い男の子で、もうみんなと仲良くなっているようです。
しかしそれがどういうわけか、しばらく経つと彼の悪評がクラスに広まりはじめました。最初は誰か喧嘩でもしたのかと思いましたが、そういうわけでもないようで、しまいには誰が言い出したのかもわからない悪口が、その場にいない彼のイメージに定着していました。彼に会ったことがない子にも不安が広がります。
ついに見かねた先生が、「ただでさえ新しい環境で不安なのに、そんな風に言われていたら転校して来づらいだろう」と諭しました。その通りです。どうしてこんなことになってしまったんだろう。期待と不安で浮き足立っていた教室中が、先生の言葉に納得して、一気に我に返ったのです。
どこか遠くにいきたい。
でも、この人生が悪いわけじゃない
私は彼の名前も顔も覚えていないのですが、転校してきてからの彼の学校生活は問題なかったと思います。なぜおぼろげなのかというと、彼はまたすぐどこかへ転校して行ったからです。
記憶に残っているのは深い緑色の半袖から伸びた細長い腕と、その後ろでカラフルなジャングルジムが回っていたこと。彼がすぐに周囲と打ち解ける男の子だったことです。
それからなんとなく私たちのクラスは変わりました。
その後も時々やって来る転校生は、依然として机を囲まれていましたが、その子への好奇心というより、学校について相手が知らないことを教えたり、困っていないか気遣ったりしているようでした。
そのせいもあって、私たちのクラスは先生や保護者たちから「大人びている」と言われるようになり、高学年になってからは学級崩壊を起こして、「変に大人びていたから」と言われるようになりました。
我に返った時、私たちは遠くから来る知らない人が生活を変えてくれることに期待するのをやめたのだと思います。それまでの浮き足立っていた自分に気づいて、それが子供じみた欲求であることを知ったからです。そして、急にこの生活がずっと続いていくことを理解した結果が、あの学級崩壊だったのではないかと思います。
一方で、入学式から一緒に過ごしてきた女の子が、中学年くらいで転校していったこともありました。すごくおっとりとした、絵が上手な女の子で、おとなしい性格で目立つ方じゃなかったけれど、みんなに好かれていました。両親がレストランを経営していて、レストランごとどこかにお引越しして行ったのです。
みんな寂しかったけれど、忙しいクラスの雰囲気が彼女には窮屈そうで、どこか遠くへ引っ越していくことに納得していたような気もします。行き先は忘れてしまったけど、一度だけ彼女の母親から手紙が届いて、先生が読み上げてくれたことがあります。
そこには彼女の新しい生活について、「今日も楽しそうにお花を摘んでいます」と書かれていました。都心を離れて、緑に囲まれて暮らしている彼女の姿が、ありありと心に浮かびました。隣の席の女の子もそうだったのでしょう。「いいなあ」と、心底憧れている様子でため息をついていました。「私もそっちに行きたい」と。
どこか遠く、ここではないところに行きたい気持ちを、私たちは持っています。
でも、誰かにとっては私のいる場所も、どこか遠く、なのです。
この人生が悪いわけじゃない。この人生を私が肯定できていないだけなのです。
ニュース番組は一転して、明るいテンションで別の話題を続けていたけれど、私はまだリモコンに手をかけたまま、不意に思い出した誰かに救われたい気持ちから逃れられずにいました。
Text/姫乃たま